四段目

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四段目』(よだんめ)は、古典落語の演目の一つ。上方では『蔵丁稚』(くらでっち)と呼ばれる。原話は1771年明和8年)に出版された『千年草』の一遍、「忠信蔵」[1]

上方で『蔵丁稚』として完成された演目が、明治以後になって東京に移植された。主な演者には、上方の三代目桂米朝、東京の八代目春風亭柳枝二代目三遊亭円歌らがいる。

内容

このごろ、丁稚定吉が使いに行ったっきりなかなか帰って来ないことが続く。店の旦那が不思議がっていると、出先から戻ってきた番頭から「定吉が芝居小屋に入っていくところを見た」と告げられる。聞くと、定吉は途轍もない芝居好きで、出かけるたびにうまくごまかして芝居見物をしているんだとか……。

そういえば、この前、表で犬の尻尾を踏んづけた定吉が「あぁ~ら、あやし~やなぁ~」などと唸っていた。

数日後、また定吉がお使いに行ったっきり帰ってこないので、頭に来た旦那が小言を言ってやろうと待ち構えていると、そこへ何も知らない定吉が帰ってくる。

「何処へ行ってた?」

「ご存知の通り、日本橋の加賀屋さんへ行ってまいりました。ちょうど蔵のお掃除をしていましたので、そのお手伝いをしていたので遅くなりました。あ、旦那様にお会いしましたら、『両三日中に伺いますのでよろしく』と、仰っていました」

ところが、その「加賀屋の旦那様」はついさっきまで、ここの旦那と囲碁を打っていたのだ。そのことを衝かれると

「実は、帰りにおっかさんと出会いまして。話を聞いたら、おとっつぁんが去年からの長患いで臥せっているから、早く良くなるようお百度参りをしているのだと……。倅としてはほうっておけず、旦那に悪いと思いながら私も参加しました」

と涙ながらの説明。ところが、その「重病人」は今年の正月に年始参りに来ていたのだ。そのことを問われると、

「お正月なので、病気も休んだのでございましょう」

旦那は唖然。それでも定吉はめげずに、「私は芝居なんて大嫌いです。男が白粉をつけてベタベタするなんて、気持ち悪くて見ただけで気絶します」としぶとい。

そこで旦那は一計を案じて、「そんなに嫌いなら、明日奉公人を残らず歌舞伎座に連れていくが、お前は留守番をしてくれ」と言い渡す。すると案の定、定吉の様子がおかしくなってくる。旦那はさらに

「知り合いに聞いたら、今月の『忠臣蔵』は良いそうだ。何でも、五段目の山崎街道に出てくる猪の前脚を市川團十郎、後ろ脚を市川海老蔵がやるそうだ」

すると途端に定吉は笑い出して、

「そんな役を成田屋がやる訳無いじゃありませんか。あんなのは稲荷町という下っ端の役者がやるものなんですよ!」

「でも、知り合いは……」

「私は、今観てきたんです!!」

「この野郎ッ。やっぱり芝居を観てきたな……。語るに落ちるとはこの事だ!!」

「うぅー。謀る謀ると思いしに、返ってこの屋の茶瓶にぃ、謀ぁかぁらぁれぇたぁ~」[2]とまた芝居がかりで唸ったもんだから、とうとう堪忍袋の切れた旦那に蔵の中へ引きずっていかれ、そのまま閉じ込められてしまった。

しばらく経つうちに腹が減ってくる。仕方がないのでさっきまで観ていた『忠臣蔵』四段目「判官切腹の場」[3]」を一人で演じて気を紛らわせようと考えた。

「御前ッ」

「由良助かァ……」

「ハハァ~!」

「待ちかねたァ……」

「お腹すいたな。でも、芝居をしていると、なんだか空腹がまぎれる様な気がするよ。よーし、本格的にやってみよ!」

のんきな奴もあるもので、蔵の箪笥を開けて三宝代わりの御膳。そして、旦那のご先祖が差してたという九寸五分まで探し出し、大声で芝居の真似を始めてしまった。

「力弥、由良助は」

「いまだ参上、つかまつりませぬ」

「存上で対面せで、無念なと伝えよ。いざご両所、お見届けくだされ」

と短刀を腹へ。そこへちょうど女中が様子を見にきて、定吉が切腹すると勘違い。慌てて旦那に報告すると、旦那も

「子供のことだから、腹がすいて変な料簡を起こしたんだろう!?」

と仰天。いくらなんでも、奉公人の命を奪うわけには行かない。定吉に飯を届けようと調理場に飛び込み、じれったいからとお鉢をそのまま引っつかんで蔵へ。

戸をガラガラガラガラ!!

「御膳(御前)ッ」

「蔵の内(内蔵助=由良助)でかァ」

「ハハァ~!」

「待ちかねたァ……」

細部の違い

落語には、その粗筋は同じでも、細部の展開が古今東西によって異なるものが多い。本作で旦那が定吉を引っ掛けるくだりもこれにあたる。

五段目の「『山崎街道』に出てくる猪の前脚が團十郎・後脚が海老蔵」とやったのは、本作を東京に移植した三代目桂米朝その人で、これは関東では成田屋が「隋市」(= 随一の市川)の宗家である荒事が中心の江戸歌舞伎を前提にしたものに他ならない。

一方、和事の発祥地として成長した上方歌舞伎を知る関西の者には、團十郎・海老蔵という荒事の組み合わせが浮いてしまい基本的に馴染まない。そこで関西ではこのくだりが次のようになる。

「今度の『忠臣藏』はな、五段目が評判や。とくに猪がええ。前脚が中村鴈治郎で後脚が片岡仁左衛門。こんな猪は二度と見られん」

途端に定吉は笑い出して、

「五段目の猪いうたら、大部屋の役者が、それも一人でやりまんねんで。前脚が成駒屋、後脚が松嶋屋やなんて、そなアホな」

「そら、芝居が嫌いと言う者が、なんで屋号で返すんや」

「何言うてなはんねん。わたし実際この目で見てきましたがな。」

「そうら!言いよったな!」

「ああ!しもた・・・」

と、ここですでに語るに落ちてしまう。

この他にも、「中村歌右衛門の師直の評判がいいそうだ」と旦那がカマをかけ、引っかかった定吉が「女形の歌右衛門が敵役の師直なんかやりませんよ!」と答えて語るに落ちるという現代的な演出もある。現代的、というのは、中村歌右衛門が女形に転じたのは明治後期の五代目歌右衛門以後のことで、それ以前の歌右衛門はいずれも立役だったため。しかもその五代目自身は立役もこなす役者で、実際に師直をやったこともある。娯楽が限られていた明治から戦前昭和の人はそんな事情もよく承知していたので、うっかり「女形の歌右衛門」などというと誰が知ったかぶりをしているのか分からなくなってしまう。そこで一昔前の噺家がこのようにすることはまずなかったのである。

忠臣蔵を題材とした落語

仮名手本忠臣蔵』は、落語が成熟していった江戸時代には特に人気だった歌舞伎の演目だったが、この噺以外にも忠臣蔵を題材とした噺がある。詳細は「落語と『仮名手本忠臣蔵』」を参照。

脚注

  1. ^ 千年くさ 忠信蔵”. 2010年9月16日閲覧。
  2. ^ 鬼一法眼三略巻』(きいち ほうげん さんりゃくの まき)の「一条大蔵譚」(いちじょう おおくら ものがたり)の段にでてくる科白。八剣勘解由(やつるぎ かげゆ)という平清盛が放った密偵が、馬鹿殿を装いながら密かに源氏に味方する一条大蔵卿に斬り殺されるところで廻す「謀る謀ると思いしに、かえってうつけに謀られた」が下敷き。
  3. ^ 殿中松の廊下で高師直(こうの もろのう、史実の吉良義央)への刃傷沙汰を起こした塩冶判官(えんや はんがん、史実の浅野長矩)は、即日切腹を命じられる。判官は筆頭家老の大星由良助(おおぼし ゆらのすけ、史実の大石良雄)が来るまではと何とぞ、と待つがなかなか現れない。「力弥、力弥、由良助は」「未だ参上仕りませぬ」。そこでとうとう「存命に対面せで、無念なと伝えよ。方々いざ、ご検分くだされ」と、九寸五分(=短刀)を腹に突き立てたそのとき、花道から由良助が息を切らせて駆けつける。「由良助か」「ハハッ」「待ちかねたわやい」。朦朧としてゆくなかで判官は最期の力を振り絞り、自らの腹に立つ短刀を形見として高師直への恨みを晴せ」と命じる。成句「遅かりし由良之助」の語源である。