大宮龍男
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県岡崎市[1] |
生年月日 | 1954年6月19日(69歳) |
身長 体重 |
178 cm 84 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1976年 ドラフト4位 |
初出場 | 1977年4月3日 |
最終出場 | 1992年10月23日(日本シリーズ第5戦) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
コーチ歴 | |
| |
国際大会 | |
代表チーム | 日本代表 |
この表について
|
大宮 龍男(おおみや たつお、1954年6月19日 - )は、愛知県岡崎市出身[1]の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者・評論家。愛称は「東海の龍」「大宮親分」[2]。
経歴
プロ入り前
享栄高等学校では2年次の1971年から正捕手となり、同年の夏の甲子園県予選では決勝に進出。後に大学でバッテリーを組むエース・水谷啓昭を擁する東邦高に惜敗し、甲子園出場を逸する。3年次の1972年夏の県予選でも準々決勝に進出するが、犬山高に敗れる。
高校卒業後は1973年に駒澤大学へ進学するが、1年上に大学日本代表メンバーの小川良一がいるなど競争は厳しかった。山本泰之・水谷・森繁和らとバッテリーを組み、東都大学野球リーグでは在学中に5度の優勝を経験。3年次の1975年は外野手としても出場し、中畑清らと共に春秋連続制覇を果たすと、秋季には最高殊勲選手に選出される。同年の大学選手権でも決勝で斉藤明雄を擁する大商大を破って優勝し、小川の卒業後は再び捕手に専念。4年次の1976年春季でも優勝し、2連覇をかけて挑んだ日本選手権では準決勝で大商大に敗退するが、同年の第5回日米大学野球選手権大会日本代表に選出された。捕手として3度、外野手としても1度ベストナインを受賞し、リーグ通算88試合出場、283打数70安打、打率.247、7本塁打、37打点を記録。森以外の大学同期に山川猛、武智勇治がいる。
日本ハム時代
1976年のドラフト4位で日本ハムファイターズに入団[1]。入団時は加藤俊夫が正捕手であり、なかなかその壁を破れなかった。この年のドラフト会議では指名した選手からことごとく入団拒否され、入団したのは大宮の他には6位で指名した下田充利だけであった。
1980年7月29日の南海ホークス戦(大阪スタヂアム)では指名打者で出場してサイクル安打を達成したが、奇しくもこの試合での本塁打と三塁打はいずれも自身のシーズン唯一のものであった[3]。
1981年は加藤が故障で衰えを見せ始めると、6月には大沢啓二監督が正捕手に抜擢すると共に、広島から移籍してきた江夏豊を教育係に指名。江夏は大宮がサインに首を振らなくなったことを喜ぶと、江夏は「甘い。まだアイツのために“ほうってやってる”。本当の捕手なら首を振ってるよ」と言った[4]。江夏のアドバイスは打撃にも及び、打撃不振に苦しみ、ベンチ裏で素振りをしていると、「バックスイングが大き過ぎる」と助言。次の打席から快音を連発するようになったこともあったという[4]。徹底的に配球面を鍛えられたことによってリード面にも成長を見せ、大宮は「捕手はリード面が仕事の7、8割を占める」と考え、ストレートを右打者には懐へ、左打者にはヒザ元へと果敢に要求するなど、気の強さはダイレクトにリードへと反映された[4]。戦国武将の知恵をリードの参考にしたこともある一方、血液型による性格診断を参考に、江夏らA型には相手を信頼するリード、木田勇らAB型には具体的なリードと、投手の血液型によってリードを切り替える一面もあった[4]。大宮に引っ張られた投手陣は岡部憲章が最優秀防御率を獲得し、間柴茂有が15勝0敗で勝率10割を記録、恩師・江夏もセーブ王を獲得した。大宮自身も初めて100試合以上に出場し、19年ぶりのリーグ優勝に貢献。初めて規定打席に達する(33位、打率.249)。同年の日本シリーズでは読売ジャイアンツに敗退したものの、20打数7安打の好記録を残す。
1982年は加藤が大洋に移籍したため、田村藤夫とレギュラーを争いつつ出場。5月末に死球による左頬骨骨折で一時は戦線を離脱するが、6月末には復帰。前期は西武ライオンズに優勝を許すが、後期は開幕戦である7月2日の近鉄戦(後楽園)にて村田辰美から2本塁打を放つ活躍で江夏の通算200勝をアシスト[5]。自身の好調な打撃とリードも相まってチームを引っ張り、2年連続後期優勝に貢献。打率は.258ながら得点圏では.301、満塁時には.667を記録。プレーオフでは西武に敗れたが、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。
1984年8月22日の西武戦(後楽園球場)ではスティーブ・オンティベロスと殴り合いを演じ、スティーブと共に退場処分を受けた[6] [7]。1982年7月13日の西武戦(後楽園)でもスティーブが大宮に掴み掛るという騒ぎを起こしており、この時はスティーブのみが退場処分となった[8]。オールスターゲームにも3度選出(1981年 - 1982年, 1985年)されるなど正捕手として活躍していたが、1986年からは田村の台頭で出番が減少。
中日時代
1988年に大島康徳・曽田康二との交換トレードで田中富生と共に中日ドラゴンズへ移籍すると、中村武志の2番手捕手として起用される。9月20日の巨人戦(ナゴヤ球場)で斎藤雅樹からサヨナラ本塁打を放つなど活躍し[9]、出場試合は少ないものの強気なリードで投手陣を引っ張り、6年ぶりのリーグ優勝に貢献した。
西武時代
1990年には広橋公寿・小川宗直との交換トレードで宮下昌己と共に西武ライオンズに移籍。3月15日に中日とのオープン戦でベニー・ディステファーノと派手な殴り合いを演じたが[10]、後に大宮は2017年11月26日に放送された『中居正広のプロ野球珍プレー好プレー大賞2017』で、「ディステファーノに僕が英語で『STOP!』って言ったんです。そしたらこういうことになっちゃったんです」と話している。さらに大宮は、前の年まで中日にいたため、「反撃しようにも相手は去年までは仲間だったので、行くに行けなかったんです。しかも乱闘が終わったら中日の選手たちはみんな笑っていて。(当時中日の)監督だった星野さんも笑ってました」という裏話も語っていた。移籍1年目のキャンプやオープン戦では不振に苦しむ工藤公康に付きっきりで、その再生に腐心[4]。森祇晶監督がその強気な性格と闘争心を買い、若手投手専用捕手に抜擢[11]。長年「ライバル不在」で安泰の地位を確保し、無意識のうちに安穏とした心境になっていた伊東勤に大きな緊張感と危機感を与えた[11]。森は投手陣が大量失点すると、容赦なく伊東をベンチに下げ、大宮に交代した[11]。
1992年限りで現役を引退。所属した3球団全てでリーグ優勝、日本シリーズ進出を5度も経験(1990年のみ出場無し)。3球団から出場は若生智男(大毎→阪神→広島)・永尾泰憲(ヤクルト→近鉄→阪神)・中尾孝義(中日→巨人→西武)・阿波野秀幸(近鉄→巨人→横浜)・工藤(西武→ダイエー→巨人)・中嶋聡(阪急→西武→日本ハム)・岡島秀樹(巨人→日本ハム→ソフトバンク)と並んで最多タイであり、中尾とは1988年に同チームで出場。工藤とは1991年と1992年に同チームで出場し、1988年には対戦した。日本一には2度(1991年 - 1992年)も貢献した。
引退後
西武で一軍バッテリーコーチ(1993年 - 1994年)→編成担当(1995年)を務め、コーチ時代はリーグ5連覇に貢献し、駒大の後輩でもある竹下潤がふがいないピッチングでKOされた際には、駒大時代にバッテリーを組んでいた投手コーチの森とステレオで竹下を怒鳴りつけたこともある。西武退団後は古巣・日本ハムに復帰して二軍バッテリー兼打撃コーチ補佐(1996年)→二軍打撃コーチ(1997年)→一軍打撃コーチ(1998年 - 1999年)→フロント(2000年 - 2005年)を歴任し、コーチ時代はビッグバン打線形成に尽力。日本ハム退団後は2006年より東京中日スポーツ評論家、2007年より北海道放送解説者、北海道新聞評論家を務めている。同年からは解説・評論活動の傍ら、リゾートホテルチェーン「かりゆしインターナショナル」アドバイザーや企業と企業の間に入ってマッチングする仕事もしている[12]。
人物
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1977 | 日本ハム | 40 | 64 | 60 | 5 | 10 | 1 | 1 | 2 | 19 | 11 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 0 | 13 | 1 | .167 | .194 | .317 | .510 |
1978 | 51 | 89 | 84 | 5 | 22 | 2 | 1 | 1 | 29 | 12 | 4 | 0 | 1 | 0 | 4 | 0 | 0 | 12 | 5 | .262 | .295 | .345 | .641 | |
1979 | 75 | 180 | 168 | 21 | 46 | 6 | 0 | 5 | 67 | 14 | 12 | 3 | 1 | 0 | 9 | 1 | 1 | 21 | 1 | .274 | .315 | .399 | .713 | |
1980 | 71 | 160 | 135 | 19 | 34 | 5 | 1 | 1 | 44 | 11 | 5 | 3 | 4 | 0 | 19 | 1 | 2 | 21 | 5 | .252 | .353 | .326 | .678 | |
1981 | 113 | 404 | 358 | 51 | 89 | 9 | 3 | 15 | 149 | 53 | 13 | 4 | 11 | 3 | 30 | 0 | 2 | 40 | 11 | .249 | .308 | .416 | .724 | |
1982 | 112 | 407 | 361 | 48 | 93 | 26 | 6 | 16 | 179 | 67 | 7 | 7 | 9 | 4 | 28 | 0 | 5 | 41 | 16 | .258 | .317 | .496 | .812 | |
1983 | 123 | 417 | 369 | 45 | 85 | 13 | 1 | 8 | 124 | 34 | 11 | 7 | 11 | 1 | 33 | 2 | 3 | 54 | 5 | .230 | .298 | .336 | .634 | |
1984 | 106 | 320 | 289 | 37 | 73 | 15 | 2 | 7 | 113 | 31 | 11 | 5 | 7 | 0 | 22 | 0 | 2 | 26 | 6 | .253 | .310 | .391 | .701 | |
1985 | 74 | 173 | 156 | 12 | 41 | 7 | 1 | 1 | 53 | 16 | 1 | 1 | 0 | 3 | 14 | 1 | 0 | 12 | 10 | .263 | .318 | .340 | .658 | |
1986 | 39 | 58 | 57 | 4 | 11 | 1 | 1 | 2 | 20 | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 8 | 2 | .193 | .207 | .351 | .558 | |
1987 | 57 | 109 | 98 | 14 | 28 | 3 | 0 | 2 | 37 | 10 | 2 | 0 | 1 | 0 | 9 | 0 | 1 | 15 | 2 | .286 | .352 | .378 | .729 | |
1988 | 中日 | 57 | 91 | 81 | 7 | 14 | 1 | 0 | 2 | 21 | 5 | 2 | 0 | 1 | 1 | 8 | 3 | 0 | 19 | 2 | .173 | .244 | .259 | .504 |
1989 | 31 | 42 | 40 | 2 | 9 | 1 | 0 | 1 | 13 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 7 | 2 | .225 | .244 | .325 | .569 | |
1990 | 西武 | 33 | 74 | 62 | 5 | 12 | 3 | 0 | 0 | 15 | 6 | 1 | 0 | 2 | 2 | 8 | 0 | 0 | 16 | 3 | .194 | .278 | .242 | .520 |
1991 | 25 | 23 | 21 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 4 | 0 | .095 | .174 | .095 | .269 | |
1992 | 27 | 25 | 21 | 1 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 8 | 2 | .190 | .320 | .190 | .510 | |
通算:16年 | 1034 | 2636 | 2360 | 276 | 573 | 93 | 17 | 63 | 889 | 284 | 70 | 30 | 51 | 14 | 194 | 8 | 16 | 317 | 73 | .243 | .303 | .377 | .680 |
年度別守備成績
年 度 |
球 団 |
捕手 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
企 図 数 |
許 盗 塁 |
盗 塁 刺 |
阻 止 率 | ||
1977 | 日本ハム | 27 | 13 | 10 | 3 | .231 |
1978 | 42 | 50 | 35 | 15 | .300 | |
1979 | 46 | 27 | 14 | 13 | .481 | |
1980 | 40 | 26 | 13 | 13 | .500 | |
1981 | 112 | 98 | 69 | 29 | .296 | |
1982 | 110 | 116 | 77 | 39 | .336 | |
1983 | 122 | 130 | 87 | 43 | .331 | |
1984 | 92 | 83 | 56 | 27 | .325 | |
1985 | 39 | 38 | 24 | 14 | .368 | |
1986 | 4 | 1 | 1 | 0 | .000 | |
1987 | 9 | 3 | 2 | 1 | .333 | |
1988 | 中日 | 42 | 17 | 9 | 8 | .471 |
1989 | 26 | 7 | 5 | 2 | .286 | |
1990 | 西武 | 32 | 10 | 7 | 3 | .300 |
1991 | 24 | 14 | 9 | 5 | .357 | |
1992 | 26 | 13 | 11 | 2 | .154 | |
通算 | 793 | 646 | 429 | 217 | .336 |
表彰
- ダイヤモンドグラブ賞:1回 (1982年)
記録
- 初出場:1977年4月3日、対クラウンライターライオンズ2回戦(平和台野球場)、4回裏に加藤俊夫に代わり捕手として出場
- 初先発出場:1977年4月5日、対南海ホークス1回戦(後楽園球場)、8番・捕手として先発出場
- 初安打・初打点:1977年5月1日、対ロッテオリオンズ4回戦(後楽園球場)、7回裏に成重春生から適時打
- 初本塁打:1977年5月12日、対ロッテオリオンズ7回戦(後楽園球場)、8回裏に岡持和彦の代打として出場、水谷則博から3ラン
- 1000試合出場:1991年8月27日、対福岡ダイエーホークス18回戦(平和台野球場)、9回裏に捕手として出場 ※史上297人目
- サイクルヒット:1980年7月29日、対南海ホークス後期4回戦(大阪スタヂアム) ※史上33人目
- オールスターゲーム出場:3回 (1981年、1982年、1985年)
背番号
- 27 (1977年 - 1987年)
- 38 (1988年 - 1989年)
- 22 (1990年 - 1992年)
- 83 (1993年 - 1994年)
- 85 (1996年 - 1999年)
関連情報
出演
- HBCファイターズナイター
- SAMURAI BASEBALL(2013年4月29日に初めて副音声での解説に登場)
- CBCドラゴンズナイター
- 今日ドキッ!
- Bravo!ファイターズ(2015年4月-)
- ラジオCM『場外市場 北のグルメ』
- ちちんぷいぷい(第1部(MBS・HBC同時ネット)・2015年5月18日から不定期)大宮親分として
脚注
- ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、112ページ
- ^ HBCの中継の中では長らく「東海の龍」の愛称で親しまれたが、2013年からは現役時代の監督であった大沢のニックネーム「大沢親分」にひっかけて「大宮親分」と、「親分」の愛称を襲名することとなった。以来、HBCの番組では大沢よろしく着物姿で登場することが多い。
- ^ 南海vs日本ハム 後期4回戦
- ^ a b c d e 大宮龍男 江夏豊に育てられた強打の捕手/プロ野球1980年代の名選手
- ^ 日本ハムvs近鉄 後期1回戦
- ^ 日本プロ野球事件史―1934ー2013 (B・B MOOK 889 スポーツシリーズ NO. 759)、ベースボール・マガジン社、2013年、P111
- ^ 日本ハムvs西武 21回戦
- ^ 日本ハムvs西武 後期1回戦
- ^ 中日vs巨人 24回戦
- ^ 【3月15日】1990年(平2) 前代未聞!オープン戦で乱闘そして退場
- ^ a b c 加古大二『森・西武ライオンズ 9年間の黄金伝説~「常勝レオ軍団」の軌跡(TWJ books)』トランスワールドジャパン、2013年9月2日、p79。ISBN 4862561276。
- ^ 【俺の人生第二幕】今井美樹とも縁…夢は「もう一度ユニホーム」
- ^ 2014年8月24日放送Bravo! ファイターズ副音声解説より。
関連項目
外部リンク
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)