国尊王
国尊王(くにたかおう、生没年不詳)は、鎌倉時代の皇族。三品・惟明親王の子。無位無官か。片野宮あるいは交野宮と称した。
経歴
幼少の頃、醍醐にて外祖父の白河染殿僧都に養育されていた。本来は兄たちと同様に出家する予定であったと想定されるが、嘉禄元年(1225年)鎌倉幕府の命令により出家を止められる[1]。これは、当時の後堀河天皇が虚弱で皇子の誕生が危ぶまれたことから、鎌倉幕府が万一の用意として国尊王を皇嗣の候補として考慮したためと想定される[2]。また、鎌倉幕府の意向を受けて、大納言・堀川通具は進んでその扶助に当たることを希望した[3]。しかし、嘉禄3年(1227年)通具は没してしまう。
その後、元服も朝廷への出仕もせず有髪の姿で遊女で有名な江口・神崎付近で遊び暮らしていた。寛喜元年(1229年)背丈より髪を伸ばした姿で関東へ赴き、鎌倉の鶴岡八幡宮の拝殿に座って下向の意思を表明した。驚いた幕府から帰京すべき旨を伝えられるが、京に帰っても住む所はなく、元服も出家の予定もない、ただここに居住したいと懇望した。結局、然るべき僧侶のもとで出家するようにと、幕府によって武士一人を付けられて京都に送り返されてしまい、再び醍醐に住まわされたという[4]。