多治見国長

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多治見国長邸宅跡(岐阜県多治見市)

多治見 国長(たじみ くになが、正応2年(1289年) - 元亨4年9月19日1324年10月7日))は、鎌倉時代末期の武将土岐氏美濃源氏)の流れを汲む国澄の子[1]。通称は四郎次郎。蔵人左衛門尉

概要

美濃国土岐郡多治見(岐阜県多治見市)を本拠として活動していたが、後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒計画に参加、日野資朝の招きにより1324年京都に入る。しかし同族の土岐頼員(舟木頼春)が計画を六波羅探題の奉行の娘である妻に漏らしてしまったことから事前に露顕し、六波羅探題の配下である小串範行によって夜中に急襲を受ける。『太平記』によれば、終夜の酒に酔っていたが、この急襲の声に驚いて慌て騒いだ。無防備であったが、共に寝ていた物馴れた遊女の機転によりを身につけ、寝入っている者を起こすことができたという。国長は少ない手勢を率いて奮戦したが、最終的には館の裏手を突破されたことから観念し、一族郎党とともに自害して果てた(正中の変)。

地元の多治見市では現在でも人気があり、「多治見まつり」の際に行われる武者行列の中でも、主役の扱いを受けている。また同市内には国長の邸宅跡があり、県の史跡に認定されている。

脚注

  1. ^ 尊卑分脈』には土岐光行の次男・光俊の後裔に国純(国澄)、国長の名がある。