塩谷鵜平

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塩谷 鵜平(えんや うへい、1877年明治10年)5月30日 - 1940年昭和15年)12月8日)は、日本俳人。本名は熊蔵、のちに宇平。別号に芋坪舎、華園など。農業[1]岐阜県稲葉郡鏡島村(現在の岐阜市)出身。

経歴[編集]

岐阜県鏡島村の裕福な地主の家に生まれる。塩谷宇平の長男[1]1898年東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科(現在の政治経済学部)卒業[1]。農業を営む[1]。俳句は中学から詠み始め、当初は正岡子規に師事しホトトギスに投句するも、新傾向俳句に移行していった河東碧梧桐に陶酔し、碧梧桐の門人となる。自身の句誌『壬子集』と合併する形で、碧梧桐が主宰する海紅に参加、自由律俳句を詠むようになる。海紅同人とともに、郷里の岐阜でも『鵜川』『俳薮』などの俳誌を次々と発行、とくに1913年に発行した個人誌『土』は生涯に渡って続けられた。岐阜日日新聞(現在の岐阜新聞)俳壇担当。1940年12月8日、64歳で没、翌年の1941年2月、海紅から鵜平追悼号が発行された[2]

なお、個人誌『土』の奥付には長く「発行所岐阜県在江崎しほのやウヘイ」と記されており、塩谷は「しおのや」が正しいと「近代俳人列伝第1巻」で上田都史が書いている。

人物[編集]

実家は代々続く大地主で資産家であり、鵜平自身も鏡島銀行(のちに現在の十六銀行吸収合併)の頭取を務めた。碧梧桐に対する私財の提供や、作家の藤枝静男への援助、高浜虚子が経営する出版社、俳書堂が資金難に陥った際に支援するなど、その財力から自由律に限らず当時の俳人、文士のパトロン的な一面もあった。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『早稲田大学紳士録 昭和15年版』418-419頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年4月1日閲覧。
  2. ^ 『中塚一碧樓句集 冬海』尾崎騾子、中塚檀撰、中塚唯人、日野百草編(海紅社、2015年12月31日)318-319頁。

参考文献[編集]

  • 早稲田大学紳士録刊行会編『早稲田大学紳士録 昭和15年版』早稲田大学紳士録刊行会、1939年。
  • 森安理文著 『最後の俳人文士・塩谷鵜平翁』トーカイ出版事業 1995年。
  • 岐阜県青少年センター編 『風雪百年郷土にかがやくひとびと』岐阜県 1970年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]