土岐頼旨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

土岐 頼旨(とき よりむね、文化2年(1805年) - 明治17年(1884年4月2日)は、江戸時代後期(幕末)の旗本幕臣官位丹波守、禄高は7000石。知行地は常陸国小文間村(現・取手市)など。上野沼田藩土岐家の分家、溜池土岐家第6代[1]。子に頼礼(頼徳)、小出秀実らがいる。

生涯[編集]

江戸生まれ。出身は江戸崎土岐家系統の旗本。土岐朝旨の子として生まれ、溜池(赤坂の町名)土岐家の土岐頼量(沼田藩土岐定経の子)の婿養子になる。 文政5年(1822年9月26日寄合より火事場見廻となったのを始めに文政12年(1829年12月24日に西丸目付、文政13年(1830年11月20日に本丸目付天保7年(1836年1月11日普請奉行、天保9年(1838年2月12日作事奉行を経て天保12年(1841年)に勘定奉行に就任した。天保13年(1842年4月15日書院番頭に移り、天保14年(1843年9月8日下田奉行、天保15年(1844年2月8日浦賀奉行となり、弘化2年(1845年)にマーケイター・クーパー指揮下のアメリカ捕鯨船マンハッタン号が日本人漂流者を江戸に送り届けたいことを幕府に届け出た時、浦賀で漂流民を受け取るべきと幕府に上申、認められてマンハッタン号を浦賀に入港させ、漂流民を受け取った。同年3月20日大目付海岸防禦御用掛(海防掛)に異動、弘化3年(1846年3月28日大番頭嘉永5年(1852年7月8日留守居に移る。

安政2年(1855年2月5日老中阿部正弘安政の改革の一環として設置した講武所の総裁に跡部良弼と共に任命される。また、8月9日には大目付兼海岸防禦御用掛(海防掛)にも再任され、幕末の海防に携わった。安政4年(1857年)11月には老中堀田正睦の命により、川路聖謨と共にアメリカ総領事タウンゼント・ハリス日米修好通商条約の交渉に当たった。また翌安政5年(1858年)2月にはオランダとの交渉にも携わっている。

将軍継嗣問題に関しては一橋派に属して一橋慶喜の擁立を図り、松平慶永と通じたり、南紀派井伊直弼松平忠固らの駆逐計画について岩瀬忠震と議したりしていたが[2]、安政5年(1858年)5月6日に突如大目付を免ぜられ、大番頭左遷させられた。さらに翌年の安政6年(1859年10月19日には安政の大獄により職を免ぜられ、隠居・差控を命じられた。

その後は公職に復帰することなく、明治17年(1884年)に没した。享年80。

経歴[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『群馬県立歴史博物館紀要第』(第23号, 2002年)
  2. ^ 『明治維新人名辞典』654頁。

参考文献[編集]

  • 『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。 654頁
  • 『群馬県立歴史博物館紀要』第23号、2002年。
  • 平尾信子「黒船前夜の出会い」(NHKブックス)1994年。128頁
  • 小川恭一編『寛政譜以降旗本家百科事典 第3巻』東洋書林、1997年。
  • 土居良三『開国への布石 評伝・老中首座阿部正弘』未來社、2000年。