大木戸森右エ門

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大木戸 森右エ門(おおきど もりえもん、1876年5月13日 - 1930年11月7日)は大相撲の第23代横綱大坂相撲では若嶌に次ぐ2人目の公認横綱。生年月日は1878年11月2日とする説もあり、かつてはこちらが有力視されていたが、これは大木戸の後にを襲名した呼出滝三の生年月日であった。本名内田光藏。身長177cm、体重120kg。

来歴

四股名は最初は大城戸、後に大木戸に改めた。横綱若嶌が負傷により引退を余儀なくされた頃の大坂相撲で最強を誇り、両手突きの威力は2発で相手は土俵の外といわれた。このあたり1突き半→1月半→四十五日と呼ばれた太刀山に似ていると言えよう。また組んでも右四ツからの投げや吊りもあった。当時大関の大木戸は3場所連続の全勝優勝も記録した。

この成績を見た大坂相撲は1909年(明治42年)吉田司家に横綱免許を申請、しかし司家は横綱免許を出さず、博多で開催される予定であった合併興行の結果が見たいとしてきた。ところがここで大木戸の成績は今一、それでも仲介者の後押しもあって大坂は大木戸の免許を申請するが司家は申請書に東京横綱による加判を求めた。当時大坂は常陸山により有力力士を次々と引き抜かれており、大木戸も1度は引き抜かれそうになったこともあるが、若嶌引退直後だったこともあり、大木戸までいなくなっては困ると止められた。それを理由に大坂は常陸山を嫌っていたため東京の加判に難色を示し若嶌の加判だけでの申請を行おうとしたため交渉は決裂、大坂相撲は住吉神社と共謀し1910年1月(明治43年)大木戸に対し勝手に免許を出し大木戸は奉納土俵入りを行なった。怒った司家は大坂相撲を破門東京相撲も立場上大坂に絶縁宣言を叩きつける大事件となった。このままであれば彼は公認横綱にはなれない所だったが2年後大坂相撲は司家に正式に謝罪、免許を再度申請した。

司家は大木戸の横綱撤回(ただし大坂と熊本以外での地方巡業では横綱黙認)と今後大坂相撲が横綱免許を申請する際は東京横綱は加判をやめて口添えを行うことを条件とした。大坂はこれを受け入れたため今度は認められ東京相撲も絶縁を撤回、既に36歳で全盛を過たとはいえ晴れて1912年(大正元年)12月に公認横綱となった。しかし公認横綱として最初の本場所である大正2年1月は5勝3敗2休と振るわず、4月に呉での東京大坂合併興行で東京関脇伊勢ノ濱との取組中に眩暈がしたという。そして明るい場所で電気をつけようとしたため眼科へ担ぎ込まれ、そこから海軍病院で検査を受けたところ脳溢血と判明、一命は取り留めたが半身不随になってしまったという。当然こんな体では現役続行などできず同年5月、大正3年1月と2場所連続全休を最後に引退、頭取(現在で言う年寄を襲名したが健康面の改善が見られないため出勤もままならなくなり大正5年6月に廃業。

優勝10回、うち5回が全勝だった。いずれも大坂相撲の最多記録である。また3場所連続全勝優勝は東京大坂を通して史上初であり、現在でも大木戸、双葉山(5場所連続で最多記録保持)、白鵬(3場所連続、現役)の3名しか記録していない。

現存する大坂相撲時代の写真で、写っている大木戸が締めている横綱は縒り方が逆になっている(上記の写真は縒り方が現在の綱とは逆である。第29代横綱宮城山の大坂横綱時代の写真にも締めている横綱の縒り方が逆のものがある)。

死の直前に自分の解剖を申し出たと伝わる。身寄りがいなかったようで墓のありかが判明していない。

関連項目