回廊列車

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ウィーンバーゼル行き特急列車の案内。途中ザルツブルク - クーフシュタイン間で回廊列車となる旨が表示されている。

回廊列車(かいろうれっしゃ)とは、本来は国内列車であるが、さまざまな理由により国外の路線を経由して運行される旅客列車のこと。そのほぼすべてが欧州にある。「廊下列車」(ろうかれっしゃ)とも呼ばれる。

通常、回廊列車が経由する国外の路線上の駅はすべて通過扱いであり、原則として乗降はできないが、その代わりに出入国手続などが不要となっている。

成立の理由

回廊列車が成立する理由としては次のようなものがある。

  • 他国の領内を通った方が短時間で到達できる場合(距離が短い、カーブや急勾配が少なく高速が出せる、など)
  • 飛地と本国を結ぶ路線の場合
  • 建設された時は全区間が自国領だったが、後に途中の区間が他国領になってしまった場合

シェンゲン協定発効によって国内扱いにする必要がなくなり廃止された事例もある。

乗車の要件

国際列車であるが、経由する国との合意の上で国内列車の扱いにするため、通常は乗車に必要な運賃・料金の支払いのみで、パスポートビザ、出入国手続などは不要である。そのため、当該国で乗客が降りられないような措置が必要である。

閉鎖列車・閉鎖車両

いずれも現存例はないが、国外路線の通過中に運転上の理由などで停車する列車の場合、乗客がみだりに車外に出ないよう、車両の乗降口に施錠することがあった。このような列車は「閉鎖列車」「封印列車」と呼ばれることもあった。

また、通常の国際列車に、回廊列車扱いとなる車両を併結する場合もあった。この場合、国外路線の通過中は当該車両の出入口(側面の乗降口と他の一般車両との間の貫通扉)に施錠されることが多く、「閉鎖車両」と呼ばれた。

現存するもの

ポーランド
プシェムィシルザグシュ英語版間やマルホヴィチェ英語版クロシュチェンコ英語版間等の連絡列車はウクライナ領内を通過する。
オーストリア
ブルゲンラント州を南北に縦断し、ブルゲンラント鉄道線はハンガリー領内を通過する。冷戦時代は運行が極めて困難となったこともあったが、現在は近郊線としてフリークエント運送を行っている。
また、ウィーンザルツブルクインスブルック間を結ぶ際にはドイツローゼンハイムを通過する。
フランスイタリア
イタリアピエモンテ州クーネオから、タンド峠を越えフランスアルプ=マリティーム県のタンド(イタリア名: テンダ)を経由し、地中海沿岸のイタリアリグーリア州ヴェンティミリアと、ニース(ニース・ヴィル駅)とを結ぶタンド線
ロシア
カリーニングラード州からモスクワサンクトペテルブルクへ向かう列車はリトアニア領内を通過する(ベラルーシ領内も通過しているが、この区間は通常通り運行される。)。
ドイツ
ザクセン王国時代にオーストリア・ハンガリー帝国ボヘミアと合意の下に建設されたチェコ領の地域を通過するミッテルヘルヴィヒスドルフドイツ語版アイバウドイツ語版間とプラウエン~エーガー(現チェコ領ヘプ)間の2つの路線は戦後も東ドイツ国鉄によって運行され、現在もドイツ鉄道によって継承されている。(冷戦時代はチェコも東側陣営の国家であったため実現可能であった。)
セルビア
首都ベオグラードから隣国モンテネグロの港湾都市バールを結ぶベオグラード=バール鉄道は途中ボスニア・ヘルツェゴビナ領内を通過する。ユーゴスラビア紛争によって破壊されたが、現在は全線復旧している。

過去に存在したもの

第一次世界大戦後のドイツ
第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約によって成立したポーランド回廊により、ケーニヒスベルクを首都とする東プロイセンは飛地となった。東プロイセンとドイツ本国を結ぶ列車はこの回廊部分を通過するために便宜的な措置が取られ、1936年まで下記のルートを走行する列車があった。なおポーランド回廊に位置する駅には「(回廊)」を付記した。


第二次世界大戦後のドイツ
四分割統治時代に各占領地域を結ぶ連絡列車の運行が始まり、1949年の両ドイツ政府樹立以降も西ドイツから東ドイツ領域内を通過して西ベルリンの数駅に停車し、再び東ベルリンの国境駅でありトランジット通行が可能であったフリードリヒ通り駅に至るベルリン連絡のためのドイツ領域通過列車が1989年まで存在した。西ドイツ東ドイツを主権国家として認知しておらず、[1]この列車は「回廊列車」としない。事実、この列車の車内では旅券・査証の審査が東西ドイツ側で行われ、食堂を除く乗務員・審査官・国境警備隊等が全て交替勤務するなど、回廊列車の定義とは異なる運行形態がとられていた。
ベルリン
東西ベルリンの分割統治時代、ベルリン地下鉄6号線・8号線(当時)およびベルリンSバーン1号線・2号線(当時)は、乗客の主体が西ベルリン市民でありながら東ベルリン地域を通過する線形が保たれ、紆余曲折を経ながらも東ベルリン側の駅ホームは撤去されないままに列車が通過していたため、幽霊駅と呼ばれていた。閉鎖された駅は東側の国境警備隊が24時間警戒にあたっていた。なお、1984年まではSバーン1号線・2号線の運行管理を東ドイツ国営鉄道が行っていた。前述の理由で、両ドイツ国家の関係、並びに当時の西ベルリンが国際法上英仏米の三カ国の管理下にあったこと等を考慮するとこれも回廊列車とは定義できない。
トルコ
ギリシャ領内を経由するものがあった。トルコ領内のエディルネイスタンブルを結ぶ鉄道路線は1923年のトルコ・ギリシャ国境確定前に建設されており、国境確定後はエディルネ駅はトルコ領内に、その前後区間がギリシャ領内となってしまったため、エディルネと他のトルコ領内を鉄道で移動しようとすると、どうしてもギリシャ領内を通る必要があった。この区間は厳密な回廊列車ではなく、途中駅での乗降も可能であったが、エディルネ - トルコ領内の乗客(ギリシャ領内では乗降しない)に対し、ギリシャの出入国手続は行われず、回廊列車としての利用が可能であった。1970年頃、トルコ領内のみを通ってエディルネへ至る鉄道路線が建設され、ギリシャ領内を経由する必要がなくなり消滅した。
ベルギー
19世紀にドイツがアーヘン近郊のオイペンからレーレン英語版マルメディ を経由してベルギー領へ通じる路線として建設したフェン鉄道 は、第一次世界大戦後に起点のオイペンを含む沿線の大部分がベルギーに割譲されたことに伴ってベルギー国鉄の路線となったが、レーレン - マルメディ間の一部はドイツ領内に取り残された。線路や駅の敷地も鉄道付属地としてベルギー領になったが、ドイツ領内を通る区間の駅で乗降できる車両は限定され、それ以外の車両はドアに施錠されていた。なお、ドイツ人がベルギー領である線路上の踏切を横断して反対側のドイツ領へ行く場合は手続きは不要であった。第二次世界大戦後に廃止され、後に保存鉄道として復活したが、それも運行を終了している。
オランダ
飛地だらけの町であるバールレ=ナッサウにはかつて鉄道が通っていた。当然線路は飛地(ベルギー領バールレ=ヘルトフ)を横断していたが、駅はなかったようである。
オーストリア
ドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェンとオーストリアのロイテドイツ語版を結ぶのが目的であった。ディーゼルカー2両から3両程度の需要しかないため、1両を閉鎖車両としていた。この間は途中1・2駅ごとにオーストリア領とドイツ領を越えていたための処置である。1995年にオーストリアのシェンゲン協定発効により閉鎖車両は廃止された。
イタリア
イタリアが第1次大戦後、サン=ジェルマン条約によって南チロル一帯(現:トレンティーノ=アルト・アディジェ州)を獲得すると、残余部分はチロル州としてオーストリア領に留まったものの、東チロルは北チロルと分断された格好となった。割譲された南チロルを回廊し、東チロルを北チロルと結ぶのが目的であったが、現在では途中駅にも停車し、乗降が可能な通常の国際列車とほぼ同じ位置づけとなっている。オーストリアのシェンゲン協定発効で廃止。
ハンガリー
オーストリアブルゲンラント州は第一次大戦までハンガリーに属しており、のちに住民投票でオーストリアに帰属したが、ショプロンだけはハンガリーに残った。東西冷戦の時代は完全な回廊列車であり途中駅に停まることもなかったが、現在は途中のショプロン駅でオーストリア・ハンガリー合弁のジュール・ショプロン・エーベンフルト鉄道ドイツ語版と接続しているため、相互に乗り換えができた。2007年ハンガリーのシェンゲン協定発効で廃止。

脚注

  1. ^ 1973年6月に発効した'”東西ドイツ基本条約”を通じ、両国間の国連加盟を目論んだ外交政策と経済協力とを円滑にするために飛躍的進歩が行われた。東ドイツは1974年にドイツの統一を憲法の条文から削除し自らの国家の独立性を強調したが、西ドイツ側は終始、東ドイツの問題は社会学的に未解決の問題であり、独立国家ではないという立場を貫いた

外部リンク