師範学校

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東京文理科大学附置東京高等師範学校
両校は校地を共にしており、東京教育大学を経て現在は筑波大学東京キャンパス文京校舎および教育の森公園となっている。

師範学校(しはんがっこう)とは、教員を養成する学校であり、戦前の日本および日本の統治地域に存在した、初等・中等学校教員の養成(師範教育)を目的とした中等・高等教育機関とされ、教員養成機関のひとつ。

1872年(明治5年)9月からの約1年間、「師範学校」は東京に設置された日本初の教員養成機関(後の東京高等師範学校東京教育大学を経た現在の筑波大学の前身)の固有名称であった。これが1873年(明治6年)8月に他の6大学区での官立師範学校設立に伴い「東京師範学校」と改称したため、以降「師範学校」は教員養成機関の総称となった。

修了までの年限は高等小学校卒業後4年(後に5年)、中等教育課程(旧制中学校等)修了者は1年(後に2年)。

概要[編集]

千葉師範学校(1934年)
埼玉県女子師範学校(1928年)
静岡師範学校(1930年)
富山県師範学校の食堂(1909年)
大邱師範学校朝鮮・1935年)
台中師範学校台湾・1930年頃)

師範学校は、卒業後教職に就くことを前提に授業料がかからないのみならず生活も保障されたので、優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割も果たしていた。師範学校→高等師範学校文理科大学というコースをたどれば、学費無料で中等学校→高等学校→帝国大学というルートに匹敵する教育が受けられたため、経済的な理由で進学を断念せざるをえない優秀な人材を多く吸収した。

この制度に助けられた人物に、明治・大正期の陸軍軍人秋山好古や、昭和期の軍人・韓国大統領朴正煕(どちらも教師を経て陸軍士官学校入学)、朝鮮戦争で創設まもない韓国軍の若き指揮官として活躍した軍人・外交官・実業家である白善燁(師範学校卒業後は満洲国の軍官学校(士官学校)に入学したため、勤務義務は免除された)、実業家五島慶太(東急グループ初代総帥、旧制上田中学卒業後、小学校の代用教員を経て東京高等師範学校→英語教師→東京帝国大学選科)らがいる(なお作家菊池寛は家庭の経済的事情で東京高等師範学校に進むことを余儀なくされたものの、素行が原因で退学処分を受け、素封家からの援助を取り付けて一高に入学し直した)。

しかし一方で、師範学校の寮生活において、学校によっては上級生による下級生へのいじめ、しごきが問題となった。そのため、全寮制を廃止した学校もあった(広島県師範学校など)。また、卒業生の中には「師範タイプ」と称された融通がきかない教師もおり、この存在は戦前においても問題視されていた。

師範学校と徴兵制度[編集]

日本の徴兵制度において、師範学校の学生は最大25年の徴集延期が可能であった。また、師範学校を卒業して小学校の教職に就く資格を有する者は、短期現役制度により5か月間の兵役のみとされていた。しかしながら日中戦争が拡大した1939年(昭和14年)には兵役法が改正され、徴収延期期間は早生まれの者22年、遅生まれの者23年に短縮(高等師範学校生徒はそれぞれ1年追加)、短期現役制度は廃止(一般兵と比べ陸軍は40日、海軍は1年40日の短縮制度あり)とされた[1]

第二次世界大戦後[編集]

そして戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) が米国にならって教員養成を大学で行うよう指導したこと、師範学校側も大学へ昇格する道が開けたことから、かかる指導を積極的に受け入れ、師範学校は消滅した。その結果、戦後、各地の師範学校はアメリカ合衆国の「リベラルアーツカレッジ」などを手本にして、旧制諸学校を包有した新制大学教育学部学芸学部として再出発することとなった。しかし、大学への移行に伴う教官の審査では、当然研究者としての実績が重視されたため、黒板の書き方や学級経営など実務ノウハウしか持ち合わせなかった旧制師範時代の教官の多くは審査の結果不適格として教壇を追われた。このためこの時期に大幅に教官を入れ替えた学校が多く、また県内の師範、青年師範のキャンパスも順次統合されていったため校風は大きく変化した。一方で多くの優秀な旧制中学校などの教員が引き抜かれ教授や助教授として迎えられた。

カリキュラムは当初「リベラルアーツカレッジ」にならって教養教育に重きが置かれ、大学によっては医学部への進学課程等も置かれていたが、戦後、小・中学校が整備されるとともに卒業生の進路も教員が主流となり、1966年(昭和41年)に改正国立学校設置法が施行されると、ほとんどの学芸学部は教職以外の分野に進むコースを順次廃止し、その名称を「教育学部」へ変更するようになった。そこに「教員養成課程」がおかれてここで主に小学校教員、中学校教員、幼稚園教員、養護学校教員(現特別支援学校教員)が養成されることになった。
一方、1980年代後半にかけ、学校教諭の採用数が減少しだし、教員養成課程の入学定員が過剰気味となって、学部を分割しないまま教員養成を目的としない教養課程などが再び教育学部に置かれることとなった。いわゆる「ゼロ免」課程であるが、2010年代に教員の大量退職が生じると、多くの大学でゼロ免課程は再び教員養成課程に戻された。

現在の制度では、あらゆる学部から教員免許を取得できるようになっている。各大学で開講される教職課程の科目を履修し、教育実習などを受けて、定められた単位を取れば教員免許の要件を満たすことになる。しかしこれに伴い教育学を専門に学ばなかった学校教員の力量不足が指摘されるようになり、師範学校的な制度を復活させるべきであるという議論も一部にはあった。しかし、専門職養成は大学院レベルで行うことが世界的な潮流であり、日本においても法曹を含む高度専門職養成のために、専門職大学院制度が導入されたことともあいまって、これからの教員に必要とされる高度なスキルの習得は大学院レベルで行うこととなった。そこで専門職大学院のひとつとして教職大学院制度が導入され、2008年4月1日(平成20年度)から開設された。薬学部のように6年制課程への改編が検討されたが、諸般の反対により実現していない。4年制のまま、実践的なカリキュラムへの改編を勧めること、10年毎に教員免許の更新制度導入が代わりに進められた。但し、更新制度は形式的な講習を受けるだけのものとなり、いたずらに多忙な教員の休暇が失われるだけで、実効性が薄いとの批判がある[2]

経緯[編集]

1872年 - 1886年[編集]

官立師範学校[編集]

府県立師範学校[編集]

1886年 - 1897年[編集]

高等師範学校・女子高等師範学校[編集]

高等師範学校は、中等教員を養成する学校である。以下の学校が存在した。

尋常師範学校[編集]

尋常師範学校は、初等教員を養成する学校である。各府県に1校設置され男子部と女子部が置かれた。

1897年 - 1943年[編集]

高等師範学校・女子高等師範学校[編集]

奈良女子高等師範学校(1930年頃)

1897年(明治30年)の師範教育令により、高等師範学校は師範学校、尋常中学校、高等女学校の教員、女子高等師範学校は師範学校女子部、高等女学校の教員を養成することが定められた。
高等師範学校は中学校卒業、女子高等師範学校は高等女学校卒業を入学資格とした。

学士の称号を授与されるのは大学の卒業者のみが原則であるが、東京高等師範学校専攻科広島高等師範学校徳育専攻科の卒業生についてのみ、特に文学士と称することが認められていた(高等師範学校専攻科卒業者の称号に関する件(昭和5年勅令第36号))。

師範学校・女子師範学校[編集]

1897年(明治30年)の師範教育令により尋常師範学校は「師範学校」に改められ、各道府県に1校または数校設置されることになった。1920年代後半までに女子部は女子師範学校として分離された。

高等小学校(小学校高等科)卒業を入学資格とする本科第一部(1925年から5年制)と、中学校もしくは高等女学校卒業を入学資格とする本科第二部(1907年に制度化、1931年から2年制)が置かれた。

第一部の学科目は修身、公民科、教育、国語漢文、歴史地理、英語、数学、理科、実業(男生徒)、家事裁縫(女生徒)、図画、手工、音楽、体操が必修で、さらに第四学年以上では国語漢文、歴史、地理、英語、数学、理科、実業、家事裁縫(女生徒)、図画、手工、音楽の中につきその数科目を増課選修させた。第二部の学科目は修身、公民科、教育、国語漢文、歴史地理、数学、理科、実業(男生徒)、家事裁縫(女生徒)、図画、手工、音楽、体操が必修で、さらに国語漢文、歴史、地理、英語、数学、理科、実業、家事裁縫(女生徒)、図画、手工、音楽の中につきその数科目を増課選修させた。

また専攻科が、本科の学科目またはこれに関連する学科目についてさらに精細高等な学修をさせる目的で設けられた。修業年限は1年。入学し得るのは、師範学校卒業者またはこれと同等以上の学力を有する者。専攻科は修身、哲学、教育、国語漢文、実業(男生徒)、家事裁縫(女生徒)、体操が必修で、さらに公民科、心理および倫理、国語漢文、歴史、地理、英語、数学、理科、実業、家事裁縫(女生徒)、図画、手工、音楽、体操の中につきその数科目を増課選修させた。

本科生徒は最終学年中一定期間教生として付属小学校において教育実習をしなければならない。師範学校においては一般に授業料を徴収しないこととなっていて、なお各府県においてそれぞれ或る数の生徒を限って公費生として若干の学費が給与された。 また師範学校本科卒業者には各府県から本科正教員としての教員免許状が付与され、かつその府県内の小学校教員に任命された。

樺太

台湾

  • 台北師範学校(1899 - 1902)→台北師範学校(1920 - 1927)→台北第一師範学校(1927 - 1943)
  • 台北第二師範学校(1927 - 1943)
  • 台南師範学校(1899 - 1904)→台南師範学校(1919 - 1943)
  • 台中師範学校(1899 - 1902)→台中師範学校(1923 - 1943)
  • 新竹師範学校(1940 - 1943)
  • 屏東師範学校(1940 - 1943)

朝鮮

  • 朝鮮総督府師範学校(1921 - 1922)
  • 慶尚北道公立師範学校(1923 - 1929)→大邱師範学校(1929 - 1943)
  • 平安南道公立師範学校(1923 - 1929)→平壌師範学校(1929 - 1943)
  • 京畿道公立師範学校(1923 - 1931)
  • 黄海道公立師範学校(1923 - 1931)
  • 咸鏡南道公立師範学校(1923 - 1931)
  • 咸鏡北道公立師範学校(1923 - 1931)
  • 咸興師範学校(1937 - 1943)
  • 江原道公立師範学校(1923 - 1931)→春川師範学校(1939 - 1943)
  • 全羅南道公立師範学校(1923 - 1931)→光州師範学校(1938 - 1943)
  • 全羅北道公立師範学校(1923 - 1931)→全州師範学校(1936 - 1943)
  • 慶尚南道公立師範学校(1923 - 1931)→晋州師範学校(1940 - 1943)
  • 忠清南道公立師範学校(1923 - 1931)→公州女子師範学校(1938 - 1943)
  • 忠清北道公立師範学校(1923 - 1931)→清州師範学校(1941 - 1943)
  • 平安北道公立師範学校(1923 - 1931)→新義州師範学校(1942 - 1943)

関東州

満州

  • 在満師範学校(1941 - 1943)

1943年 - 1952年[編集]

高等師範学校・女子高等師範学校[編集]

1943年(昭和18年)の師範教育令により、高等師範学校は中学校と高等女学校の教員、女子高等師範学校は高等女学校の教員を養成することが定められた。1947年の学校教育法制定と1949年の国立学校設置法により、東京高師は文理大と合併し東京教育大学に、広島高師広島女高師とともに広島文理大旧制広島高校旧制広島工専等と合併し広島大学に、東京・奈良両女高師は大学に昇格しそれぞれお茶の水女子大学奈良女子大学に、金沢高師金沢大学教育学部になった。また、岡崎高師は、戦災で岡崎市から豊川市に疎開後、岡崎市に戻ることなく、名古屋大学教養部(1993年に情報文化学部、2017年に情報学部へ改組)の豊川分校になった(名古屋大学教育学部は戦後の新制大学発足時に改めて学部として新設されたもので、高師の系統を汲んでいない)。

1947年(昭和22年)、帝国大学令が国立総合大学令と名称変更されて帝国大学は「国立総合大学」と改称され、また1949年の国立学校設置法が、1951年以降国立学校設置法の一部を改正する法律(昭和26年第84号、昭和27年第22号)によって改正されたことにより、1952年4月1日から、それまでの師範学校は大学の教育学部、学芸学部等に名称を変更した[注釈 1]

師範学校[編集]

1943年から、師範学校は国民学校教員を養成する官立の専門学校程度の教育機関となった。師範学校には本科予科が置かれ、本科は中学校もしくは高等女学校卒業生、予科は国民学校高等科の卒業生および中学校もしくは高等女学校2年修了者が入学できた。 全国に以下の師範学校があった。カッコ内は新制大学。

樺太

台湾

朝鮮

関東州

満州

  • 在満師範学校→新京師範学校
  • 牡丹江師範学校(1944年 - )[7]

青年師範学校[編集]

1944年の師範教育令改正により、青年学校の教員養成をしていた都道(庁)府県立の青年学校教員養成所が、官立の、専門学校レベルの教育機関である青年師範学校になった。予科を修了した者、中学校または高等女学校を卒業した者が入学でき、男子部と女子部がおかれていた。全国に以下の青年師範学校があった。カッコ内は新制大学。

樺太

台湾

  • 彰化青年師範学校

その他の教員養成機関[編集]

師範学校以外の官立教員養成学校[編集]

  • 帝国大学及び官立専門学校 - 専門学科の他教育に関する一定の科目を修了した者にも中学校高等女学校の免許状が授与された。
  • 臨時教員養成所 - 師範学校、中学校、高等女学校の教員養成
  • 実業学校教員養成所 - 実業学校の教員養成
  • 実業補習学校教員養成所 - 道府県市において設置される実業補習学校の教員養成

臨時教員養成所[編集]

高等師範学校とは別に帝国大学及び直轄諸学校内に臨時教員養成所が設けられ、師範学校、中学校、高等女学校の教員不足の解消が図られた。ことに大正末から昭和初期にかけては、臨時教員養成所の定員は高等師範学校の定員の半分を超える規模で(1926年(大正15年)当時:臨時教員養成所生徒数1542名、高等師範学校生徒数2719名)、多数の中学校教員を供給するなど、大きな役割を果たした。臨時教員養成所官制(1902年(明治35年)3月28日勅令第百号)

第一期(1902年臨時教員養成所規程制定〜)

第二期(1922年臨時教員養成所規程改正頃)

第三期(戦時体制下)

実業学校教員養成所[編集]

大学および直轄諸学校内に実業学校教員の養成所が設置された。実業学校教員養成規程(1899年制定)

これら附設教員養成所は学制改革で一旦廃止になったが、後身の東京工業大学・広島大学・室蘭工業大学・金沢大学・東北大学・名古屋工業大学では、工業教員養成課程が設置された。

実業補習学校教員養成所[編集]

私立大学高等師範部(科)・師範科[編集]

私立大学専門部(大学専門部 (旧制)=専門学校令による専門学校にあたる)・私立専門学校に、師範学校、中学校、高等女学校の教員を養成するための高等師範部高等師範科が、小学校の教員を養成するための師範科が存在した。

図画、音楽、体育、家庭科教員の養成機関[編集]

師範学校、高等師範学校などの他に、官立の専門学校、私立の専門学校・各種学校において図画、音楽、体育・武道、教員の養成課程があった。家庭科教員の養成は高等女学校専攻科、女子専門学校が大きな役割を果たしていた。

官立

私立

脚注[編集]

注釈
  1. ^ この改正により新学科創設や研究所の整理も行われており、旧東京帝国大学立地自然科学研究所東北大学ガラス研究所、大阪大学の音響科学研究所、九州大学の彈性工学研究所など吸収合併や廃止に至った研究所もある。東京大学の立地自然科学研究所は国民生活に必要なる資源に関する立地自然科学の学理及びその応用の総合研究、旧東北帝国大学のガラス研究所はガラスに関する学理及びその応用の研究を目的とする機関であった[4]。大阪帝国大学の音響科学研究所産業科学研究所に吸収合併された[5]。弾性工学研究所は1949年に発足し1952年に廃止された[6]
出典
  1. ^ 学生・生徒の徴集猶予制限を短縮『東京朝日新聞』(昭和14年3月21日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p707 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  2. ^ 中央教育審議会 初等中等教育分科会 教員養成部会(第42回) 配付資料5 教員免許更新制の導入に対する一般の方からの意見の概要” (2006年4月21日). 2019年7月27日閲覧。
  3. ^ a b 中川浩一「文部4等属中川元:仏国師範学科取調の経緯」『茨城大学教育学部紀要 人文・社会科学・芸術』第39号、茨城大学教育学部、1990年3月、11-23頁、ISSN 0386765XNAID 120005514478 
  4. ^ 1951年3月31日官報、1952年3月31日官報。
  5. ^ 竹内龍二『音響化学研究所の思い出』日本音響学会誌43巻9 号。1987年。
  6. ^ 「1949年(2281件)」歴史データ
  7. ^ 1958年に設立された中華人民共和国の牡丹江師範学院とは無関係。

関連書籍[編集]

  • 海後宗臣(監修) 『日本近代教育史事典』 平凡社、1971年
  • 『日本近現代史辞典』 東洋経済新報社、1978年
    • 尾崎ムゲン作成「文部省管轄高等教育機関一覧」参照
  • 秦郁彦(編)『日本官僚制総合事典;1868 - 2000』 東京大学出版会、2001年
    • 「主要高等教育機関一覧」参照

関連項目[編集]

外部リンク[編集]