圓鍔勝三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。MetaNest (会話 | 投稿記録) による 2016年4月7日 (木) 12:22個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎主な彫刻作品の設置場所)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

圓鍔 勝三(えんつば かつぞう、1905年11月30日 - 2003年10月31日)は、広島県出身の彫刻家文化功労者文化勲章受章、広島県名誉県民、尾道市名誉市民。

来歴・人物

広島県御調郡河内村(現・尾道市御調町)出身。本名は勝二。河内尋常高等小学校高等科を卒業後、京都の彫刻師・石割秀光の内弟子になる。京都市立商工専修学校、関西美術院彫塑を学ぶ。

しかし、単なる職人で終わることを嫌い上京し日本美術学校彫刻科へ入学。同校在学中の1930年、第11回帝展に「星陽」を出品し初入選。日本美術学校を卒業後、彫刻家の澤田政廣に師事。1932年、母が娘に紅を差す何気ない日常の一瞬を描写した「初夏」を第3回文展に出品し特選。

戦後、圓鍔の彫刻は高い評価を受ける。1946年、第2回日展で「砂浜」が特選。1947年、第3回日展で「しろうさぎ」が特選。1950年、第6回日展で「土器を持つ女」が特選。

1950年、多摩美術学校(多摩美術短期大学教授に就任。1951年、日展審査委員に就任。1953年、多摩美術大学彫刻科教授に就任(その後、同大学彫刻科名誉教授の称号を得る)。

1960年、名を勝三に改名。1962年、日展評議員に就任。1965年、第8回日展に出品した「旅情」が文部大臣賞、日本芸術院賞(1966年[1])を受章。1968年、日本美術家連盟委員、日本彫塑家協会委員長に就任。

1970年、日本芸術院会員。1971年、日展常務理事に就任。同年、紺綬褒章受章。1976年、勲三等瑞宝章受章。

1980年、日本彫刻会理事長に就任。同年、神奈川県文化賞受賞。1981年、日展顧問に就任。同年、御調町名誉町民第1号に登録される。1982年、文化功労者。1988年、文化勲章を受章。1989年、広島県名誉県民に登録される。同年、自伝「わが人生」を出版。

1991年、川崎市名誉市民に登録される。1993年、伊勢神宮に「神馬」を奉納。同年、圓鍔勝三彫刻美術館、圓鍔記念公園が開館。1997年自伝「続・わが人生」を出版。

2003年10月31日、鬱血性心不全のため死去。

圓鍔はときに古典的な彫塑の要素を離れデフォルメを強調した作品や、彩色を施した彫刻、石や金属、ステンレスなど複数の素材を組み合わせた作品を発表した。自らが見た夢を題材に選ぶなど抽象的な表現にも果敢に挑戦した。また、作品には独特なタイトルを付け独自性を強調した。常に新たな表現を模索し、晩年まで作家活動を行い、生涯創作意欲が枯れることはなかった。

略歴

  • 1928年(昭和3年) 日本美術学校入学
  • 1932年(昭和7年) 同校卒業
  • 1950年(昭和25年) 多摩美術短期大学教授
  • 1953年(昭和28年) 多摩美術大学教授
  • 1962年(昭和37年) 日展評議員
  • 1971年(昭和46年) 日展常務理事
  • 1980年(昭和55年) 日本彫刻会理事長
  • 1981年(昭和56年) 日展顧問

主な受章歴

主な彫刻作品の設置場所

  • 「女神」 1973年(昭和48年) 兵庫県神戸市中央区楠町4・大倉山公園
  • 「花園の歌」 等身大群像 1981年(昭和56年) ブロンズ。76歳のとき木彫で制作 埼玉県熊谷市星川シンボルロード(星川広場)
  • 「かたらい」 1969年(昭和44年) 木彫 埼玉県熊谷市宮町2-47-1 熊谷市役所1階ロビー
  • 仁王像一対 1978年(昭和53年) 木彫 東京大田区池上本門寺本殿。元は再建された仁王門に祀られていたが、近年修理のため撤去され、修理後は本殿に移された。
  • 「紫式部像」 1986年(昭和61年) ブロンズ。福井県武生市 紫式部公園
  • 「魚と少年」 2013年(平成25年) ブロンズ。東京都世田谷区深沢 日本体育大学世田谷キャンパス1階エントランスホール。
  • 「仲間」 東京駅新幹線中央乗換口付近(濱口雄幸首相遭難事件の概要プレートおよび床面マーキング付近)。

参考文献

  • 圓鍔勝三「大本山本門寺仁王像謹作をひかえて」『史誌』6号、大田区史編纂室、1976年。

脚注

  1. ^ 『朝日新聞』1966年4月7日(東京本社発行)朝刊、14頁。

関連項目

外部リンク