大雪丸 (2代)
大雪丸(2代目) | |
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基本情報 | |
船種 | 車載客船 |
船籍 | 日本 |
運用者 |
日本国有鉄道 北海道旅客鉄道 |
建造所 | 三菱重工 横浜造船所 |
姉妹船 |
津軽丸・八甲田丸 松前丸(2代) ・摩周丸(2代) 羊蹄丸(2代)・十和田丸(2代) |
信号符字 | JPBI |
経歴 | |
起工 | 1964年(昭和39年)7月7日 |
進水 | 1964年(昭和39年)10月30日 |
竣工 | 1965年(昭和40年)4月20日 |
就航 | 1965年(昭和40年)5月16日 |
終航 | 1988年(昭和63年)1月6日 |
要目 (新造時) | |
総トン数 | 8,298.84トン(5,375.99トン[1][2]) |
全長 | 132.00m |
垂線間長 | 123.00m |
型幅 | 17.90m |
型深さ | 7.20m |
満載喫水 | 5.20m |
主機関 |
単動4サイクルトランクピストン 排気ターボ過給機付ディーゼル機関 三井B&W 1226MTBF-40V 8台 |
最大出力 | 13,350軸馬力[1] |
定格出力 | 1,600制動馬力×8 |
最大速力 | 21.22ノット[3][1][4] |
航海速力 | 18.20ノット |
旅客定員 | 1,200名 |
乗組員 | 53名 |
車両搭載数 | ワム換算48両 |
その他 | 鉄道電報略号: タセマ |
大雪丸(たいせつまる、Taisetsu Maru)は、国鉄ならびにJR北海道の青函航路で運航された車載客船で、青函連絡船の大雪丸としては2代目であった。
津軽丸型の第4船で、同型船には津軽丸・八甲田丸・松前丸・摩周丸・羊蹄丸・十和田丸がある。
概要
※詳細は津軽丸 (2代)参照
1963年(昭和38年)8月、「青函連絡船取替等計画委員会」は、当時青函航路の主力であった船質の良くない戦時標準船、またはそれに準じる連絡船の早期取替えと、高度経済成長により、急増する旅客・貨物に対応するため、1965年(昭和40年)までに該当する9隻を廃船にし、新造する6隻の高速車載客船で置き換える、という最終報告を出し、これに沿って、津軽丸型が続々と建造され[5][6]、本船はその第4船として1964年(昭和39年)7月7日、三菱重工横浜造船所で起工され、1965年(昭和40年)4月20日竣工、同年5月16日に青函航路に就航した。
津軽丸型 は洞爺丸事件や宇高連絡船 紫雲丸事件を教訓として設計された高い安全性と、当時の国鉄連絡船としては最多となる ワム換算48両の車両を積載し、従来の車載客船に迫る1,200名の旅客を乗せ、青森-函館間を3時間50分で運航できる高速性能を持ち、従来の車載客船の半分以下の53名で運航できる自動化船であった[4]。
安全性確保のためには、車両甲板船尾開口部への水密扉設置のほか、車両甲板下の船体を12 枚の水密隔壁で13区画に分け、隣接する2区画に浸水しても沈まない構造とし、更に船体中央部の5区画では、船底だけでなく側面もヒーリングタンク等で二重構造とした[7][8]。
主機械には背の低い中速ディーゼルエンジン8台を搭載するマルチプルエンジン方式を採用して、機関室天井の低い車載客船での大出力化を図って航海速力を上げ、推進用プロペラには当時日本最大の可変ピッチプロペラ(Controllable Pitch Propeller CPP)を用い、同じく可変ピッチプロペラ式のバウスラスター (Bow Thruster BT)も装備し、これらを操舵室から遠隔操縦することで、操船性能を格段に向上させた。
旅客定員は、2段寝台の4人部屋1等寝台室5室20名、1人掛けで背ずりが65度リクライニングしレッグレスト付きで寝台代用にもなる1等指定椅子席が96名、当時の特急1等車2人掛けシートに準じた背ずりが49度リクライニングするフットレスト付き1等椅子席120名、カーペット敷きの1等雑居席94名で、1等合計330名。当時の特急2等車の2人掛けシートに準じたリクライニングしない2等椅子席324名、カーペット敷きの2等雑居席546名で、2等合計870名であった。
本船は津軽丸(2代)就航後に起工された初めての船で、若干の仕様変更も見られた。前3隻では、車両格納所火災時には熱感知したスプリンクラーが自動放水する体制であったが、これをより実情に合った手動放水に変更し[9]、技術の進歩によるボイスアラームの改良や[10]、旅客食堂や操舵室前面窓の大型化[11]のほか、後述の機関部重量増対策や操舵室のプロペラ制御盤の改良も行われた。
なお、津軽丸型の塗色は、当初、建造する造船所に一任されており、本船は建造中から公式試運転までは、外舷下部がうす緑色(5G7/6)、外舷上部が乳白(7.5Y9/0.5)、煙突がうすいピンク色(5YR7/6)と、当時既に就航していた第2船の八甲田丸と同じであったため、艤装員[12]からの要請で、竣工直前に煙突のみ暗い緑色(2.5G3/5)に変更して就航した[13]。それでも八甲田丸・松前丸(2代)・本船と3隻続けて、外舷下部色が明るい緑の似た色になってしまったため、就航翌年の1966年(昭和41年)3月には、外舷下部色を煙突と同じ暗い緑色(2.5G3/5)に、外舷上部はクリーム色(2.5Y9/4)に変更し[14][15]、終航までこの色で通した。
主機機種変更と重量軽減対策
第1船津軽丸から第3船松前丸までの主機械には、シリンダー口径22cm、行程30cmのV型16気筒の定格出力1,600馬力、毎分750回転の川崎 MAN V8V 22/30mALが、主発電機原動機には同系直列8気筒の840馬力、毎分720回転の川崎 MAN W8V 22/30ATLが採用されていたが、第4船大雪丸から第6船羊蹄丸までは、主機械は同じ定格出力ながら、シリンダー口径26cm、行程40cmとやや大きく、回転数も毎分560回転とやや低い、V型12気筒の三井B&W 1226 MTBF-40Vに変更され、主発電機原動機も同系直列6気筒800馬力、毎分600回転の三井B&W 626 MTBH-40が採用された[16]。
ところがこの機種変更により、主機械1台当たりの重量が約11トンから22トンに倍増し、その他関連補機類も含め機関部で合計100トン程度の重量増加となり、このままでは計画満載喫水の5.2mを維持できないことが判明した[17]。このため、前3隻では外部からは見えない部分でのみ使用されていた溝形プレスを施した厚さ3.2ミリの薄鋼板“ハット・プレート”(コルゲートプレート)を、本船を含むこれら3隻では航海甲板の甲板室外板にも使用して船体重量軽減が図られた[18][19]。
プロペラ制御盤の改良
推進用可変ピッチプロペラ(CPP)ならびにバウスラスターの可変ピッチプロペラ(BT)の翼角遠隔操縦装置は、操舵室中央、操舵スタンド左に続くプロペラ制御盤上の主操縦レバーのほか、離着岸時、船長が操舵室左舷端から岸壁を目視しつつ、直接レバー操作が行えるよう、操舵室左舷端に設置した補助操縦スタンドにもCPPとBTの補助操縦レバーが装備され、これら主・補助いずれの操縦レバーからでも翼角操縦できるよう、両レバー間は機械的に連結され、どちらか一方を操作すると他方も同じように動き、その結果、主操縦レバーに接続されたシンクロ制御変圧器が操作されて翼角指令の電気信号が出された[20]。
ところが、第1船の津軽丸(2代)が就航してみると、この主・補助操縦レバーの機械的連結が原因で、これらのレバー操作がいずれも非常に重く[21]、しかも微動調整ハンドルもないため、津軽丸型では18ノット程度の高速航行時の0.2度のCPP翼角の変化は船速で0.4ノット、機関出力で約500軸馬力の変化にもなるため、高速航行時に希望する速力に見合った細かな翼角の指令が容易に出せず、不評をきたしてしまった[22]。一方、左右に動かすBT翼角操縦レバーをプロペラ制御盤の手前側に設置すると邪魔になるだろう、ということで奥に設置していたが、このレバーも重く、手を伸ばしてこれを左右に動かすには力が十分には入らず、同様に不評であった[23]。
しかし、津軽丸型は連続して建造されていたため、この件が明らかになった時、既に第2船八甲田丸、第3船松前丸(2代)は建造中で仕様変更できず、着工前であった第4船の本船から、CPP翼角操縦レバーへの微動調整装置付加とBT翼角操縦レバー手前側移設の改良型プロペラ制御盤が導入された[24]。
前3隻のプロペラ制御盤で採用されていた各翼角操縦レバーのカマボコ型行程に沿った直線型の実際翼角計は指針が長大で重くなり、これを精密に駆動するためのサーボモーターを装備したため、プロペラ制御盤内部には、これ以上の機器増設スペースは残されていなかった[25]。このため、本船からはこれら直線型翼角計は一切やめ、プロペラ制御盤上に四角い箱を載せ、その箱の両側面に、前後に動かすというよりは倒す感じの2本のCPP 翼角操縦レバーを設け、このレバーの回転軸に新たに微動調整用グリップを装着した。またこの箱の手前の面に、左右へ倒すBT翼角操縦レバーを設置し、この箱の上面には、指針駆動用サーボモーターの不要な、コンパクトで丸型の、外周が指令翼角指針、内側が実際翼角指針のBT翼角計を中央奥に、同様のCPP翼角計を左右に配置し、中央手前にBT翼角中立灯も設置された[26]。
また、四角い箱手前の盤面に余裕ができたため、前3隻では、両側CPP翼角操縦レバーの間に置かれていた、小スイッチ類は、この部分に横一列に並べて配置され、その配置は、左側から、左舷CPP 操縦方法選択スイッチ、左舷CPP翼角中立表示灯、左舷CPP非常用翼角操縦スイッチ(ノンホローアップ)、BT油圧ポンプ主電動機発停スイッチ、BT非常用翼角操縦スイッチ(ノンホローアップ)、BT操縦方法選択スイッチ、右舷CPP非常用翼角操縦スイッチ(ノンホローアップ)、右舷CPP翼角中立表示灯、右舷CPP 操縦方法選択スイッチの順であった。奥の斜面部分には左から左舷主軸回転数計、左舷主機稼働台数表示器、BT駆動電動機電流計、右舷主機稼働台数表示器、右舷主軸回転数計、時計の順に配置され、この四角い箱が邪魔で低い位置は見えづらいため、主機稼働台数表示器は前3隻より高い位置へ移動し、以後この配置が標準となった[26]。
しかし、このCPP 翼角操縦レバーの微動調整装置も回すのが重く、決して満足できるものではなかったが[24]、手前に移設されたBT翼角操縦レバーは操作しやすくなった[23]。なお、操舵室左舷端の補助スタンドは前3隻と同仕様で、依然CPP、BTとも実際翼角計は装備されていなかった[27]。
この改良型プロペラ制御盤では、CPP 翼角操縦レバーの操作の重さを根本的に解決することはできなかったが、就航後10年以上使用された後、 1978年(昭和53年)、使用頻度の低かったCPP補助操縦レバーの廃止で、ようやくプロペラ制御盤のCPP主操縦レバーの操作を軽くできた。このときプロペラ制御盤上の四角い箱も撤去され、十和田丸(2代)のプロペラ制御盤に準じたものに交換された。これにより、CPP 翼角操縦レバーも十和田丸(2代)同様、先端グリップを持ち上げてロックを解除し、このグリップを回すと微動調整できるタイプとなり、BT翼角操縦レバーも手のひらで押すとロックが解除されるレバー付きのグリップハンドルとなった。なおBTの主・補助操縦レバー間の機械的連結機構は、就航後も改良が加えられ、実用レベルに維持されたため、左舷補助スタンドのBT補助操縦レバーは機械的連結を維持したまま終航まで使用された[28]。
沿革
青函連絡船時代
- 1964年(昭和39年)7月7日 - 三菱重工業横浜造船所にて起工。
- 10月30日 - 進水。
- 1965年(昭和40年)4月20日 - 竣工。
- 1966年(昭和41年)8月17日 - 9153便として航行中、濃霧の函館港港口付近で貨物船「だいせん丸」(1,233トン)と接触[29][30]。
- 1970年(昭和45年)5月25日 –総トン数5,375.99トンに減トン[1][31]
- 1972年(昭和47年)1月20日 -33便(青森5時05分発函館8時55分着)札幌オリンピックの聖火を輸送[32]。
- 1973年(昭和48年)12月28日 -旅客定員通年1,330名[33]
- 1974年(昭和49年)4月1日 –荒天航行中、右舷アンカーリセス部破口生じ海水浸入[33]
- 1977年(昭和52年)3月7日 - 国鉄青函航路開設70年目を記念し各連絡船の「シンボルマーク」を発表。大雪丸は「大雪の熊」[34]。
- 1978年(昭和53年)3月 -船楼甲板室両舷へのシンボルマーク取り付け[35]
- 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化に伴い北海道旅客鉄道に継承される。同時に船籍港が東京港より函館港に、ファンネルマークが赤のJNRから黄緑のJRに変更された。
- 1988年(昭和63年)1月6日 - 検査期限切れのため、下り171便函館着6時25分で終航、青函航路終航(同年3月13日)に先立つこと約2ヵ月であった。以後、売却まで有川岸壁に係留。
終航後
- 1988年(昭和63年)4月4日 - 東京ホテルシップに売却のため、タグボートに曳航されて函館を去る。
- 1993年(平成5年) - 東京ホテルシップが倒産。大雪丸はそのまま日本鋼管に放置される。
- 1996年(平成8年) - 日本鋼管が大雪丸の解体を発表。それに対し長崎市のハヤシマリンカンパニーが海上ホテルとして大雪丸の購入を決定し、改装後長崎市へ曳航され、長崎市小曽根町で海上ホテル「ホテルシップヴィクトリア」(客室55室・大小宴会場・結婚式場)として開業する。
- 2003年(平成15年)7月31日 - ハヤシマリンカンパニーが倒産。整理回収機構が資産を引き継ぎ、大雪丸はソラーレ ホテルズ アンド リゾーツが購入。
- 2004年(平成16年) - 「ホテルシップヴィクトリア」の営業再開。
- 2005年(平成17年)12月20日 - 「ホテルシップヴィクトリア」の営業終了。
- 2008年(平成20年)5月2日 - 中国の船舶会社が買収し、福建省に回航。
- その後、福建省の海岸にて座礁させられているとの話だが、詳細は不明。
脚注
- ^ a b c d 航跡p329 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
- ^ 1967年8月1日の規程改正で船尾水密扉で閉鎖された車両格納所容積が総トン数に加算されなくなった:古川達郎 鉄道連絡船のその後p46、47 成山堂書店2002
- ^ 古川達郎 続連絡船ドックp11 船舶技術協会1971
- ^ a b 青函連絡船栄光の航跡p370青函連絡船要目表 国鉄青函船舶鉄道管理局1988
- ^ 青函連絡船史p72~75 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p160 成山堂書店1988
- ^ 古川達郎 続連絡船ドックp166 船舶技術協会1971
- ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p168 成山堂書店1988
- ^ 津軽丸型前3隻では79℃で自動放水する2系統のスプリンクラーを装備していたが、これでは熱を受けなければ放水せず、前3隻以来、車両格納所には煙感知性能に優れたイオン式火災感知器を装備していたため、本船以降は、この警報を受け、操舵室後壁の火災警報盤から遠隔手動で9系統のスプリンクラーを最大3系統同時放水して延焼を防ぐ体制とした:古川達郎 続連絡船ドックp167 p172~174 船舶技術協会1971
- ^ 泉益生 連絡船のメモ(下巻)p321~329 船舶技術協会1977
- ^ 操舵室前面窓タテ寸法89.5cm(前3隻は84.5cm):泉益生 連絡船のメモ(下巻)p201 船舶技術協会1977
- ^ 新造船の機器取扱い習熟のため、進水以降に造船所に派遣される乗組員:田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p193 交通研究協会 成山堂書店1997
- ^ NHK映像マップみちしる新型青函連絡船「大雪丸」初の公式試運転
- ^ 古川達郎 続連絡船ドックp293~295 船舶技術協会1971
- ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p230~235 船舶技術協会1971
- ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p186、p207 船舶技術協会1972
- ^ 泉益生 連絡船のメモ(下巻)p274 船舶技術協会1977
- ^ 第3船の松前丸では4.5ミリ:古川達郎 続連絡船ドックp41 船舶技術協会1971
- ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p166 成山堂書店1988
- ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p56 p70 p116~121 船舶技術協会1972
- ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p73 p156、157 船舶技術協会1972
- ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p158 船舶技術協会1972
- ^ a b 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p71 船舶技術協会1972
- ^ a b 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p159 船舶技術協会1972
- ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p70 p157 p161~163 船舶技術協会1972
- ^ a b 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p68 p150 船舶技術協会1972
- ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p67 p148 船舶技術協会1972
- ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p75 船舶技術協会1972
- ^ 函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函連絡船運航ダイヤ実績表 昭和41年8月17日 国鉄青函船舶鉄道管理局1966
- ^ 青函連絡船史p455 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p162 成山堂書店1988
- ^ 青函連絡船栄光の航跡p351、352 北海道旅客鉄道株式会社1988
- ^ a b 航跡p345 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
- ^ 航跡p242 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
- ^ a b 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p250 成山堂書店1988
- ^ 航跡p347 国鉄青函船舶鉄道管理局1978