四辻善成
時代 | 南北朝時代 - 室町時代前期 |
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生誕 | 嘉暦元年(1326年) |
死没 | 応永9年9月3日(1402年9月29日) |
改名 | 善成王→源善成→常勝(法名) |
別名 | 惟良(筆名)、四辻、清閑寺左大臣、松巌寺左大臣(号) |
官位 | 従一位、左大臣 |
主君 | 後光厳天皇→後円融天皇→後小松天皇 |
氏族 | 四辻宮家→四辻家(順徳源氏) |
父母 | 父:尊雅王 |
兄弟 | 無極志玄、善成、智泉聖通 |
子 | 松蔭常宗 |
四辻 善成(よつつじ よしなり)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての公家・学者・歌人。従一位左大臣。順徳天皇の曽孫。尊雅王の子。 関白・二条良基の猶子となり、その庇護を受けた。四辻宮家に生まれる。姉に石清水社祀官・紀通清の妻となった智泉聖通がおり、その娘・良子が足利義満・満詮の生母となる。つまり足利義満の母方の大叔父である。
生涯
康永2年/興国4年(1343年)、従四位下に叙せられ左少将に任ぜられる。文和5年/正平11年(1356年)1月、源姓(順徳源氏)を賜与され臣籍に下り、直ちに従三位に叙せられる。延文3年/正平13年(1358年)1月、正三位に昇叙。延文4年/正平14年(1359年)8月、左中将に任ぜられる。康安元年/正平16年(1361年)、従二位に叙せられ播磨権守に任ぜられる。貞治2年/正平18年(1363年)4月、正二位に昇叙。貞治6年/正平22年(1367年)6月、参議を経ず権中納言に任ぜられる。建徳元年(1370年)権大納言に昇進する。応安4年/建徳2年(1371年)、権大納言を辞した。弘和元年(1381年)12月、従一位に叙された。嘉慶元年/元中4年(1387年)12月、准大臣となる。応永元年(1394年)6月5日、内大臣に任ぜられるが、同年12月25日には内大臣を辞した[1]。将軍足利義満・管領斯波義将の後援があり、応永2年(1395年)7月20日に左大臣に昇るが、同年8月29日に左大臣を辞して出家した。なお、出家にあたって親王宣下を望んだという[2]が、斯波義将の反対で果たせなかった。
人物
歌人・古典学者としても知られ、若いころに河内流の源氏学者で二条派歌人の丹波忠守の薫陶を受けた。大臣や将軍をはじめ、地方国人にも古典を講じて人望があったという。
正六位上物語博士源惟良の筆名で、貞治年間に『源氏物語』の注釈書である『河海抄』を将軍足利義詮に献じている。『河海抄』以前、『源氏物語』の注釈は鎌倉で作られた河内系のものか、一部分のみを注したものしかなく、規模の大きな『源氏』の古注釈としてはもっとも早いもののひとつであると言える。『河海抄』の注説は、後代に編纂された古注に大きな影響を与えている。また、その源氏の秘説を集めた書が『珊瑚秘抄』である。『千鳥抄』は元中4年(1387年)に始められた善成の講義を、大内氏の家臣平井相(道)助が記録したものである。
勅撰歌人として『風雅和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に15首が入集している[3]。
松巌寺を建立
文和2年(1353年)、晦谷祖曇を開祖として天竜寺塔頭である松巌寺を建立した。松巌寺の旧地に善成の墓所が残っている。
系譜
唯一確認出来る息子の松蔭常宗は出家の身であり、応永14年(1407年)3月1日の死去によって四辻宮の系統は断絶したとされている。