堅山南風

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堅山 南風
(かたやま なんぷう)
アサヒグラフ』 1948年3月24日号より
本名 堅山 熊次[1]
誕生日 1887年9月12日[1]
出生地 熊本県熊本市坪井[2]
死没年 (1980-12-30) 1980年12月30日(93歳没)
死没地 静岡県田方郡[3]
国籍 日本の旗 日本
出身校 高木高等小学校[3]
代表作 「白雨」
横山大観先生」」
「新涼の客」
「M先生」
受賞 #受賞歴参照
会員選出組織 熊本市名誉市民(1969年)[4]
後援者 細川護立[3]
活動期間 大正 - 昭和時代[1]
影響を受けた
芸術家
福島峰雲[3]
高橋広湖[1]
横山大観[1]
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堅山 南風(かたやま なんぷう、1887年明治20年〉9月12日 - 1980年昭和55年〉12月30日)は、熊本県熊本市出身の日本画家[3]。本名は堅山 熊次[1]

横山大観に認められ、院展日展などで活躍した[1]花鳥画、特に鯉を中心とする秀逸な魚類を描いた[1]1914年大正3年)の日本芸術院再興にも加わり[1]、同芸術院常務理事、日展参事などを務めた[1]。ほか、熊本市名誉市民[4]文化功労者文化勲章受章者であり、大正から昭和にかけての日本画界を支える中核だった[1]。代表作に「白雨」。

略歴[編集]

上京まで[編集]

1887年9月12日熊本県熊本市に三男として生まれる[3]。1888年に母を、1893年に父をと早くに父母を失い、以後祖父によって養育された[3]。1898年、熊本市立壺川小学校卒業を経て高木高等小学校に入学、1年時に写生した「ざくろ」が図画教師に称賛された[3]。この頃、地元で鯉を描く画家として著名であった雲林院蘇山に傾倒していた[3]

1904年、生家破産により家を閉じ、西子飼町の源空寺に居候した[3]。同年9月には養育を受けていた祖父が死去している[3]。翌1905年より図書館に通い木版印刷書籍口絵を模写するなどしていた。翌々年1906年より地元画家福島峰雲に師事[3][5]

1909年、同郷の山中神風に連れられて上京した[3]。このとき、上京する電車の車中にて「南風」の画号を自ら選んだ[3]。号は『十八史略・尭舜篇』のうち「南風之詩」から取ったものだった[3]。上京後、神風の紹介により高橋広湖門下となった[3]

文展初入選まで[編集]

高橋門下となって3年後の1911年まで第3回・第4回文展、第11回巽画会などに出品を続けるがいずれも落選し、生活困窮に陥っていた[3]。これを見かねた師高橋が自身の職であった報知新聞連載小説「徳川栄華物語」の挿絵の画を代筆させたことで月額30円の手当を得ることとなった[3]。またこの年、巽画会出品作「弓矢神」が三等銅牌受賞している[3]。しかし高橋は翌1912年に急逝した[3]

師高橋死後の1913年にも巽画会、勧業展、日本画会展などに出品するが二等褒賞や落選を繰り返し、南風はスランプに陥っていた[3]。この年に開催された第7回文展に出品した「霜月頃」が文展初入選、最高賞である二等賞を獲得、後に師事することとなる横山大観の激賞を受けた[3]。また出品作「霜月頃」は旧熊本藩主細川護立の買い上げとなったほか、南風自身も細川の庇護を受けた[3]

横山大観門下から関東大震災まで[編集]

1914年、前述の横山大観に師事した[3]。この年日本美術院が再興[1]されると文展出品を取りやめ、以後院展を作品出品先と定めた[3]。翌1915年には妻を娶っている[3]

1915年に出品した第2回院展「作業」は労働者を群像を描いたものだったが、師横山により題材の品について叱責を受けた[3]。翌1916年11月25日より絵画修業を目的として荒井寛方インド旅行に便乗、カルカッタ周辺で2か月間、翌1917年2月よりブッダガヤデリー、またこれらの帰路にボンベイに立ち寄って周辺写生を行った[3]。特にボンベイではエレファンタ石窟の仏教彫刻に感銘を受けた[3]。しかし同年9月の第4回院展にインドの印象を作品として出品した「熱国の夕べ」は赤、緑など強い色彩を用いたことで色盲と酷評された[3]

1918年より健康を害し、また極度のスランプに陥っている[3]。1920年には健康回復および気分転換のために弓道を開始した[3]。またこの頃より花鳥画の制作を目的として東京近郊から山梨県にかけての写生旅行を行っている[3]。これらのスランプ脱却活動は1922年第9回院展「桃と柘榴」にて横山に好評を受けるまで続いた[3]

1923年9月1日関東大震災発生[6]。当日は院展開催日だった[3]。このときの震災の様子を南風は1925年作の「大震災絵巻」3巻に描いた[3]

日本美術院同人から初個展開催まで[編集]

1924年、日本芸術院同人に推挙される[3]。1926年には東京府美術院評議員に任命された[3]。同年12月には巣鴨から小石川区(現文京区)の細川邸内の一画に居を移した[3]

1927年頃より民謡踊りに熱中、同題材を求めて日本各地を旅行した[3]。1928年には兄の借金返済のため郷里熊本にて画会を行うなどしている[3]

1929年9月、新築された日光東照宮朝陽閣の障壁画を揮毫するため、横山大観の推薦により中村岳陵荒井寛方らと共に同年12月30日まで現地滞在し制作に携わった[3]

1930年4月にはイタリアローマで開催された日本美術展覧会(ローマ展またはローマ日本美術展)[注釈 1]に南風作「水温」「朝顔」「巣籠」が選ばれ出品された[3]

1931年には「美術新論」10月号に「苦難時代を語る」と題して寄稿している[8]。また1936年頃より俳句を作り始め、武蔵野吟社に入社している[3]

1938年3月、東京と京都の画家広島晃甫奥村土牛小野竹喬宇田荻邨金島桂華山口華楊徳岡神泉などが集って結成された丼丼会に南風も結成メンバーとして参加、第1回展に出品した[3]。同年9月より第2回文展に審査員として参加している[3]。また1940年4月には自身初の個展を開催、自身の画塾「南風塾」を「翠風塾」と改称した[3]

日展出品時代[編集]

戦時中の1945年6月には横山大観と共に山梨県山中湖湖畔に疎開した[3]。同年終戦後11月、南風の所属する帝国美術院文部省主催の日本美術展覧会への参加要請を日本美術院が受諾したことで翌1946年3月開催の第1回日展に南風も作品を出品し、以降、日展と院展の双方に作品を出品するようになる[3]。日展出品は1957年まで続けられた[3]

1951年、日展運営会参事に就任[3]。1954年7月には奥村土牛酒井三良などと箱根旅行に赴いた[3]。1955年第40回院展に出品した武者小路実篤をモデルとした「M先生」は代表作に数えられる[3]

1956年3月、南風門と郷倉千靭門の門下生合同による塾展旦生会が結成された[3]。またこの年、熊本県文化功労者に推挙された[3]

横山大観死去から妻死去まで[編集]

1958年、長年師事した横山大観が死去[9]。同年4月、伊東深水と共に日本芸術院会員に推挙[3]。また5月には日本美術院が財団法人となり、南風は当初監事に就任、のち理事となった[3]

1962年2月23日に発刊されたアメリカ合衆国のニュース誌タイムの表紙に、同誌依嘱により制作した南風の「松下幸之助像」が使用された[3]。1968年10月には文化功労者に選出されている[10]

1969年、同郷の俳人中村汀女をモデルとした「新涼の客」が完成、第54回院展出品[3]。同年熊本市名誉市民[4]。1971年、妻死去[3]。翌1972年、静岡県韮山町(現伊豆の国市)に別荘を購入したが、手狭であったため田方郡に別荘を新築し以後こちらによく滞在するようになった[3][注釈 2]

米寿以降[編集]

1975年、米寿を迎え熊本で「堅山南風米寿記念展」が開催、「霜月頃」以下南風作品50点が展示された[3]。この年ポリネシアタヒチ島へ写生旅行に趣き、以降の作品は色彩が更に鮮明になった[3]

1978年1月4日より読売新聞紙上で自伝抄「思い出のままに」連載開始[3][注釈 3]

1980年12月30日、肺炎のため静岡県田方郡の別荘で死去[3]

受賞歴[編集]

多作のため入選のみはあらかじめ省いた。

受賞一覧[3]
受賞年 賞名(出品展覧会) 備考
1910年 三等褒賞(第11巽画会) 「往来」
1911年 三等銅牌(第12回巽画会) 「弓矢神」
1912年 一等褒状(第13回巽画会) 「路辺」
1913年 二等褒賞(第14回巽画会) 「遅日」
1913年 二等賞(第7回文展) 「霜月頃」
1940年 第1回西日本文化賞(第26回院展) 「千里壮心」(1939年院展作)
1963年 文化功労者
1968年 文化勲章
1969年 熊本市名誉市民[4]

主な作品[編集]

著書[編集]

  • 『堅山南風自選 魚類篇』芸艸堂、1940年。国立国会図書館サーチR100000001-I065189412-00 
  • 『鳴竜』大塚巧芸社、1970年。国立国会図書館サーチR100000001-I019949789-00 自費出版[3]
  • 『花 : 堅山南風素描』日本放送出版協会、1978年11月。国立国会図書館書誌ID:000001393366 
  • 『想い出のままに』求竜堂、1982年9月。ISBN 978-4763082114 
  • 『アサヒグラフ別冊 第33号 美術特集:堅山南風』朝日新聞出版、1983年8月。ISBN 978-4022700339 
  • 『花を描く : 堅山南風素描集』青幻舎、2006年10月。ISBN 978-4861520877 

主な作品収蔵先[編集]

脚注[編集]

注釈
  1. ^ 日展(日本美術展覧会)とは異なる[7]
  2. ^ 田方郡の別荘で死去した[3]
  3. ^ 没後の1982年9月に求竜堂より書籍発刊された(#著書参照)。
出典
  1. ^ a b c d e f g h i j k l "堅山南風(読み)かたやま なんぷう". コトバンク. 2018年7月24日閲覧
  2. ^ "堅山南風素描展" (PDF). 肥後銀行. May 2017. 2018年7月24日閲覧
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「堅山南風」(2015年12月14日)、2018年7月24日閲覧。
  4. ^ a b c d "熊本市 市勢要覧2012". 熊本市. 2012. 2018年7月24日閲覧
  5. ^ "福島 峰雲". 徳富蘇峰記念館. 2018年7月24日閲覧
  6. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 (2014). "関東大震災". コトバンク. 2018年7月24日閲覧
  7. ^ アルス・ニッポニカ : 昭和5年「ローマ展」と日本画へのイタリア側の批評 (Report). 早稲田大学. 2007. 2018年7月24日閲覧
  8. ^ "美術新論 1931年10月号". 美術新論社. October 1931. pp. 186–188. 2018年7月24日閲覧
  9. ^ "横山大観". 足立美術館. 2018年7月24日閲覧
  10. ^ 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「文化勲章功労者受賞者決定」(1968年10月)、2018年7月24日閲覧。

外部リンク[編集]