台湾独立運動

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台湾独立派が1990年代に台湾共和国の国旗として提案した「クローバー旗」
通称・「台湾旗」。世界台湾人大会などで使用されているほか、日本の台湾支援者や支援団体(日本李登輝友の会)でも使用している。

台湾独立運動(たいわんどくりつうんどう、簡体字台湾独立运动繁体字台灣獨立運動台湾語:Tâi-oân to̍k-li̍p ūn-tōng)とは、台湾台湾人が主権を有する独立国家台湾共和国)を建設する事を目指した政治運動。略称は台独(台獨、Tâi-to̍k)。ただし、1945年の台湾の中華民国統治を境として、運動の性質は変質している。

運動の区分

台湾独立運動の起源は、日清戦争後の日本による台湾出兵(牡丹社事件に関する台湾出兵とは別)にまでさかのぼる。しかし、この時に宣言された「台湾民主国独立宣言」(後述)は、真に台湾を独立させることを意図したというよりは、台湾を日本へ渡さないための清朝側の工作という側面が強かった。

日本統治時代の台湾独立運動にも、大きな盛り上がりは見られず、日本帝国の一植民地としての自治権強化の運動や、大日本帝国憲法を台湾にも施行して日本内地の住民並に参政権を獲得する運動などが主流となった(参政権は属地主義だったので、戦前は日本内地在住の台湾人にのみ選挙・被選挙権があった)。

1945年の日本敗戦後も台湾独立運動は起こらず、中華民国への「祖国復帰」を多くの台湾人が大きな抵抗もなく受け入れたが、実際に中華民国による統治が始まると、台湾人の多くは腐敗した国民政府に失望し、台湾人と「中国人」の違いを次第に自覚するようになった。戦後の台湾独立運動は、このような出発点に立ち、中華民国体制を克服し、大陸の中華人民共和国による支配をも拒絶する運動、即ち「中国人」ではなく「台湾人」として生きるための運動として展開されている。

現在の台湾独立派の最も有力な理論は、「台湾は日本が敗戦によって台湾を放棄した時点で国際法上の独立を果たしており(中華民国が台湾を領有するという国際条約は存在しない)、戦後の台湾には台湾共和国と亡命中華民国が並存しているとしている」というものである(以上は民主進歩党の立場。李登輝国民党時代の理論は別)。そして、その上で中華民国の政治体制を変革することを目標としている。この運動は、泛緑連盟によって支持されているが、一方で中華民国の中国再統一を志す泛藍連盟による強い反発を受けている。

台北政府が中華民国体制からの正式な独立宣言をした場合、「一つの中国」を主張してきた中華人民共和国は台湾を回収する根拠を失うため、同国は「武力解放」を明言して台湾への圧力を続けている。アメリカや日本の政府は、大規模な戦乱を恐れ、「台湾独立」に慎重な立場を取っているが、これらの国々の政府や民間に親台湾派が存在する。

中華民国による統治以前の台湾独立運動

この時代の台湾独立運動について、まず特筆されるべきことは、日清戦争後の下関条約で日本が清国から台湾を割譲された際、台湾が「台湾民主国」として一応の独立を宣言していることである(黄昭堂:『台湾民主国の研究―台湾独立運動史の一断章』東京大学出版会。1970年)。しかし、この政権は大陸から派遣されていた清朝の官僚や清国軍、清国の科挙試験に合格したごく一部の台湾人特権階級を中心としたものであったため、短期間で解体、崩壊した。日本軍の台湾上陸の報を聞いた清朝の官僚は直ちに外国船で大陸へ逃亡し、清国兵は台北で台湾人への略奪を始めている。台湾人の有産階級は、独立どころか日本軍に救援を依頼し、進軍の手引きまでしている。

1920年代、日本共産党の指導の下にあった台湾共産党は、コミンテルンの指示を受け、「日本帝国主義」からの独立を目指したが、大きな広がりを持つには至らなかった(この時期の台湾独立運動の代表人物としては、謝雪紅などが上げられる)。また、中国共産党は、台湾共産党の主張する社会主義的理念に基づく台湾独立を認めず、彼らの多くを追放したため、台湾共産党の主導による独立運動も終焉を迎えた。

中国国民党独裁体制下の台湾独立運動

1970年台湾独立建国連盟設立後を境に前期・後期と分けられる。

前期

初期の独立運動は、日本へ留学した留学生が活動の中心となった。これは日本統治時代の影響で日本語を習得していた人間が多く、台湾から日本の大学への留学が比較的容易だった事が背景にある。

中華民国国外における本格的な独立運動の先駆けとしては、廖文毅による日本での台湾共和国臨時政府樹立が挙げられる。臨時政府は財政問題や国民政府の圧力などによっていきづまり、廖文毅の「投降」後に瓦解した。

後期

他にも、日本では許世楷黄昭堂金美齢および夫の周英明、日本人では宗像隆幸らが中心に活動し、台湾独立を主張した雑誌『台湾青年』をはじめとする諸著作の出版や中華民国政府による人権抑圧や、中華民国政府に好意的な日本政府に対する抗議デモ、同じく中華民国政府に好意的な自由民主党政治家の集会での催涙ガス散布、また当時台湾で軟禁状態だった彭明敏亡命の支援など積極的に台湾独立運動が行われた。この時期に出版された諸著作は台湾独立運動の法学・歴史学上の基礎となっている。

こうした日本の活動参加者やアメリカへの留学生などにより、台湾独立建国連盟が設立された。その後、アメリカが台湾独立運動の中心となった。これは日本語を常用していた学生が年月の経過により減少したことや、中華民国政府の対米影響力が減少した事が背景にある。彭明敏や黄文雄など、日本語能力を持つ者も、アメリカに滞在している。

ちなみに、後の台湾の民主化によって台湾独立運動は一気に加速するが、台湾の民主化は、主に国民党に入党した李登輝ら台湾人(許國雄の項参照)の手によって推進された。李登輝は、国民党による大陸との統一路線である「反攻大陸」のスローガンを破棄し、「二国論」を展開。大陸は中華人民共和国が有効に支配し、台湾にはこれとは別の国家である中華民国が存在すると主張した(中華民国在台湾)。李登輝は更にこの主張を前進させ、「台湾中華民国」という呼称を提唱、国民党総裁を離職してからは、「台湾団結連盟」(後述)という「台湾」と名の付く初めての政党を結成した。現在は台湾正名運動に取り組んでいる。

民主化以後の台湾独立運動

台湾独立派による街頭デモ(2007年)
台湾の国連加入を訴えるスローガン(2008年)

民進党では、1999年に台湾前途決議文を採択し、党綱領にある台湾独立を棚上げした。これは、2000年総統選挙に向けて、党内最大派閥の新潮流と穏健派が妥協した結果であった。同選挙で勝利し、陳水扁政権が成立すると米国政府の意向を汲み、「四つのノー、一つのない」を唱えた。そのため、民進党と従来の台湾独立派との間には、亀裂が生じた。

李登輝前総統は、かつての中国国民党李登輝派である台湾本土派の一部に台湾団結連盟(台聯)を結党させ、自らはその精神的指導者となった。台聯は綱領において、台湾新憲法の制定と、国号を台湾にすることをうたっている。当初、台聯は民進党を支援する目的で結成された。しかし、中国国民党の台湾本土派を十分に取り込むことが出来ず、固定的な支持基盤を獲得できなかった。そこで、急進的な独立派路線により、民進党と独立派に近い(深緑)支持者の票を奪い合うことになった。そのため、民進党と台聯の間で、独立的な主張を競い合うという循環に陥り、中間票を取りこぼす結果も生まれている。

一方、本来の台湾独立派は、陳水扁政権において総統府国策顧問や資政(上級顧問)に就任するものも現れた。しかし、顧問職の者も含めて、陳政権とは一線を画している。むしろ、台湾正名運動を推進し、最終的には陳水扁政権が放棄した国号改称も行うよう求めている。また、現行憲法を廃止し、台湾新憲法の制定も求めている。

その他、政治体制についても、五院体制から三権分立への変更を求める者もいる。対中国政策については、台聯や台湾独立派は、経済交流(貿易、投資、人的交流)規制の継続と強化を求めている。

2008年中国国民党馬英九政権となり、中国に急接近する政策を取ると、反発する反政権デモが独立派によりたびたび発生するに至った。2008年8月には台北市内で主催者発表で30万人のデモが行われ、総統府前を埋め尽くした[1]2009年5月には主催者発表で台北で60万人、高雄で20万人が「(馬英九政権の)中国傾斜に反対し、台湾を守ろう」とのスローガンを掲げ、大規模な抗議活動を行っている[2]

台湾独立運動を展開した代表的な人物

香港を拠点として活動した人物

日本を拠点として活動した人物

北アメリカを拠点として活動した人物

ヨーロッパを拠点として活動した人物

台湾を拠点として活動した人物

脚注

  1. ^ 2008.8.30 産経新聞
  2. ^ 2009年5月17日 産経新聞

参考文献

  • 『「昭和」を生きた台湾青年 日本に亡命した台湾独立運動者の回想1924-1949』王育徳、草思社 (2011/3/25)

関連項目