大本営発表

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大本営海軍部による発表(1941年12月8日
大本営陸軍部による発表(1942年1月3日

大本営発表(だいほんえいはっぴょう)とは、太平洋戦争大東亜戦争)において、日本大本営陸軍部及び海軍部が行った、戦況などに関する公式発表のことである。

当初は、ほぼ現実通りの発表を行っていたが、一般的にはミッドウェー海戦の頃から損害矮小化発表が目立ちはじめ、不適切な言い換えが行われるようになり、敗戦直前には勝敗が正反対の発表すら恒常的に行ったことから、現在では「内容を全く信用できない虚飾的な公式発表」の代名詞になっている[1]

概要

第一回

第一回の大本営発表は、1941年昭和16年)12月8日6時に行われたものであり、内容は開戦の第一報で、午前7時に[2]ラジオ放送(日本で唯一の放送局だった「社団法人日本放送協会」、現在のNHKラジオ第1放送)で、真珠湾攻撃の概要が報道された。以下はチャイム[3]の後に当時のアナウンサーが読み上げたその発表文である[4]

臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。
大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は本8日未明 西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。

発表の回数及びその形式

大本営発表は846回行われている[5]。発表の形式としては、報道の形でアナウンサーが読み上げるものと、陸海軍の報道部長が読み上げるものとの2種類があった[6]。ラジオ発表では、放送前後などに楽曲が演奏された。戦勝を報じる時には「分列行進曲 扶桑歌」(陸軍部発表:陸戦)、「軍艦行進曲」(海軍部発表:海戦)、「敵は幾万」(陸海軍部共同発表)が、玉砕などの悲壮な戦果を報じる時には「海ゆかば」であった[7]

内容の虚飾性

戦況が好調に推移していた段階では、内容もおおよそ現実に即していた[8]が、ミッドウェー海戦においては、戦意高揚のために海軍部隊の大損害の事実を過小に発表するようになった[9]

日米開戦から一年が経過した、1942年(昭和17年)12月16日の週報における「大東亜戦争一箇年の戦果」によれば、健在な米空母「エンタープライズ」や「サラトガ」を撃沈したと発表し、さらに架空の「米空母3隻」や「艦型未詳米戦艦4隻」の撃沈、日本軍の損害は「空母3隻沈没、3隻大破(実際は正規空母4隻沈没、軽空母2隻沈没、正規空母1隻大破、軽空母1隻中破)」を公表している[10]

ガダルカナル島からの撤退を『転進』と言い換えて表現するなどし、レンネル島沖海戦の頃からは、現実からはすっかり乖離した虚報となっていった。占領地守備隊の全滅を「玉砕」と美化して表現したと言われるが、それはアッツ島全滅の時のみの表現で、それ以外は総員壮烈なる戦死と発表している。

大本営の将校自身が虚飾報道にうんざりし神風特別攻撃隊従軍記者で取材に赴く大日本帝国海軍報道班員の山岡荘八川端康成「今、ただちに書きたくなければ、書かないでよろしい」と告げた程である[11]

大本営が戦況を正確に把握しておらず、現場指揮官の報告した戦果をそのまま発表したために、現実と乖離した報道となった場合も多く、しばしば陸軍参謀本部では、その情報を信じてしまい、悲惨な結果を招いている。特に大戦後期の攻勢作戦報道に顕著である[12]

戦果が誇張された発表の一因に、実際問題としての戦場での戦果確認が困難という事情が在るものの、戦闘後の対戦艦隊の行動内容を短波通信傍受など諜報活動で突合すれば、戦果が如何ようだったかは、後日判明する。しかし、例え誤報が分かっても、戦果発表の訂正はしなかった。作戦部隊の戦果をあげたい心情も作用して、例えば、艦艇への爆撃による至近弾の水柱を「魚雷命中」などと好意的に評価したことは、日本軍に限らず世界に数多く存在する。

航空機撃墜を確認するにも、実際に空中で爆散するか地面に墜落するのを見届ける余裕は、熾烈な戦場では多くない。先述のミッドウェー海戦を例にあげれば、実際戦果は空母「ヨークタウン」撃沈であるものの、南雲機動部隊による戦果評価は空母2隻撃沈であり、これは戦果誤認であるが、当時実際の戦果を知る由もない大本営では、ほぼそのまま発表している、航空機撃墜数は、南雲機動部隊の戦闘詳報よりも、むしろ少なく発表していた。

台湾沖航空戦では、こういった戦果誤認が著しかったのが一因となり、フィリピン決戦前に稼動状態にあった約1,200機の海軍機のうち、300機以上とその搭乗員を一週間弱で喪失した上、在フィリピンの海軍機が150機から約40機に激減するなど、決戦を前にしながら大打撃を蒙った。これにより、フィリピン制空権確保という作戦行動が、事実上不可能になったため、続く同年10月に生起した捷号作戦において、軍令部は特別攻撃隊の編成及び使用を決意し、フィリピンの航空作戦部隊であった第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将が、1944年(昭和19年)10月21日、神風特別攻撃隊の出撃命令を下すことになった。

戦況について、少なくとも大日本帝国海軍の被害については、軍令部から参謀本部に迅速に伝えられていた。しかし、大日本帝国陸軍は『防諜』を理由に、そうした情報を作戦を遂行する部隊にすら伝えなかった『縦割り行政』の弊害があった[13]

ただし、戦時中の戦争報道は大本営発表に寄らず、現地にいる報道班員による報道が盛んに行われており、その中では、最前線における兵站の補給難、兵士の飢餓マラリアデング熱など感染症の蔓延、連合軍の圧倒的な戦力といった実情は、おおむね伝えられていた[14]。俗説で、しばしば大本営発表の内容だけを引用して「戦時中の日本国民は前線の悲惨な実情を伝えられなかった」とされることがあるが、それは誤りである。

終焉

大本営発表としての放送は、戦闘行動が続いていた1945年8月14日、第840回を数えた段階で、実質的に終わった。その後は大本営及帝国政府発表との名称で、第841回(8月21日13時)、第842回(8月21日17時)、第843回(8月22日15時30分)、第844回(8月23日17時30分)、第845回(8月24日17時30分)、第846回(8月26日11時)まで、計6回行われた。内容は大日本帝国陸海軍の行動でなく、アメリカ合衆国を中心とする連合国軍の日本占領に関わる事項を伝えることに終始した。最後の発表(第846回)全文は、以下のものであった。

本八月二十六日以降実施予定の連合国軍隊第一次進駐日程中連合国艦隊相模湾入港以外は夫々四十八時間延期せられたり

連合国への影響

1943年(昭和18年)11月から12月にかけて行われた6次に渡る日米のブーゲンビル島航空戦(日本側呼称:ろ号作戦)は日本の惨敗に終わったが、大本営は虚偽の多大な戦果を発表し続け、戦果が全くなくても「撃沈5隻、大破8隻」などと戦果が大々的に発表された。この発表は、ラジオ・トウキョウを通じて欧米にも受信されており、日本の戦果発表を真に受けた投資家の行動によって、ニューヨーク証券取引所の株価が下落し、アメリカ経済を混乱させた。これに驚いたアメリカ合衆国連邦政府は、事態の収拾を図るために、アメリカ合衆国海軍長官フランク・ノックスに「日本の発表は絶対に真相ではない」との声明を出させた。後に類似の事態が、台湾沖航空戦でも発生している。虚偽報道が期せずしてブラックプロパガンダとなった好例である。

比喩表現としての「大本営発表」

大本営発表は上記のような歴史を持つため、この名称「大本営発表」は転じて、天皇皇族日本国政府関係者、財界人、権勢を誇る組織・団体(あるいは有名人など)に利する目的で作成された情報操作虚偽が含まれている可能性が高い「公式発表」(広報文書や記者会見、文書のみでの回答等)を、揶揄しつつ呼ぶために用いられるようにもなっている[1]。この「公式発表」のみを情報源とするのが発表報道である。

つまり、おおむね「情報源の確かでないもの、意図的に操作されたもの、もしくは虚偽の確率が極めて高い情報、他の情報により虚偽が明らかなのに否定しつづける行為」という意味で、現代では使われており、東日本大震災での福島第一原子力発電所事故では、日本国政府の発表は「大本営発表」であるとして『全く信用出来ないデタラメ情報』と同義語として使用されている[15]

脚注・出典

  1. ^ a b 大本営発表 とは”. コトバンク. 2013年8月18日閲覧。
  2. ^ 当時のニュースは政府の許可が必要で、許可が下りてすぐアナウンサーがマイクの前に座った途端に7時の時報が鳴ったのである。
  3. ^ この時軍艦マーチが流されたとよく言われるが、流れたのは楽曲ではなく臨時ニュースチャイムだった。このチャイムは21世紀の現在でも使用されている。
  4. ^ 担当が誰だったのかは記録がなく不明。現在人々が眼にする、大平秀雄が発表文を読み上げる映像は、後日「再現映像」として収録されたものである。
  5. ^ 保阪正康『大本営発表は生きている』 はじめに、p.5より。
  6. ^ 残されている大本営発表の放送録音は、アナウンサーによるものと、陸海軍報道部長によるものの両方が残存している。両者には、言い回しの部分で僅かな差異がある。例えば、第一回の発表(開戦の第一報)における「アメリカイギリス軍」という表現と「米英軍」という表現の差である。
  7. ^ 開戦時はチャイムの前に「海ゆかば」が流された。
  8. ^ 戦況が好調に推移していた段階ですら、真珠湾攻撃に参加し捕虜となった海軍特殊潜航艇搭乗員の事実を隠している。軍神の項を参照されたい。
  9. ^ 相澤淳「大本営発表とミッドウェー海戦」、防衛庁防衛研究所『戦史研究年報』第7号 2004年3月 p122 - p128
  10. ^ 「週報 第323号」p.10
  11. ^ #海軍主計大尉p.219
  12. ^ 堀栄三『大本営参謀の情報戦記 ―情報なき国家の悲劇―』
  13. ^ 井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定」『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、2010年、P193
  14. ^ たとえば多数の餓死者の出たガダルカナル島の戦いについて、陸軍報道班員の手記を集めた「ガダルカナルの血戦」(昭和18年7月20日発行)では「戦う勇士は、戦う前にまず飢餓を征服しなければならなかった」など飢餓の蔓延や補給の苦難について詳細に述べている。
  15. ^ 田原総一朗 (2011年3月30日). “原発報道は「大本営発表」に頼りすぎている”. 田原総一朗の政財界「ここだけの話」 (日経BP). http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110330/265304/ 2014年8月4日閲覧。 

参考文献

  • 冨永謙吾『大本営発表〈海軍篇〉』(青潮社、1952年)、『大本営発表の真相史』(自由国民社、1970年)
  • 高戸顕隆『海軍主計大尉の太平洋戦争 ―私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部―』光人社、1999年。ISBN 4-7698-2227-8  高戸は乗艦していた駆逐艦照月」沈没後、大本営海軍報道部へ転勤。
  • 辻泰明・NHK取材班『幻の大戦果・大本営発表の真相(日本放送出版協会、2002年)ISBN 4-14-080729-6  台湾沖航空戦の専著。
  • 平櫛孝『大本営報道部 ―言論統制と戦意昂揚の実際―』(光人社NF文庫、2006年) ISBN 4-7698-2485-8
  • 保阪正康『大本営発表は生きている』(光文社新書、2004年) ISBN 4-334-03242-7、『大本営発表という権力』(「――生きている」の改訂版、文春文庫 2008年) ISBN 978-4-06-276134-5

関連項目

外部リンク