壬生胤業
時代 | 室町時代~戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 |
明応2年(1494年)11月1日(『常法寺過去帳』) 永正2年(1505年)(『押原推移録』) 永正3年(1506年)(『壬生家盛衰録』) |
別名 | 彦五郎 |
戒名 | 常楽寺殿亀雲道鑑 |
官位 | 筑前守 |
主君 | 宇都宮氏 |
氏族 | 壬生氏(小槻氏) |
父母 | 父:壬生晨照? |
兄弟 | 晴富?、胤業 |
妻 | 正室:智光院殿大丘妙慶 |
子 | 綱重 |
壬生 胤業(みぶ たねなり)は、室町時代~戦国時代の武将。壬生氏初代当主で、下野宇都宮氏の家臣。壬生城城主。壬生晨照の子で綱重の父。
出自
室町時代に京都の地下官人家・壬生家(小槻氏)から出たとされる[1]。
この出自に確証はなく、胤業は毛野氏族の壬生氏(壬生公)の後裔[2]という説もある。
下野宇都宮氏の一族であり、横田氏庶流の壬生朝業の末裔[3]とも考えられている[4]。
略歴
公家でありながら武芸を好み、諸国に下向した末に寛正3年(1462年)下野国で壬生氏を興したとされる。壬生城を築き本拠とし、以後の壬生氏発展の礎を築いた。
宇都宮氏に従属し、息子は元服時に宇都宮明綱もしくは正綱の一字を与えられて「綱重」と名乗っている[3]。
また、壬生町に鎮座する雄琴神社は、胤業が小槻氏の氏神である近江国雄琴(現 滋賀県大津市)の雄琴神社より勧請して合祀し、同名に改めたものとされる。