執政官

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古代ローマ

ローマ時代の政治


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執政官(しっせいかん、consul、コンスル)は、古代ローマでの政務官のひとつ。都市ローマの長であり、共和政ローマの形式上の元首に当たる。訳語として執政官のほかに統領を用いることもある。

概要

執政官は共和政ローマにおける最高職である。定員は2名。平時は内政の最高責任者として政務を執り、戦時は軍団を組織するとともに軍団の最高指揮官として軍務を掌握し、また戦場においては直接指揮を執った(つまり、軍政軍令の責任者と同時に現場指揮官でもある)。この権限をインペリウム(指揮権)と言った。他に、民会や元老院の召集権や議案提出権も保持した。加えて、もう一人の執政官や下位政務官の決定に対し拒否権を行使する権限が与えられていた。また、非常時と認めた場合は、臨時の最高官職であるディクタトル(独裁官)を指名する権限もあったが、実際には元老院の協賛を得て指名されたとされている。小説家の塩野七生は、執政官の権限を『首相兼防衛大臣兼統合参謀本部長[1]』と譬えている。

執政官は、元老院が候補者を選び(候補者資格を決定し)、ケントゥリア民会での選挙により選任される。定員が2名とされたのは独裁を防ぐためであり、それ以前の王政が復活するのを防ぐ意味もあった[注釈 1]。任期は1年で、元来は再選は許されなかったが、次第に再選も許されるようになった。

執政官ほかインペリウム保持者には、先導警士(リクトル)が付く特権があった。このリクトルはファスケス(fasces)と呼ばれる、斧の柄の周りに棒を束ねたものを捧げ持ち、これはインペリウム保持者であることを示す権威の標章であった[注釈 2]

2名の執政官だけで対処できない事態が発生した場合などは、必要に応じて、執政官経験者にプロコンスル(前執政官)の職でインペリウムを与えて事態の収拾に当たらせることもあった。後にこの制度は常設化し、プロコンスルらに属州総督として属州経営を担わせた。

執政官は絶対的な権力であるインペリウムの保持者であったとは言え、元老院の権威は絶大であり、首都で行使される執政官の権力は元老院の強い意向を受けた。

新任の執政官は、毎年1月1日紀元前153年より前は3月1日)から任期が開始される。1月1日に就任する執政官は、正規執政官(consul ordinarius(sg)/consules ordinarii(pl))と呼ばれる。執政官が任期中に死亡すると[注釈 3]後任が選挙によって選ばれる。この執政官はとくに補充執政官(consul suffectus(sg)/ consules suffecti(pl))と呼ばれた。

アウグストゥスによりローマが共和政から帝政に移行した後は、多くの属州総督(執政官経験者が就任する)を生み出す必要から正規執政官が死亡した場合だけではなく任期途中で辞任し、他の者に補充執政官として執政官職を経験させるようになる。場合によってはその補充執政官も任期前に辞任し、また他の補充執政官がその座を埋めることもあった。コンモドゥスが皇帝だった190年にそれはピークを迎え、1年の間になんと25名もの執政官経験者が誕生した。

古代ローマでは、以下に例示するように、正規執政官の名を書くことで、その年を表した。

歴史

執政官が初めて置かれたのは、伝説では共和政へ移行された紀元前509年と信じられている。しかし初期のローマ共和国史は伝説の域を出ず、また執政官も連続して置かれたわけではなかった。当初は執政官の名は「プラエトル[注釈 4]」と呼ばれていたらしいが、紀元前305年より「コンスル」という名において引き継がれたという。

戦時において選出される執政官には、軍事的才能と名声が重んじられたが、その権限ゆえに執政官の選挙は常に政治的な関心を集めた。初期には執政官は貴族(パトリキ)のみに独占され、紀元前366年はじめて平民(プレブス)が執政官となったが、それまでに執政官の選定はしばしばこの時代のパトリキ、プレブスの党争の原因となり、このような対立を避けるために共和政ローマの一時期執政官は一時休職とし、暫定的に6人までの執政官格軍司令官という官職が設置され、またたびたび元老院によって独裁官が置かれることがあった。対立が緩和されリキニウス・セクスティウス法が公布されると、ふたたび執政官が最高位官職となった。

初期のローマ帝政(プリンキパトゥス、元首政)は共和制の枠組みを乗っ取ったようなもののため、移行した後も2名ずつ執政官は置かれ続け、執政官及び経験者は依然高い地位であり続けた。また皇帝と共に就くものはその後継候補者として大きな意味を持った。しかし541年東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によって官職としては廃止され、名誉的な爵位の名前(7世紀にギリシャ語が公用語になって以降は、ギリシャ語の「ヒュパトス」)として残るのみとなった。

執政官の名は後の歴史にも幾度か用いられている。領事館制度を創設したヴェネツィア共和国では、その領事にコンスルの称号を名乗らせた(領事官に consul の名が残っているのはそのためである)。また古代ローマへの強い憧憬のもとにあった革命前後のフランスでは、ブリュメールのクーデター後に成立した政府の首班に consul(執政、または統領と和訳される)の語が使われている。

歴代執政官

脚注

注釈

  1. ^ ラテン語の consulus は「共に歩く者」を意味する。
  2. ^ このファスケスは現代イタリア語では Fascio(ファッショ)で、ファシズムの語源ともなった。
  3. ^ 上述のように軍指揮官の権限も持っていたため、共和政期にはガイウス・フラミニウスのように戦死する執政官もしばしば存在した。
  4. ^ Praetor、一般にローマ史に書かれる「法務官」はこの時代より後の時代のものである。詳細はプラエトルを参照。

出典

  1. ^ 塩野七生『ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず』文庫版2巻p96 (新潮文庫)より

参考文献

関連項目