多治比縣守

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多治比 縣守
時代 奈良時代
生誕 天智天皇7年(668年
死没 天平9年6月23日737年7月25日
官位 正三位中納言
氏族 多治比氏
父母 多治比嶋
兄弟 池守広成水守広足
多治比国人
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多治比 縣守(たじひ の あがたもり、天智天皇7年(668年) - 天平9年6月23日737年7月25日))は、日本の奈良時代貴族左大臣多治比嶋の子。真人。名は県守とも書く。

養老の遣唐使(717年-718年)で遣唐押使を務めた後、按察使征夷将軍などを歴任し、729年の長屋王の変に際して臨時の参議となってからは中納言正三位まで昇進した。

生涯

生年が明記された史料はないが、『公卿補任』にある「天平9年(737年) 薨、年七十」との記述に拠れば天智天皇7年(668年)生まれである[1]多治比氏は皇族に出自をもち、父・嶋が晩年左大臣を務めるなど当時の名門家であった[2]

遣唐押使

霊亀2年(716年8月20日遣唐押使に任命され、翌霊亀3年(養老元年)3月9日節刀を賜った。渡唐行程についての詳細な記録はないが、おそらく夏6月~7月ごろに出発して南路から長江河口部または杭州に着いたものと推定されている[3]長安に到着したのは開元5年(717年)の10月1日であった[4]。このときの遣唐使には、留学生に阿倍仲麻呂吉備真備井真成らが、留学僧に玄昉などがおり[5]、また使節団の人数も前回大宝2年の倍以上である557人(船4隻)という大規模なものであった。養老2年(718年)10月20日、使節団は一人の犠牲者も出さずに無事帰国した[3]。 養老3年(719年7月13日、新設された按察使の一人として相模国上野国及び下野国を管する武蔵国守に任ぜられ、後播磨按察使となる[1]

征夷将軍

養老4年(720年9月28日陸奥国按察使上毛野廣人が殺害されるという史上初の大規模な蝦夷の反乱が発生した[6]。当時の政府は藤原不比等8月3日に死去し長屋王が政権を握ったばかりであったが、乱の報を受け迅速に対応した。9月29日、縣守は遣唐使使節団を率いた統率力と、東国武蔵国守を務めた経験を買われ、二度目の節刀を賜って征夷将軍に任じられた[7]

この蝦夷の反乱の詳細や、按察使上毛野廣人殺害の状況については不明であるが宮城県大崎市にある官衙遺跡の権現山遺跡・三輪田遺跡と南小林遺跡が火災によって廃絶していることが調査から明らかとなっており、これらの遺跡焼失はこの養老4年の反乱によるものと推定されていることから、反乱はこの大崎地方で起こったものと考えられる[8]。縣守は、征夷将軍に任じられてから半年後の養老5年(721年)4月5日、乱を鎮圧して帰還し、6月26日中務卿に任ぜられた。

長屋王の変

神亀6年(729年)2月の長屋王の変に際して、左大弁石川石足弾正尹大伴道足とともに臨時の参議に任ぜられ、天平4年(732年正月20日中納言となり、天平6年(734年正月17日正三位に叙せられた[9]8月17日山陰道節度使に任じられて因幡国伯耆国出雲国石見国安芸国周防国長門国警固式(対外防衛マニュアル)を策定している[7]

天平7年(735年2月27日に、入京した新羅使が国号を「王城国」に改称したと告知したため、無断で国号を改めたことを責め使者を追い返したこともあった[9]。天平9年(737年6月23日、薨去。当時流行し、藤原四兄弟も命を落とした天然痘が死因であるとする説もある[1]

官歴

脚注

参考文献

  • 鈴木拓也『蝦夷と東北戦争』吉川弘文館〈戦争の日本史3〉、2008年。ISBN 978-4642063135 
  • 上田雄『遣唐使全航海』草思社、2006年。ISBN 978-4794215444 
  • 直木孝次郎『日本古代中世人名辞典 - 「多治比県守」』吉川弘文館、2006年、617頁。ISBN 4-642-01434-9 {{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 森公章朝日日本歴史人物事典 - 「多治比県守」朝日新聞社、1994年、1015頁。ISBN 4-02-340052-1http://kotobank.jp/word/%E5%A4%9A%E6%B2%BB%E6%AF%94%E7%9C%8C%E5%AE%88 
  • 高島正人奈良時代における公卿補任の性格」(PDF)『立正大学人文科学研究所年報』第7巻、立正大学、1969年、pp.3-26。