増東軌道

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増東軌道
路線総延長5.9 km
軌間762 mm
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
STRq
国鉄東北本線
exSTRrg
0.0 増田
exBHF
0.6 町裏
exBHF
2.2 下余田
exBHF
? 円満寺
exBHF
2.8 若宮
exBHF
3.7 高柳
exBHF
4.3? 小塚原
exKBHFe
5.7 閖上
地図外部リンク
増東軌道
駅所在地 開通時(1926年

増東軌道(ぞうとうきどう)は、現在の宮城県名取市内で1926年大正15年)から1939年昭和14年)まで営業した軽便鉄道会社およびその軌道路線である。

現・名取市内を東西に通る宮城県道129号閖上港線に沿って、名取郡田町国鉄東北本線・増田駅(現・名取駅)から東に向かい、同郡多賀村の閖上までの6km弱の軌道線を保有したが、バスとの競合に敗退して開業から10年程で廃止された。会社そのものはバス会社「増東自動車」となり、のち仙台市交通局に統合された。

歴史

平安時代からの集落とされる閖上[† 1]は、安土桃山時代には少なくとも98戸の規模になっていた[1]慶長2年 - 6年(1597年 - 1601年)、阿武隈川河口部の亘理郡荒浜から名取川河口部の名取郡閖上まで、仙台湾に沿って木曳堀(現・貞山運河の一部)が開削され、慶長6年から本格化した仙台城造営および仙台城下町建設に必要な物資が「阿武隈川 - 木曳堀 - 名取川 - 広瀬川」という河川交通を経由して運ばれた[2]。閖上はこの物流経路において大量の材木・米・砂金が集散する重要な結節点となり、江戸九州からも船が集まった[1]。しかし、仙台城および仙台城下町そして若林城および若林城下町という広瀬川沿いの大規模な都市建設事業が終わり、また、北上川改修によって東北太平洋海運の拠点港となった石巻、あるいは、七北田川改修と運河・道路・の整備で仙台との物流経路が整備された塩竈外港の地位が移ったため、17世紀後半には閖上の船運の拠点性は失われた[1]。それでも仙台藩直轄の港として漁業は発達した[3]ため、江戸時代を通じて町場が形成されていた[4][5][6]明治3年 - 5年(1870年 - 1872年)、閖上から七北田川河口部の宮城郡蒲生まで、仙台湾に沿って新堀(現・貞山運河の一部)が開削され、閖上は蒲生や塩竈といった物流拠点と運河系でつながれることになった[2]

現・名取市内にあたる地域の
1900年(明治33年)町村別戸数[7]
高舘丘陵 高舘村
(431戸)
田町
580戸
多賀村
570戸
仙台湾
愛島村
(373戸)
館腰村
(461戸)
下増田村
(277戸)
仙台平野

一方の増田村では、慶安3年(1650年)に駅(うまや)が設置され、元禄6年(1693年)頃までに奥州街道宿場増田宿」が形成された[8]1888年(明治21年)には、増田宿の西側を通る日本鉄道(現・JR東日本東北本線)に増田駅(現・名取駅)が開業した。

明治後期になると、閖上・七ヶ浜・荒浜等で底引網漁業が発達し、動力船の導入、他県船の出入港の増加などが始まった[9]大正初頭[† 2]には宮城県に「三河打瀬」(打瀬網漁)と呼ばれる漁法も伝わり、閖上を初めとする仙台湾の漁港は連日大量の水揚げを記録した[9][10]。大正期を通じて打瀬網漁業は全盛となり[9]、大量の魚をさばくため魚問屋が閖上を構成する5つの(上町・中町・下町・新町・中島丁)ごとに設置された[† 3][10]。漁業で景気のいい閖上では1920年(大正9年)頃に日和山をより大きく造り変えている[1][11]。また、かつて閖上は増田よりやや小さい集落規模だったのが、閖上が増田を大きく凌駕するようになった[7][11]

江戸時代から増田と閖上は街道で結ばれていた[4][5][6][† 4]が、陸上交通で広域とつながる増田と、水上交通で広域とつながる閖上とをより効率的に結びつけることを企図して、両者の間に軌道線を敷設する計画がこの機に生まれた。

1923年(大正12年)8月13日、増田と閖上の有力者ら[† 5]によりに軌道敷設願いが提出された。しかし、同年9月1日大正関東地震関東大震災)が発生すると、1924年(大正13年)3月に軌道敷設の特許が下付されたものの、震災不況により資本金30万円が集まらず、やむなく工事施行を延期したうえ資本金を9万円に変更した[† 6]。総株数の9分の1を閖上が負担することになり、1926年(大正15年)3月に工事着工し、同年11月21日より開業した。

現・名取市内にあたる地域の
1935年(昭和10年)町村別人口[11]
高舘丘陵 高舘村
(3,633人)
増田町
4,528人
閖上町
7,201人
仙台湾
愛島村
(3,249人)
館腰村
(3,381人)
下増田村
(2,450人)
仙台平野

当軌道に建設許可が出る直前の1924年(大正13年)1月18日、関東大震災で被災した東京市電の代替として、東京市バス事業を開始した(円太郎バス)。すると、全国にバス事業が広まり始め、日本はモータリゼーションの時代に突入した。1930年代になると、各地でバスとの競合に敗れて5-20年程度の短い営業期間で廃止となる軽便鉄道が次々現れた。

距離も短く平坦な閑散路線であった当軌道も、必然的にバス路線との競合にさらされた。のちには自社でも路線バス[† 7]を兼業するようになり、軌道の不採算化も著しかったことから1930年代末に廃止に至った。

なお、1997年(平成9年)に当該路線は仙台市営バスから宮城交通の運行に代わり、仙台市営バス閖上出張所は廃止。2007年(平成19年)10月1日、宮城交通名取営業所の路線はミヤコーバス名取営業所の路線に移管された。その後2011年(平成23年)3月11日東日本大震災が発生、津波により閖上地区は大きな被害を受ける。2013年(平成25年)4月1日より、ミヤコーバス路線廃止に伴い、名取市民バス「なとりん号」(桜交通が受託運行)に転換された。

年表

  • 1888年(明治21年)10月11日:日本鉄道(現・JR東北本線)に増田駅(現・名取駅)が開業。
  • 1889年(明治22年)4月1日町村制施行に伴い、現・名取市にあたる地域に増田、東多賀、下増田、館腰、愛島、高館の6か村が置かれる。
  • 1896年(明治29年)6月30日:増田村が町制施行して増田町となる。
  • 1923年(大正12年)8月13日:増田 - 閖上間の軌道敷設願いを提出。
  • 1924年(大正13年)3月11日:軌道敷設の特許が下付される[12][13]
  • 1925年(大正14年)7月27日:増東軌道株式会社設立[12][14]
  • 1926年(大正15年)11月21日:増田 - 閖上開業 (5.9km)[12]。所要は全区間で25分程度であった。
  • 1928年昭和3年)4月1日:東多賀村が町制施行して閖上町となる。
  • 1929年(昭和4年):閖上町に閖上港開設。
  • 1937年(昭和12年):この時点で1日の運転本数は16往復。
  • 1939年(昭和14年)9月19日:路線廃止[15]。実際にはこれより早く軌道の営業を終了していた可能性[† 8]があるが詳細不明。
  • 1943年(昭和18年)11月20日:後身である増東自動車が仙台市に買収されて会社解散。車庫は仙台市営バス閖上出張所となる。

路線

路線データ

駅一覧

増田駅 - 町裏駅 - 下余田駅 - 円満寺駅 - 若宮駅(→多賀社前駅) - 高柳駅 - 小塚原駅 - 閖上駅

接続路線

輸送・収支実績

年度 輸送人員(人) 貨物量(噸) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) 雑収入(円) 雑支出(円) 支払利子(円)
1926(昭和元)年 11,759 1,492 1,706 1,470 236 雑損5,680 171
1927(昭和2)年 133,159 4,956 25,663 18,170 7,493 567 2,076
1928(昭和3)年 185,614 1,037 29,636 20,853 8,783 自動車203 自動車工事費573 3,933
1929(昭和4)年 191,224 616 26,346 22,381 3,965 自動車1,680 4,021
1930(昭和5)年 139,057 413 20,296 16,901 3,395 自動車324 雑損2,167 3,538
1931(昭和6)年 103,744 146 14,395 12,509 1,886 自動車38 3,485
1932(昭和7)年 93,229 88 13,206 12,069 1,137 自動車352 2,940
1933(昭和8)年 90,857 95 12,297 11,475 822 自動車192、償却金7,089 1,541
1934(昭和9)年 88,974 105 12,718 10,547 2,171 自動車742 建設工事評価損3,477 2,436
1935(昭和10)年 86,011 104 12,289 10,520 1,769 自動車368 1,373
1936(昭和11)年 80,269 139 11,579 10,746 833 自動車37 563
1937(昭和12)年 94,621 178 12,517 11,607 910 自動車970 1,242
  • 鉄道統計資料、鉄道統計より

車両

在籍した車両はガソリンカー3両、客車2両、貨車3両であった。当初、ガソリン機関車[† 9]導入を計画していたが、実際には22人乗りの小型ガソリンカーを導入し、客車や貨車もこれで牽引した。

これはガソリンカーとしてはもっとも原始的な単端式(片一方のみに運転台があり、終点では蒸気機関車同様に転車台で方向転換する)で、日本における初期のガソリンカーメーカーの一つである零細企業・丸山車輌が製造した4輪木造車である。エンジンは最大20PSのフォードT形であり、きわめて低出力のプリミティブな車両であった。長さはわずか5mほどで非常に小さかったが、当時のバスは定員10人内外だったので、それよりは輸送力があった。

ガソリンカーは開業時2両、さらに翌1927年(昭和2年)に1両が製造されたのみであり、増東軌道の動力車は、営業期間を通じてこれら3両で済まされた(のちエンジン換装が行われたと見られるが詳細不明)。

実は増東軌道の路線認可では、車両の幅は6フィート(約1.8m程度)に決められていたのであるが、開業に当たってメーカーから納入された車両(1号、2号の2両)は最大幅6フィート8インチ(2m強)であった。図面を見た許認可当局から「どういうことなのか」と問われたため、メーカーと口裏を合わせ、5フィート6インチ幅に改造したと(書類上だけ)報告し、実際は幅広のままで使っていた。

開業翌年に増備した3号については、さすがに規則通りの6フィート未満で製造された。しかしそれに続いて新製しようとした客車について、またしても6フィート8インチで設計申請を行ってしまい、ガソリンカー1号・2号と同様な悶着の末、再び「書類だけ」6フィート未満にして済ませてしまったという。

この幅員の件であるが、戦前は軌道については許認可権が道府県にあり、また車両増備に際しても実車チェックがほとんどなく、専ら書類審査のみで、中央官庁の厳しい審査があまり入らなかった。ゆえにこのような脱法行為があちこちの軌道で行われていた。それどころか許認可なしで勝手に新製・改造した「モグリ車両」さえ多数存在しており、増東軌道も開業当初からモグリのボギー客車を保有していたようである。

廃線後、客車2両が九十九里鉄道に譲渡された。その後1両が九十九里の幼稚園に譲渡され、さらに個人が所有している[16]

脚注

注釈

  1. ^ 17世紀までは「淘上」「淘揚」などと表記した。
  2. ^ 明治末に伝わったとする説もある。
  3. ^ これらはまもなく合併して共同販売所となり、後に閖上漁業協同組合となった。
  4. ^ 江戸時代、増田村は増田宿の増田代官所、閖上浜は長町宿の長町代官所の管轄。
  5. ^ 発起人のうち増田は25人、閖上は16人
  6. ^ その後増資して225,000円になる。『宮城県史 5』700頁
  7. ^ 昭和10年の路線距離は8キロ所有車両1台 『全国乗合自動車業者名簿』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  8. ^ 昭和13年4月に軌道を撤去した『名取市史』716頁
  9. ^ 保線用モーターカーのような簡易な機関車を予定していた。湯口徹「シベリア出兵時の装甲軌道車と自動(車)鉄道」『トワイライトゾーンMANUAL』第15巻、ネコ・パブリッシング、2007年、p.94。 

出典

  1. ^ a b c d 海辺の記憶 - 被災地をたどる / 第2部=名取・閖上(上)城下発展、水運で支える(河北新報 2012年12月19日)
  2. ^ a b 運河の歴史(貞山運河編集委員会「貞山運河事典」)
  3. ^ 32.閖上の笹かまぼこ(名取市「なとり100選」)
  4. ^ a b 番号197 『御領分絵図』(年代不明)宮城県図書館
  5. ^ a b 番号200 『御領分絵図』(慶応元年(1865年))(宮城県図書館)
  6. ^ a b 番号204 『仙台領分図』(寛文10年(1670年) - 延宝6年(1678年))(宮城県図書館)
  7. ^ a b 1900年および1962年宮城県北部地震の被害データと震度分布 (PDF)静岡大学
  8. ^ 会社概要(名取まちづくり株式会社)
  9. ^ a b c 塩竈市魚市場50年の歩み「第一編 魚市場前史」(塩竈市)
  10. ^ a b 海辺の記憶 - 被災地をたどる / 第2部=名取・閖上(下)底引き網漁、盛衰左右(河北新報 2012年12月20日)
  11. ^ a b c まちなみ形成ガイドライン 閖上の自然環境・歴史・文化について (PDF) (名取市 第14回閖上復興まちづくり推進協議会)
  12. ^ a b c 『帝国鉄道年鑑』475頁
  13. ^ 「軌道特許状下付」『官報』1924年3月15日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  14. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第34回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  15. ^ 「軌道運輸営業廃止」『官報』1939年11月2日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  16. ^ 岡本憲之『失われた狭い線路の記録集 究極のナローゲージ鉄道2』講談社、2015年、33頁

参考文献

関連項目

外部リンク