吉川英治
吉川 英治 (よしかわ えいじ) | |
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誕生 |
吉川 英次 1892年8月11日 神奈川県久良岐郡中村根岸 (現・横浜市中区) |
死没 |
1962年9月7日(70歳没) 東京都中央区築地 国立がんセンター |
墓地 | 多磨霊園 |
職業 | 小説家 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 太田尋常高等小学校中退 |
活動期間 | 1923年 - 1962年 |
ジャンル |
歴史小説 時代小説 |
代表作 |
『鳴門秘帖』(1933年) 『宮本武蔵』(1939年) 『三国志』(1940年) 『新書太閤記』(1941年) 『新・平家物語』(1951年) 『私本太平記』(1959年) |
主な受賞歴 |
菊池寛賞(1953年) 朝日文化賞(1956年) 文化勲章(1960年) 毎日芸術賞(1962年) 贈勲一等瑞宝章(没時叙勲) |
デビュー作 | 『江の島物語』 |
配偶者 |
赤沢やす(1923 - 1937) 吉川文子(旧姓・池戸、1937 - 1962) |
子供 | 2男3女 |
ウィキポータル 文学 |
吉川 英治(よしかわ えいじ、1892年〈明治25年〉8月11日 - 1962年〈昭和37年〉9月7日)は、日本の小説家。本名、吉川 英次(よしかわ ひでつぐ)。現在の神奈川県横浜市中区出身。
様々な職についたのち作家活動に入り、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年(昭和10年)より連載が始まった『宮本武蔵』は多くの読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。幅広い読者層に親しまれ「国民文学作家」と呼ばれた。
経歴
生い立ち
1892年(明治25年)8月11日(戸籍面は13日)、神奈川県久良岐郡中村根岸(現在の横浜市中区山元町2丁目18番地付近)[1]に、旧小田原藩士・吉川直広、イクの次男として生れた。自筆年譜によると出生地は中村根岸となっている。父・直広は県庁勤務の後小田原に戻り箱根山麓で牧畜業を営みさらに横浜へ移って牧場を拓く。イクとは再婚で、先妻との間に兄正広がいた。英治が生まれた当時、直広は牧場経営に失敗し、寺子屋のような塾を開いていた。その後貿易の仲買人のようなことを始め、高瀬理三郎に見出されて横浜桟橋合資会社を設立。一時期安定するが、直広が高瀬と対立し、裁判を起こし敗訴すると刑務所に入れられ、出所後は生活が荒れ、家運が急激に衰えていく。
山内尋常高等小学校に入学。当時騎手の馬屋に近く、将来は騎手になることを考えていた。また10歳の頃から雑誌に投稿をするようになり、時事新報社の『少年』誌に作文が入選した。家運が衰えたのはこの頃で、異母兄と父との確執もあり、小学校を中退。いくつもの職業を転々としつつ、独学した。18歳の時、年齢を偽って横浜ドックの船具工になったが、ドックで作業中船底に墜落、重傷を負う。
人気作家への道
1910年(明治43年)に上京、象嵌職人の下で働く。浅草に住み、この時の町並みが江戸の町を書くにあたって非常に印象に残ったという。またこの頃から川柳を作り始め、井上剣花坊の紹介で「大正川柳」に参加する。1914年(大正3年)、「江の島物語」が『講談倶楽部』誌に3等当選(吉川雉子郎の筆名)するが、生活は向上しなかった。のちに結婚する赤沢やすを頼って大連へ行き、貧困からの脱出を目指したが変わらず、この間に書いた小説3編が講談社の懸賞小説に入選。1921年(大正10年)に母が没すると、翌年より東京毎夕新聞社に入り、次第に文才を認められ『親鸞記』などを執筆する。
関東大震災により東京毎夕新聞社が解散すると、作品を講談社に送り様々な筆名で発表し、「剣魔侠菩薩」を『面白倶楽部』誌に連載、作家として一本立ちする。1925年(大正14年)より創刊された『キング』誌に連載し、初めて吉川英治の筆名を使った「剣難女難」で人気を得た。この時本名の「吉川英次」で書くように求められたが、作品が掲載される際に出版社が名を「英治」と誤植してしまったのを本人が気に入り、以後これをペンネームとするようになった。キング誌は講談社が社運をかけた雑誌だが、新鋭作家吉川英治はまさに期待の星であり、「坂東侠客陣」「神洲天馬侠」の2長編を発表し、多大な読者を獲得した。執筆の依頼は増え、毎日新聞からも要請を受け、阿波の蜂須賀重喜の蟄居を背景とした傑作「鳴門秘帖」を完成させた。これを収録した『現代大衆文学全集』もよく売れ、また作品も多く映画化された。
『宮本武蔵』の誕生
こうして巨額な印税が入ったが、貧しいときから寄り添っていた妻やすは、この急激な変化についていけず、次第にヒステリーになっていく。これを危惧し、印税を新居に投じ、更に養女を貰い家庭の安定を図った。こののち、『万花地獄』『花ぐるま』といった伝奇性あふれる小説や、『檜山兄弟』『松のや露八』などの維新ものを書く。しかし妻のヒステリーに耐えかね、1930年(昭和5年)の春に半年ほど家出し、この間『かんかん虫は唄ふ』などが生まれた。この頃から服部之総と交友を結ぶ。1933年(昭和8年)、全集の好評を受け、大衆文学の研究誌・衆文を創刊、1年続き純文学に対抗する。松本学の唱える文芸懇談会の設立にも関わり、また青年運動を開始し、白鳥省吾・倉田百三らと東北の農村を回り講演を開いた。1935年(昭和10年)『親鸞』を発表。同年の8月23日から「宮本武蔵」の連載を始め、これが新聞小説史上かつてない人気を得、4年後の1939年(昭和14年)7月21日まで続いた。剣禅一如を目指す求道者宮本武蔵を描いたこの作品は、太平洋戦争下の人心に呼応し、大衆小説の代表作となる。
1937年(昭和12年)、やすと離婚、池戸文子と再婚する。1939年2月より「新書太閤記」を連載。7月の「宮本武蔵」完結後、8月より「三国志」を連載。個人を追究したものから、2作品は人間全体を動かす力を描こうとしているのがうかがえる。『宮本武蔵』終了後も、朝日新聞からは連載の依頼が続き、「源頼朝」「梅里先生行状記」など歴史に名を残す人物を描いた作品を発表した。
1942年(昭和17年)、海軍軍令部の勅任待遇の嘱託となり、海軍の戦史編纂に携わっていた。山口多聞、加来止男の戦死を受けて、「提督とその部下」を朝日新聞に執筆し、安田義達の戦死後は「安田陸戦隊司令」を毎日新聞夕刊に連載している[2]。またこの年には日本文学報国会理事に就任した。
敗戦後の活動
敗戦後は、その衝撃から筆を執る事ができなくなってしまった。親友の菊池寛の求めでようやく書き始め、『高山右近』『大岡越前』で本格的に復活する。ただし、この頃、『宮本武蔵』の版権をめぐって講談社と六興出版(英治の弟晋が勤めていた)との間で騒動が起きた。
1949年4月11日、東京財務局が発表した所得番付では、作家の中では最高額の250万円を記録している[3]。
1950年(昭和25年)より、敗れた平家と日本を重ねた「新・平家物語」の連載を開始する。連載7年におよぶ大作で、この作品で第1回菊池寛賞(1953年)を受賞。また『文藝春秋』からの強い要望で、1955年(昭和30年)より自叙伝「忘れ残りの記」を連載。なおこの頃身を隠していた辻政信に会い、逃亡資金を渡している。「新・平家物語」終了後は、「私本太平記」「新・水滸伝」を連載する。「私本太平記」は、従来逆賊といわれてきた足利尊氏の見方を改めて描く。1960年(昭和35年)文化勲章受章。しかし通俗作家と見なされ、芸術院には入れられなかった。
「私本太平記」の連載終了間際に肺癌にかかり、翌年夏に悪性腫瘍が転移し悪化。1962年(昭和37年)9月7日、肺癌のため築地の国立がん研究センター中央病院で死去。享年70歳。法名は、崇文院殿釋仁英大居士。贈従三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時叙勲)。疎開先だった東京都青梅市に、1977年に開設された吉川英治記念館がある(入館者減少により、2019年3月20日をもって一旦閉館休止した[4])。なお東京都港区赤坂にあった旧吉川邸は講談社の所有となり(同社での企画出版のための)泊まり込みでの執筆や、座談・打ち合わせに使用された。
年譜
- 1892年(明治25年)- 神奈川県久良岐郡中村根岸(現横浜市中区)に生誕。
- 1898年(明治31年)- 横浜市千歳町の私立山内尋常高等小学校に入学。
- 1900年(明治33年)- 横浜市清水町に移転し太田尋常高等小学校に転校。
- 1903年(明治36年)- 家運傾き小学校を中退。
- 1909年(明治42年)- 年齢を偽って横浜ドック船具工となる。
- 1910年(明治43年)- 上京。菊川町のラセン釘工場の工員なる。
- 1911年(明治44年)- 蒔絵師の家に住み込み徒弟となる。また川柳の世界に入り、雉子郎(きじろう)の筆名で作品を発表。
- 1914年(大正3年)- 三越百貨店が各種文芸を募集した「文芸の三越」の川柳部門で応募作が一等に当選。講談倶楽部に投稿した「江の島物語」が一等に当選。
- 1921年(大正10年)- 旅先から応募していた講談社の懸賞小説三篇入選。山崎帝國堂広告文案係を経て暮れに東京毎夕新聞社入社。
- 1923年(大正12年)- 人気芸妓だった赤沢やすと結婚。関東大震災を機に、文学で生計を立てることを決意する。
- 1925年(大正14年)- 『キング』誌が創刊され「剣難女難」を連載、人気を得る。初めて吉川英治の筆名を使う。
- 1926年(大正15年)- 「鳴門秘帖」を連載。大人気となり、時代小説家として大衆文学界の新鋭となる。
- 1930年(昭和5年)- 現代小説「かんかん虫は唄ふ」を『週刊朝日』に連載。このころから「貝殻一平」や「松のや露八」などの維新物を発表しはじめる。
- 1935年(昭和10年)-「宮本武蔵」の連載を開始。
- 1937年(昭和12年)- 日中戦争勃発。『毎日新聞』の特派員として現地を視察。旅行中やすとの離婚成立。料理屋で働いていた池戸文子と結婚。文子16歳、英治45歳の歳の差夫婦だった。
- 1938年(昭和13年)- ペンの部隊として南京、漢口作戦に従軍。「三国志」の執筆開始。
- 1944年(昭和19年)- 西多摩郡吉野村(現在の青梅市)に疎開、疎開地が後に記念館になる。
- 1945年(昭和20年)- 終戦とともに一時執筆活動を休止。
- 1947年(昭和22年)- 執筆再開。
- 1948年(昭和23年)-「高山右近」を『読売新聞』に連載。
- 1950年(昭和25年)-「新・平家物語」を『週刊朝日』に連載。
- 1953年(昭和28年)-「新・平家物語」で第1回菊池寛賞受賞。
- 1956年(昭和31年)-「新・平家物語」で朝日文化賞受賞。
- 1960年(昭和35年)- 文化勲章受章。
- 1962年(昭和37年)- 毎日芸術賞受賞。癌が悪化、死去。
著作
著作の情報は尾崎 & 永井 (1985, p. 111)を参照。
全集
- 『吉川英治全集』(平凡社:全18巻、講談社:旧版全56巻、新版全58巻)
- 『吉川英治文庫』(講談社文庫:全161巻)
- 『吉川英治歴史時代文庫』(講談社文庫:全85巻)
単行本
- 『親鸞記』東京毎夕新聞社、1923年1月。
- 『坂東侠客陣』大日本雄辯會講談社、1926年11月。
- 『神州天馬侠』全3巻(1926年11月 - 1929年1月、大日本雄辯會講談社)
- 『剣難女難』大日本雄辯會講談社、1926年12月。
- 『鳴門秘帖』全2巻(1927年3月 - 1933年11月、大阪毎日新聞社・東京日日新聞社)
- 『ひよどり草紙』大日本雄辯會講談社、1927年9月。
- 『万花地獄』平凡社、1929年6月。
- 『江戸三国志』全3巻(1927年7月 - 1929年4月、大日本雄辯會講談社)
- 『貝殻一平』全2巻(1929年12月 - 1930年4月、先進社)
- 『女来也』先進社、1930年4月。
- 『龍虎八天狗』全4巻(1929年8月 - 1931年6月、博文館)
- 『飢えたる彰義隊』新潮社、1930年9月。
- 『恋ぐるま』大日本雄辯會講談社、1931年3月。
- 『江戸城心中』全2巻(1931年6月 - 7月、先進社)
- 『かんかん虫は唄ふ』春陽堂、1932年7月9日。NDLJP:1110166。
- 『檜山兄弟』全2巻(1932年7月 - 1933年3月、新潮社)
- 『雲霧閻魔帳』新潮社、1933年5月15日。NDLJP:1214760。
- 『燃える富士』新潮社、1934年4月。
- 『女人曼荼羅』中央公論社、1934年5月3日。NDLJP:1213481。
- 『桜田事変』改造社、1934年12月。
- 『あるぷす大将』改造社、1934年12月。
- 『松のや露八』新潮社、1935年4月。
- 『草思堂随筆』新英社、1935年9月20日。NDLJP:1233470。
- 『自選傑作集』新英社、1935年10月17日。NDLJP:1238394。
- 『遊戯菩薩』新英社、1935年11月20日。NDLJP:1232320。
- 『青空士官』新英社、1936年1月20日。NDLJP:1214138。
- 『胡蝶陣』湯川弘文社、1936年2月。
- 『右近・左近』大日本雄弁会講談社、1936年5月。
- 『宮本武蔵』全6巻(1936年5月 - 1939年9月、大日本雄弁会講談社)
- 『現代青年道』新英社、1936年7月20日。NDLJP:1228632。
- 『恋山彦』新英社、1936年8月。
- 『野槌の百』新小説社、1936年9月25日。NDLJP:1257233。
- 『新編忠臣蔵』全2巻(1936年12月、新潮社)
- 『窓辺雑草』育生社、1938年7月5日。NDLJP:1256169。
- 『親鸞』全2巻(1938年7月 - 11月、大日本雄弁会講談社)
- 『無明夕明』興亜書房、1939年3月。
- 『悲願三代塔』大日本雄弁会講談社、1939年6月。
- 『随筆宮本武蔵』朝日新聞社、1939年7月。
- 『かんかん虫は唄ふ』朝日新聞社、1939年8月6日。NDLJP:1108216。
- 『江戸長恨歌・恋易者』非凡閣、1939年10月16日。NDLJP:1023469。
- 『柳生月影抄』朝日新聞社、1939年11月。
- 『茶漬三略』朝日新聞社、1939年12月。
- 『三国志』全14巻(1940年5月 - 1946年9月、大日本雄弁会講談社)
- 『天兵童子』全2巻(1940年6月 - 8月、大日本雄弁会講談社)
- 『源頼朝』全2巻(1940年12月 - 1941年3月、朝日新聞社)
- 『新書太閤記』全9巻(1941年4月 - 1945年2月、新潮社)
- 『梅里先生行状記』全2巻(1941年9月 - 11月、朝日新聞社)
- 徳川光圀を描く。
- 『虚無僧系図』文林道双魚房、1941年11月。
- 『梅颸の杖』春陽堂書店、1941年12月。
- 『日本名婦伝』全国書房、1942年1月20日。NDLJP:1136020。
- 『上杉謙信』朝日新聞社、1942年9月。
- 謙信を領土欲を持たない義戦を貫いた武将として描いている。永禄4年の川中島の戦いがクライマックス。近年の調査によって新たに判明した史実が反映されていないため、歴史的には決して正しいとはいえないものの、作品評価は高く、現在でも版を重ね続けている。
- 『南方紀行』全国書房、1943年1月。
- 『剣の四君子』全国書房、1943年4月。
- 『黒田如水』朝日新聞社、1943年11月。
- 『高山右近』全2巻(1949年6月、読売新聞社)
- 『大岡越前』同志社、1950年1月。
- 『新・平家物語』全24巻(1951年6月 - 1957年5月、朝日新聞社)
- 『平の将門』六興出版、1952年12月。
- 『折々の記』六興出版、1953年12月。
- 『忘れ残りの記』文藝春秋新社、1957年7月。
- 『私本太平記』全13巻(1959年3月 - 1962年3月、毎日新聞社)
- 『新・水滸伝』全6巻(1960年11月 - 1963年2月、講談社)
映像化作品
映画
- 御誂治郎吉格子 (1928年)
- 牢獄の花嫁 前篇 (1931年)
- 牢獄の花嫁 解決篇 (1931年)
- 御誂次郎吉格子 (1931年)
- 春秋編笠ぶし (1932年)
- 神変麝香猫 悲願復讐篇 (1932年)
- 神変麝香猫 大江戸戦慄篇 (1932年)
- 神変麝香猫 火焔解決篇 (1932年)
- 江戸城心中 前篇 (1933年)
- 江戸城心中 後篇 (1933年)
- 燃える富士 東海散華の巻 (1933年)
- 燃える富士 王道戦花の巻 (1933年)
- 燃える富士 修羅暁闇の巻 (1933年)
- 雲霞閻魔帳 前篇 春秋緑林篇 (1934年)
- 雲霞閻魔帳 後篇 流星 (1934年)
- 野火の兄弟 (1934年)
- 恋山彦 風雲の巻 (1937年)
- 恋山彦 怒濤の巻 (1937年)
- 牢獄の花嫁 前篇 (1939年)
- 牢獄の花嫁 解決篇 (1939年)
- 天兵童子 第一話 幼き英雄 (1941年)
- 天兵童子 第二話 日本の子 (1941年)
- 柳生月影抄 (1941年)
- 天兵童子 第三話 (1941年)
- 天兵童子 第四話 甦る力 (1941年)
- 梅里先生行状記 龍神剣 (1942年)
- 千両肌 (1950年)
- 悲恋華 (1950年)
- 阿修羅判官 (1951年)
- 万花地獄 (1951年)
- 平安群盗伝 袴だれ保輔 (1951年)
- 剣難女難 女心伝心の巻 (1951年)
- 剣難女難 剣光流星の巻 (1951年)
- 御誂 治郎吉格子 (1952年)
- 柳生の兄弟 (1952年)
- ひよどり草紙 (1952年)
- ひよどり草紙 (1954年)
- 竜虎八天狗 第一部 水虎の巻 (1954年)
- 竜虎八天狗 第二部 火竜の巻 (1954年)
- 竜虎八天狗 第三部 鳳凰の巻 (1954年)
- 竜虎八天狗 完結篇 追撃の巻 (1954年)
- 月笛日笛 第一篇 月下の若武者 (1955年)
- 月笛日笛 第二篇 白馬空を飛ぶ (1955年)
- 月笛日笛 第三篇 千丈ケ原の激斗 (1955年)
- 麝香屋敷 (1955年)
- 浪人吹雪 (1955年)
- 天兵童子 第一篇 波濤の若武者 (1955年)
- 虚無僧系図 (1955年)
- 天兵童子 第二篇 高松城の密使 (1955年)
- 天兵童子 完結篇 日の丸初陣 (1955年)
- 牢獄の花嫁 (1955年)
- かんかん虫は唄う (1955年)
- 隠密七生記 剣雲碓氷峠の乱陣 (1956年)
- 続隠密七生記 龍攘虎搏の決戦 (1956年)
- 江戸三国志 (1956年)
- 江戸三国志 疾風篇 (1956年)
- 江戸三国志 完結迅雷篇 (1956年)
- 勤王?佐幕?女人曼陀羅 (1956年)
- 続勤王?佐幕?女人曼陀羅 (1956年)
- 修羅時鳥 (1957年)
- さけぶ雷鳥 (1957年)
- さけぶ雷鳥 第二部 (1957年)
- さけぶ雷鳥 解決篇 (1957年)
- 黄金の伏魔殿 (1957年)
- 神変麝香猫 (1958年)
- 隠密七生記 (1958年)
- 恋山彦 (1959年)
- 親鸞 (1960年)
- 続 親鸞 (1960年)
- 裁かれる越前守 (1962年)
- 雲切獄門帖 (1963年)
テレビドラマ
家族・親族
- 妻 やす、文子
- 長男 英明
- 二男 英穂
- 長女 曙美
- 二女 香屋子
- 養女 園子 - 東京大空襲で戦災死。
系譜
吉川家は江戸時代、小田原藩の下級武士であり祖父・銀兵衛は徒士並五石二人扶持で根府川番所につとめた。元々は「きっかわ」とよんだと吉川英治は語っている(『忘れ残りの記』)。
銀右衛門━銀右衛門━銀右衛門・・・勇助━銀兵衛━直広━┳英次━┳英明 ┣くに ┣英穂 ┣きの ┣曙美 ┣かゑ ┣香屋子 ┣素助 ┗園子 ┣はま ┣きく ┣ちよ ┣すえ ┗晋
馬主
1956年(昭和31年)までは競走馬の馬主としても有名だった。馬主となったのは1939年(昭和14年)で、親友でやはり馬主だった菊池寛に勧められて馬主となったものであるが、特に戦後には数々の有力馬を所有していたことで名高い。中でもケゴンは1955年(昭和30年)の第15回皐月賞を優勝している。他にもケゴンの全姉でスプリングステークスなど重賞5勝の牝馬チエリオなどがいる。
しかし、1956年(昭和31年)の第23回東京優駿(日本ダービー)で、出走した愛馬エンメイが1コーナーで発生した混乱に巻き込まれて落馬・転倒する事故が起き、エンメイは脚部骨折のために予後不良と診断され殺処分となり、鞍上だった阿部正太郎騎手も騎手生命を絶たれる瀕死の重傷を負った。当日の吉川は仕事のために大阪におり競馬場で直接事故を目撃したわけではなかったが、この一件で大きなショックを受け、程なく競馬の世界からすっぱりと手を引いた。
その後の吉川は、当時は体調が優れなかったこともあり医師の勧めでゴルフを始め、これが競馬に代わる晩年の趣味となったという。
脚注
- ^ 「吉川英治と明治の横浜 : 自伝小説『忘れ残りの記』を解剖する」(横浜近代文学研究会編)は、山元町商店街の「梅ノ湯」という銭湯の辺りとする。現在ではマンション「ランドシティ横濱」
- ^ 『回想の日本海軍』(原書房)所収の、「吉川英治先生と海軍」
- ^ 「吉川英治氏が250万円で筆頭 芸能人の所得番付」『日本経済新聞』昭和24年4月12日2面
- ^ 「吉川英治記念館 入館者減で閉館 20日最終日」毎日新聞2019年3月17日
- ^ 異説として、日本の敗戦が影響したという見解がある。その根拠に、1945年8月23日掲載分をもって作品が中絶していること、および中田耕治が指摘しているように「吉川英治も、戦争に協力した作家の一人と見られて、戦後はほとんど沈黙していた。」(中田耕治「異端作家のアラベスク」青弓社、1992年7月1日。143頁)ことが挙げられる。この点について葉室麟は次のように指摘している。「戦前生まれの作家って多かれ少なかれ「戦争協力」せざるを得なかった、これはある意味当然のことだと思います。吉川さんについて言えば『新書太閤記』で豊臣秀吉を書いているのですが、「小牧・長久手の戦い」が終わったあたりでフッと終わっていきます。何が起きたかというと、そこで日本が戦争に負けたんです。」(「戦時の小説家が行っていた「戦争協力」とは?」2015年10月11日15時配信、2020年3月16日閲覧)実際に吉川は、日中開戦後の1937年に「東京日日新聞」の従軍記者としていち早く中国に行き「迷彩列車」という戦争文学を発表して戦争に協力している。
参考文献
- 尾崎秀樹 編・評伝 編『新潮日本文学アルバム 29 吉川英治』永井路子 エッセイ、新潮社、1985年8月。ISBN 978-4-10-620629-0 。
- 『吉川英治とわたし 復刻版 吉川英治全集月報』講談社、1992年9月。ISBN 4-06-205904-5 。 - 注記:吉川英治生誕百年記念。
- 小林秀雄 編 編『現代日本文学館 第32 吉川英治・獅子文六』杉森久英 解説、文藝春秋、1967年。
- 吉川英明 編・著『吉川英治の世界』講談社文庫、1984年2月。ISBN 978-4-06-183249-7 。
伝記
- 尾崎秀樹『吉川英治 伝記』講談社、1970年。
- 尾崎秀樹『伝記吉川英治』講談社文庫、1974年。
- 尾崎秀樹『吉川英治 人と文学』新有堂、1980年7月。
- 松本昭『人間吉川英治』六興出版、1987年9月。ISBN 978-4-8453-7156-3。- 著者は編集担当者。
- 吉川英明『父吉川英治』六興出版、1987年9月。ISBN 978-4-8453-7157-0。
- 吉川英明『父吉川英治』学研マーケティング、2003年6月。ISBN 978-4-05-402096-2 。
- 吉川英明『父吉川英治 新装版』講談社文庫、2012年6月。ISBN 978-4-06-277284-6 。- 初版は1978年
出演番組
関連項目
外部リンク
- 吉川 英治:作家別作品リスト - 青空文庫
- 吉川英治 - NHK人物録
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