名古屋オリンピック構想

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名古屋オリンピック構想(なごやオリンピックこうそう)は、1988年夏季オリンピックの開催を愛知県名古屋市で目指していた構想。

概要[編集]

1976年秋に大島靖大阪市長が「大阪でオリンピックを」と発言。これにヒントを得て名古屋商工会議所会頭だった東海銀行会長の三宅重光が「名古屋オリンピック誘致」を思いつく。三宅は1977年4月に愛知県公館を訪れ、仲谷義明知事に「名古屋でオリンピックを考えてみませんか」と提案[1]。同年8月、仲谷によって構想が発表され、招致運動が行われた。官主導の招致に対し、住民の一部からは反対運動も起きた。

1981年国際オリンピック委員会 (IOC) 総会での投票により、52-27で韓国ソウルに決定し(ソウルオリンピック)、名古屋での五輪開催は実現しなかった。

名古屋市千種区名東区平和公園にメインスタジアムを建設し、愛知県、岐阜県三重県東海3県の広域開催が計画されていた。

経緯[編集]

1977年8月25日 愛知県知事仲谷義明が名古屋へのオリンピック招致計画を新聞紙上で発表[2]
名古屋市長の本山政雄は当時、日米市長会議に出るために渡米中で、市関係者にとっては寝耳の水であった[3]
1979年2月 仲谷が再選。
1979年10月 日本オリンピック委員会 (JOC) 総会で名古屋へのオリンピック招致を決定。
1979年11月 IOC理事会を名古屋で開催。
1980年10月31日 サマランチIOC会長がモスクワオリンピックボイコットした国がオリンピック開催を希望してもかまわないし、障害にならないと表明。
1980年11月21日 鈴木善幸内閣により閣議了承。
1980年11月26日 IOC本部に正式の誘致申請書を提出。
1981年2月24日 オーストラリアメルボルンが五輪を断念。
1981年5月12日 衆議院において招致決議案を全会一致で採択。
1981年9月30日 第84次IOC総会(西ドイツバーデンバーデン)で開催地の決選投票、27対52でソウルに決定。
1982年5月17日 仲谷は翌年の知事選不出馬を表明[4]
1988年9月17日 ソウルオリンピックが開幕。
1988年11月18日 仲谷が自殺。

反対運動[編集]

財政負担の増加や環境破壊を理由に、名古屋五輪に反対する市民団体が数団体結成され、反対運動が行われた。そのうち「名古屋五輪をやめさせる会」は、1981年4月に行われた名古屋市長選挙で名古屋五輪に反対する候補を擁立。公約は名古屋五輪招致辞退のみで、それが実現したら市長を辞職するというものであった。選挙では名古屋五輪を推進し、自民党から共産党まで名古屋市会の全会派が推薦する、オール与党体制の本山政雄が三選を果たしたが、本山の28万826票に対して、反対派の対立候補は6万3533票で17.5%の得票率であった。その他の五輪反対の3人の候補者も合わせると、名古屋市長選で名古屋五輪反対票は20%強を占める結果となり、反対派陣営は「事実上の勝利」と総括した。1979年の名古屋市が実施した市民への世論調査では、名古屋五輪反対は22.5%で、市長選での反対派の得票とほぼ同率であることが指摘された[5]。愛知教育大学教授の影山健は市長選直後の5月に「反オリンピック研究会議」を設立した[6]

開催地が決定される投票の行われる西ドイツのバーデンバーデンでは、反対派が乗り込んで現地でビラまきやデモ、記者会見やシンポジウムを実施。名古屋を支持するIOC委員からは「なぜ抑えられないのか」との声も出たという[7]。決定が秒読みとなる9月30日深夜まで名古屋市役所前で予備校講師の牧野剛ら反対派による抗議のハンガー・ストライキが行われた[8]

反対派は2万人の反対署名を集めて、IOC会長のフアン・アントニオ・サマランチが受け取った。これらの反対運動が招致失敗に影響したか否かについては、仲谷知事と本山市長はいずれもインタビューで影響はなかったのではないかとの見方を示したが[9]、『中日新聞』は社説で、名古屋五輪構想は上からの発想であり、住民を巻き込むことに失敗した、市民とのコミュニケーションがよければ反対運動があっても問題にならなかったとしている[10]

招致失敗の原因[編集]

楽観的な見込みによる油断[編集]

1981年2月24日に、最大のライバルと目されていたオーストラリアのメルボルンが、各州の抗争と財政問題で五輪の招致を断念した。この時点で立候補都市は、日本の名古屋市と韓国のソウル市のみとなった。招致活動が行われた1977年から1981年当時は冷戦下だったため、日本オリンピック委員会の分析では、北朝鮮と親交が深いソ連東欧諸国は、ソウル開催となった場合に不参加の可能性があり、名古屋とソウルの一騎討ちとなれば、名古屋が有利とみられて本命視された。実際にソ連は名古屋五輪開催を支持していた[7]

市民からの反対運動[編集]

楽観ムードからの油断に加えて、前述の反対運動の影響が挙げられる。『中日新聞』の社説は、上からの発想で住民を巻き込むことに失敗したこと、国の財政難にひっかかったことを失敗の理由に挙げている。『中日新聞』自体、名古屋五輪に対しては「慎重賛成」としており、諸手を挙げての積極的な賛成ではなかった[10]

後年になって、五輪招致に名古屋市民は一丸となり、落選には一様に落胆したと言われることもある[11]。しかし、実際には反対活動が存在した。『中日新聞』は、落選時に反対団体と開催に反対であったという名古屋市民の声も報じている[12]。1981年7月に朝日新聞社が行った世論調査でも、名古屋五輪に賛成が52%、反対が24%だった。開催中心地の名古屋市民に限ると、賛成は45%と過半数割れし、反対は39%と接近した数字であり、決して圧倒的な支持ではなかった。なお、反対の主な理由は、財政負担や地価物価の高騰への懸念であった[13]

日本国内での連続開催[編集]

この他の失敗の理由として、名古屋での五輪開催となると、日本で3度目、夏季大会限定でも2度目の開催であり、ソウル側はこの点をついてきており、ソウルと名古屋市と同じアジアの立候補なら、3度目となる日本よりも、五輪史上初となる韓国の開催をアピールした。激しい巻き返し運動を展開して、逆転に結びつけた[7]

人権問題[編集]

また、田中宏一橋大学名誉教授によれば、民間の名古屋人権委員会がIOCに、名古屋市が公立学校の教員採用に国籍条項を設けて受験を拒んでいる事実を、「名古屋に重大な人権上の問題がある」として告発したことが、名古屋落選の一因になったと言われる[14]

失敗の影響[編集]

名古屋市は、招致活動で3億9千万円を費やした。そのうち1億1105万円は立候補の保証金と供託金であり返還されたという[15]

地元のテレビ各局は、開催地決定にあわせて準備を進めていた。CBCは中日ドラゴンズの応援番組の『ドラゴンズアワー』に野球とは関係のないオリンピックコーナーを設け、中京テレビも朝の番組でオリンピック関係のレポートをするコーナーを入れて、開催地決定に向けてムードを煽っていた。そして開催地が決定される9月30日深夜には、地元の民放局の4局が生放送番組を編成(当時はテレビ愛知が未開局)[16]

中でもCBCは3時間の特番を組んでおり、深夜0時35分から高坂正堯らが出演する「いま決まる!'88オリンピック」を組んでいたが、ソウル開催決定を受けて放送時間を30分に短縮した[17]東海テレビも、翌日の10月1日には名古屋決定の前提で、坂本九水沢アキ渡部絵美を総合司会に、金メダリストや一般市民を迎える計7時間のスペシャル番組「さあ!決定!名古屋オリンピック」を組んでいたが[16]、番組変更してさらに10月1日の深夜0時35分から「まぼろしの88名古屋五輪」を放送した。NHK総合テレビは、20時から「オリンピック招致運動は何を残したか」という50分番組を放送。CBCは、事前に予定していた特番を全て中止して、元のレギュラー番組を流した[18]

各所では招致成功を祈るイベントも進められ、「名古屋オリンピック音頭」(歌:川崎英世・小林真由美)、「名古屋オリンピックの歌」(歌:山崎悌二)、「風になれ~私と私たち~」(歌:チェリッシュ)といった音楽も作られていた。グッズも多数発売され、百貨店の丸栄は1981年6月にルーフの部分に「'88 NAGOYA OLYMPICS」、側面の部分に「呼べ!! '88名古屋オリンピック」の文字が入った特注トミカフォルクスワーゲン・マイクロバス)を販売、現在でも入手困難なコレクターズアイテムのひとつとなっている。 名古屋市交通局は、名古屋市が優勢であることを理由に、投票前にオリンピック記念乗車券を制作していたが、販売は中止された。しかし、この幻の記念乗車券の存在がマスコミで報道されると購入希望の問い合わせが相次いだため、臨時普通乗車券として抽選販売された。開催地決定の日には、役所やデパートでは名古屋決定の垂れ幕が準備されていたが、結局無駄になってしまった。

愛知県は、ソウル五輪閉幕後の1988年10月に、21世紀初頭の大規模な国際博覧会(万博)開催構想を提起し、日本は1997年6月のBIE総会で万博開催権を獲得し、愛・地球博(愛知万博)開催へ踏み出した。

1988年11月18日、仲谷義明が名古屋市中区1丁目にある自身の事務所で首吊り自殺しているのが発見された[19]。一部からは「ソウルオリンピックを見届け、名古屋オリンピック誘致失敗の責任をとっての自殺」との推測もあったが、自殺の原因は未だに判明していない。

なお、日本と朝鮮の架空の歴史を舞台に、日本が体制悪として描かれた韓国映画『ロスト・メモリーズ』では、作中で名古屋オリンピックが実現している。

1988年から28年後の2016年10月、名古屋市と愛知県などを会場とした2026年アジア競技大会の開催が決定した。

ソウルオリンピックは予想に反してソ連などの東側諸国も参加し、1972年ミュンヘンオリンピック以来となる全世界が参加するオリンピックとなった。

脚注[編集]

  1. ^ 仲谷義明 『素直に生きて―仲谷義明遺文集―』 仲谷貞子、1992年8月3日、107-110頁。
  2. ^ 『中日新聞』1977年8月25日付朝刊、1面、「88年五輪を名古屋へ 仲谷愛知県知事が提唱」。
  3. ^ 『中日新聞』1994年5月19日付朝刊、中部政治面、5面、「衝撃、失望...あれから13年 検証 ナゴヤ五輪の招致失敗 教訓は生かせるのか? 中部の大事業 新空港や愛知万博、ボストン美術館...」。
  4. ^ 仲谷義明 『素直に生きて―仲谷義明遺文集―』 仲谷貞子、1992年8月3日、122頁。
  5. ^ 「名古屋市長に本山氏三選 投票率戦後最低の26.2% 竹内氏は6万票 「反五輪」旗印に善戦」『中日新聞』1981年4月27日付
  6. ^ 日本スポーツ社会学会会報 Vol.67
  7. ^ a b c 「88年五輪名古屋敗れる」『中日新聞』1981年10月1日付
  8. ^ 「五輪の夢 "秒読み"」『中日新聞』1981年9月30日夕刊
  9. ^ 「国際都市へ今後も努力」 『中日新聞』1981年10月5日付
  10. ^ a b 「社説 名古屋五輪"落選"の教訓」『中日新聞』1981年10月1日付
  11. ^ 岩中祥史『名古屋学』新潮社文庫、2000年、pp.29-31
  12. ^ 『中日新聞』1981年10月1日付
  13. ^ 『朝日新聞』1981年7月12日付
  14. ^ 五輪招致の裏で民族差別 朝鮮新報 2013年3月6日
  15. ^ 『中日新聞』1981年10月1日付夕刊
  16. ^ a b 羅尾崑「名古屋五輪惨敗にショックの地元テレビ局」『』1981年12月号、p.232-233
  17. ^ 「TVスタジオてんやわんや」『中日新聞』1981年10月1日付
  18. ^ 「特番切り替え ザンネン番組」『中日新聞』1981年10月1日付夕刊
  19. ^ 『中日新聞』1988年11月19日付夕刊、1面、「仲谷前愛知県知事が自殺 体の体調苦に?事務所で」。

参考文献[編集]

  • 影山健・岡崎勝・水田洋編『反オリンピック宣言 ―その神話と犯罪性をつく』風媒社、1981年10月10日。