吾妻古墳
吾妻古墳 | |
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墳丘全景(左手前に後円部、右奥に前方部) | |
所在地 |
栃木県栃木市大光寺町吾妻 栃木県下都賀郡壬生町藤井吾妻原 |
位置 | 北緯36度24分15.16秒 東経139度48分41.13秒 / 北緯36.4042111度 東経139.8114250度座標: 北緯36度24分15.16秒 東経139度48分41.13秒 / 北緯36.4042111度 東経139.8114250度 |
形状 | 前方後円墳(下野型古墳) |
規模 | 墳丘長127.85m |
埋葬施設 | 横穴式石室 |
出土品 | 埴輪等 |
築造時期 | 6世紀後半 |
被葬者 | 不明 |
史跡 | 国の史跡「吾妻古墳」 |
特記事項 | 栃木県第1位の規模 |
地図 |
吾妻古墳(あづまこふん/あずまこふん)は、栃木県栃木市大光寺町吾妻・栃木県下都賀郡壬生町藤井吾妻原にある前方後円墳。国の史跡に指定されている。
栃木県では最大規模の古墳で[1]、6世紀後半(古墳時代後期)の築造とされる。
概要
栃木県南部、思川・姿川に挟まれた台地上に築かれた古墳である。古墳は前方部を南に向ける。
2007年度(平成19年度)から2010年度(平成22年度)にかけて発掘調査が行われた結果、県内最大の墳丘長を有することが判明した[1]。また、周堀の覆土からは平安時代の浅間山の噴火(1108年)に由来する軽石堆積が確認され、現在に至るまで周堀の埋没が進んでいなかったことも明らかとなった[1]。
埋葬施設は横穴式石室で、江戸時代に壬生藩主・鳥居氏によって庭石にするために石室が開かれ、玄門・天井石が持ち出されたという[1]。石室の主体部は古墳の前方部中央に設けられており、奥壁・側壁は閃緑岩の一枚石、玄門は凝灰岩の切石、玄室前面側壁は川原石小口積み、羨門は凝灰岩から成る[1]。石材は現在、壬生城跡地の公園に置かれている。2007年(平成19年)から2010年(平成22年)にかけての調査で、この石材が石室部材であることが確認された[2]。
築造時期については、主体部前面の土中からの挂甲小札・金銅製品の出土、また形象埴輪・円筒埴輪の出土から、6世紀後半とされている[1]。
古墳域は1970年(昭和45年)7月22日に国の史跡に指定された[3]。また2014年(平成26年)1月31日には、石室部材が栃木県の文化財に指定されている[2]。
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前方部の石室位置
(現在は窪みのみ) -
石室玄門石
(壬生町城址公園) -
石室天井石
(壬生町城址公園)
規模・構造
- 墳丘長:約127.85メートル[1]
墳丘は二段からなる。一段目は「基壇」とも呼ばれる幅広いもので[4]、これは付近の古墳にも認められる形式であることから、「下野型古墳」という呼称もある[5]。本古墳では、一段目と二段目の形状が異なり相似形にはない[1]。一段目の平面形は左右非対称の形で、二段目は後円部径・前方部幅がほぼ等しい[1]。また、墳丘には一重の周堀が巡らされている[6]。
文化財
国の史跡
栃木県指定文化財
- 有形文化財
- 吾妻古墳石室部材(天井石・玄門石)(考古・歴史資料) - 壬生町城址公園内(北緯36度25分38.84秒 東経139度47分53.40秒)。平成26年1月31日指定[2]。
周辺の古墳
思川・姿川間の台地上には6世紀から7世紀にかけて多数の大規模古墳が築造されており、これらは当地の歴代在地首長墓とされる[6]。主な古墳には次のものがある。
- 摩利支天塚古墳 (栃木県小山市大字飯塚、北緯36度22分20.39秒 東経139度48分21.31秒)
- 5世紀末の築造、墳丘長117メートルで県内第3位[7]。
- 琵琶塚古墳 (栃木県小山市大字飯塚、北緯36度22分30.88秒 東経139度48分25.67秒)
- 6世紀始めの築造、墳丘長123メートルで県内第2位[8]。
なお、律令制下に入っても当地一帯は下毛野国(のち下野国)の中心部をなしており、付近には下野国府・下野国分寺も営まれた。
脚注
参考文献
- 現地説明板(壬生町教育委員会、平成3年3月設置)
- 『国指定史跡完全ガイド』吾妻古墳項(朝日新聞社「コトバンク」より)
- 吾妻古墳、平成22年1月17日現地説明会資料 (PDF) (栃木県埋蔵文化財センター)
関連項目
外部リンク
- 吾妻古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- 吾妻古墳 - 文化遺産オンライン
- 吾妻古墳、吾妻古墳石室部材(天井石・玄門石) - 栃木県教育委員会事務局文化財課「とちぎの文化財」