太田資武

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太田 資武(おおた すけたけ、元亀元年(1570年)-寛永20年11月11日1643年12月21日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・福井藩家臣。太田資正の三男。初名・景資[1]。源三郎。五郎左衛門尉。安房守。子に太田資信

母は法名を「月洲大瓊大姉」といい、伝承では小田氏家臣の八代将監の娘で常陸国片野城主であった上曽源三郎の後室になっていたのを佐竹義重が片野城を攻略して太田資正を入れた際に一緒に与えたとされるが確証はない。

資武が誕生した時には、父・資正は長男の氏資に本拠地の岩付城を追われて常陸国の佐竹氏に寄寓して片野城に入っており、氏資も三船山合戦で戦死して岩付城は北条氏の城となっていた。氏資に代わって次男である梶原政景が父を補佐してきたが、天正12年(1584年)に突如北条氏に内通して佐竹氏を離反した。その後、政景は佐竹義重に降伏して許されたものの、この件もあって太田氏家督を継承できず、三男である資武が後継者となった。

天正14年(1586年)に佐竹義宣宇都宮氏を助けて下野国に出陣した際に父の名代として出陣している。同16年(1588年)には家督を継承して官途名五郎左衛門尉を名乗っている。天正18年(1590年)の小田原の役では佐竹義宣に従って参陣、その後の江戸氏大掾氏攻略にも功績をあげている。

その後、資武は結城氏から招かれてこれに仕え、慶長6年(1601年結城秀康越前国移封に従って3000石を与えられて軍奉行に任ぜられる。その後、大坂の陣で活躍し、松平忠昌の代に7900石に加増された。

脚注

  1. ^ 『太田潮田系図』による。なお、景資(五郎左衛門尉)を別人(資正の四男)とする系図もある。

参考文献

  • 前島康彦「岩付城主太田氏衰亡論」(初出:前島 編『大田氏関係文書集第四』(練馬郷土史研究会、1964年)/所収:黒田基樹 編『論集戦国大名と国衆12 岩付太田氏』(2013年、岩田書院))
  • 黒田基樹「岩付太田氏の系譜と動向」(黒田 編『論集戦国大名と国衆12 岩付太田氏』(2013年、岩田書院)総論)