大川清幸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大川 清幸
おおかわ せいこう
生年月日 (1925-11-06) 1925年11月6日
出生地 東京都墨田区
没年月日 (2014-12-18) 2014年12月18日(89歳没)
死没地 東京都墨田区
出身校 中央大学商学科
中央大学経済学部
所属政党無所属→)
公明政治連盟→)
公明党

選挙区 全国区
当選回数 1回
在任期間 1980年7月8日 - 1986年7月7日

選挙区 墨田区選挙区
当選回数 5回
在任期間 1963年4月17日 - 1977年7月9日

墨田区議会議員
当選回数 1回
在任期間 1959年 - 1963年
テンプレートを表示

大川 清幸(おおかわ せいこう、1925年大正14年〉11月6日 - 2014年平成26年〉12月18日)は、日本政治家

墨田区議会議員(1期)、東京都議会議員(5期)、参議院議員(1期)、参議院法務委員長参議院協会副会長、公明党顧問などを歴任した。

来歴[編集]

東京都墨田区下町に生まれる。実家は日本酒ビール焼酎洋酒などを扱う酒屋を営んでいた。旧海軍甲種飛行予科練習生(14期前期)を経て、1949年3月に中央大学商学科を卒業。1952年3月には中央大学経済学部を卒業する。創価学会が初めて政界に進出した1955年第3回統一地方選挙では、杉並区議会議員選挙における藤原行正の選挙スタッフとして活動した[1]。同時期に実家の大川商店社長、アサヒ酒販専務を務める。

1959年第4回統一地方選挙墨田区議会議員選挙に立候補し当選。もともと同選挙には父・和多留が立候補する予定だったが、父が病に倒れたため身代わり立候補した[1]1961年公明党の前身である公明政治連盟の結成に参加。

1963年東京都議会議員選挙に出馬し当選。藤井富雄らとともに「17人のサムライ」の一人と称され、1964年には公明党の設立に参加した。隅田川し尿処理問題などに取り組んだほか、1965年の都議会リコール騒動では中心的な役割を果たす[2]

1980年第12回参議院議員通常選挙全国区から出馬し当選。在職中は参議院法務委員長などの要職を歴任したほか、1984年12月1日には参議院本会議場で竹内潔追悼演説を行った。1986年に政界を引退した後は、創価学会墨田区副総合長、一般社団法人参議院協会副会長などを務めた[3][4]黒柳明伏木和雄とともに週刊現代矢野絢也名誉毀損で訴えたこともある。

引退して久しい2010年1月には、公明党代表山口那津男の肝煎りで公明党顧問に就任した[5]2013年8月、党顧問を退任。

2014年12月18日、心不全のため死去[6]。89歳没。

役職歴[編集]

参議院[編集]

公明党[編集]

  • 顧問
  • 中央執行委員
  • 東京都本部書記長
  • 議会局長
  • 選挙対策委員会事務局長

都議会公明党[編集]

  • 幹事長

人物[編集]

  • 第4代東京都知事鈴木俊一からは「紅顔の美青年だった」「理論家で、顔に似合わず舌鋒は鋭く、追及は急だった」と評されている[1]
  • 2005年8月24日付の聖教新聞「座談会」欄では、「大川さんといえば、あの『べらんめえ口調』」「現役時代も引退後も、まったく変わらない。ますます意気軒高だ」「議員を辞めてからも、しょっちゅう墨田の下町を歩いて回っている。市民の要望を聞いたり、公明党の政策を訴えたり。『生涯、青年』で語りまくっている」と評されている[7]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 衆議院・参議院編 『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』(1990年)
議会
先代
鈴木一弘
日本の旗 参議院法務委員長
1983年 - 1985年
次代
二宮文造