古河機械金属

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古河鉱業から転送)
古河機械金属株式会社
FURUKAWA CO.,LTD.
本社が入居する常盤橋タワー
種類 株式会社
市場情報
東証プライム 5715
1949年5月16日上場
略称 古河機金、フルカワヤマ、FURUKAWA
本社所在地 日本の旗 日本
100-8370
東京都千代田区大手町2-6-4
常盤橋タワー
設立 1918年(大正7年)
創業は1875年(明治8年)
業種 非鉄金属
法人番号 7010001008803 ウィキデータを編集
事業内容 非鉄金属関連事業
産業機械関連事業
開発機械関連事業
ユニック関連事業
電子材料関連事業
化成品関連事業
土木建設関連事業
不動産関連事業
代表者

代表取締役社長

中戸川稔
資本金 282億818万2,500円
発行済株式総数 4億0445万5680株
売上高 連結:1,990億円
単独:76億円
(2022年3月期)
純資産 連結:1,000億円
単独:649億円
(2022年3月)
総資産 連結:2,297億円
単独:1,481億円
(2022年3月)
従業員数 連結:2,804人
単独:204人
(2022年3月)
決算期 3月31日
主要株主 朝日生命保険
清和綜合建物(相互出資)
損害保険ジャパン
中央不動産(相互出資)
富士通(相互出資)
古河電気工業(相互出資)
富士電機(相互出資)
横浜ゴム(相互出資)
主要子会社 古河産機システムズ
古河ロックドリル
古河ユニック
古河メタルリソース
古河電子
古河ケミカルズ
(子会社47社)
(関連会社16社)
関係する人物 古河市兵衛(創業者)
古河虎之助(第3代・第5代社長)
吉村萬治郎(第4代社長)
岡田完二郎(第7代社長、のち富士通社長)
名取和作(古河鉱業を経て、のち富士電機初代社長)
菅礼之助(元理事、のち東京電力会長)
井上公二(元理事、のち朝日生命保険社長)
稲垣平太郎(古河合名を経て、横浜ゴム社長・日本ゼオン会長・通商産業大臣
岡崎邦輔(元理事、のち農林大臣)
中島久万吉(元理事、のち商工大臣)
中江種造(古河市兵衛の技術顧問)
小谷節夫(古河鉱業に入社し、のち衆議院議員
山口青邨(古河鉱業に入社し、のち東京大学教授)
福地信世(元社員、福地桜痴の子)
原敬(元副社長、のち首相
陸奥宗光(第2代社長・古河潤吉の実父、元外相
田中正造
外部リンク https://www.furukawakk.co.jp/
特記事項:※1: 古河グループ各社で株式を相互保有(持ち合い)している。
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古河機械金属株式会社(ふるかわきかいきんぞく、: FURUKAWA CO.,LTD.、旧社名:古河鉱業)は、東京都千代田区大手町2丁目に本社を置く非鉄金属産業機械の大手メーカーである。また、東京日本橋の大型複合施設・コレド室町2室町古河三井ビルディング、地上22階・地下4階・高さ116メートルの超高層ビル)の開発に参画するなど、メーカーでありながら不動産事業も行なっている。

創業は明治8年(1875年)で、創業者は古河市兵衛古河電気工業富士電機富士通とともに「古河グループ古河三水会)」の中核企業であり、旧・古河財閥の源流企業にして古河電工などの母体企業でもある。明治10年に足尾銅山の開発に着手、これが日本の銅産出量トップとなる(明治17年)など大鉱山に成長したことで古河財閥の礎を築く。その後、古河潤吉(2代目社長)・古河虎之助(3代・5代目社長)の下、足尾銅山を基盤に事業の近代化・企業の多角化を推進し、鉱山開発(古河機械金属)→電線製造(古河電工)→電気機器製造(富士電機)→通信機器製造(富士通)などと裾野を広げ、古河グループ各社が古河機械金属から様々な産業へと分社・独立していった(富士電機や富士通の「富士」は、古河の頭文字「ふ」とドイツ社シーメンスの「じ」に由来する)。また、急成長の過程で公害問題に直面したもののこれを克服し、近代日本産業の発展に大きく貢献した。

第二次世界大戦敗戦後の1946年(昭和21年)、持株会社整理委員会による指定(財閥解体)を受け古河財閥持株会社としての機能を喪失、更に同年、岡田完二郎社長(のち富士通社長)や吉村萬治郎元社長、名取和作らがGHQ公職追放令に基づく追放指定(公職追放)を受けて重職を辞任させられるなど、終戦を境に再出発を図ることになった。1989年(平成元年)には「古河鉱業」から現社名に社名変更。元々は鉱業より発祥した企業であるが、石炭事業からの撤退や足尾銅山の閉山などを経て事業の多角化に成功し、現在では削岩機などの土木鉱山用機械のトップメーカーとして広く知られる。2005年事業持株会社体制(事業持株会社である古河機械金属を中心に、子会社46社・関連会社17社で構成)へ移行した。東京証券取引所プライム市場に上場、足尾銅山鉱毒事件の原因企業としても著名。

会社概要[編集]

車両搭載型クレーンユニック」やトンネル掘削に多くの実績を持つトンネルドリルジャンボ(削岩機)などの土木鉱山用機械と製錬を事業のメインとする日本の大手メーカー。削岩機は国内シェア首位(国内シェア90%)、ガリウムヒ素半導体の材料として使用される高純度金属ヒ素は国内唯一の製造メーカーであり世界シェア首位(世界シェア60%、国内シェア75%)である。古河機械金属のルーツは銅山経営(鉱業)にあるが、ここで培われた鉱山技術(鉱石の採掘、銅の製錬、鉱石の運搬、給排水、水処理、副産物の処理、動力源としての発電所建設など)が今日の高度な技術力・高い世界シェアを有する製品(鉱山やトンネルで使用する削岩機、泥水を排水するポンプ、排ガス処理技術、銅の副産物である濃硫酸や希少金属の生産など)の源泉となっている。

東京証券取引所市場第一部に上場している。

古河財閥(現・古河グループ)の各社は、そのほぼ全てが古河鉱業(現・古河機械金属)の一部門としてスタートしている。例えば、古河電気工業は古河鉱業から分離独立した(本所鎔銅所横浜電線製造日光電気精銅所の3社が合併)(古河鉱業から見れば子会社)。富士電機製造(現・富士電機)は古河電工とドイツ社シーメンスの合弁で設立された(古河鉱業から見れば孫会社)。富士通信機製造(現・富士通)は富士電機から分離独立した(古河鉱業から見れば曾孫会社)。富士通ファナック(現・ファナック)は富士通から分離独立した(古河鉱業から見れば玄孫会社)。また、横濱護謨製造(現・横浜ゴム)は、古河とアメリカ社グッドリッチの提携により設立。旭電化工業(現・ADEKA)は、古河と桂川電力(現・東京電力)、東京電気(現・東芝)の3社により設立。日本ゼオンは、古河とアメリカ社グッドリッチ・ケミカルの提携により設立。日本軽金属は、古河と東京電燈(現・東京電力)により設立。帝国生命保険(現・朝日生命保険)は、古河が株式の過半数を買い入れ経営権を取得した。以上のような経緯から、古河機械金属は現在も古河グループ(古河三水会)の資料では筆頭に名を連ねている。また、古河機械金属の英文社名が「FURUKAWA MACHINERY & METAL CO.,LTD.」などではなく「FURUKAWA CO.,LTD.」であるのも、こうした歴史的背景からである。

1875年(明治8年)、創業者・古河市兵衛草倉銅山新潟県)を譲り受け、「古河本店」として経営を開始。1877年(明治10年)には足尾銅山栃木県)を譲り受け、この足尾銅山の発展を基盤とし様々な産業へと多様化の道を歩み始めた。1905年(明治38年)に個人経営から会社組織に変更し「古河鉱業会社」となり、1911年(明治44年)に「古河合名会社」に組織を変更、1918年(大正7年)には古河合名会社の鉱業部門を独立して「古河鉱業株式会社」を設立、更に1941年(昭和16年)に古河合名会社と古河鉱業株式会社が合併し「古河鉱業株式会社」として現在の形態の基礎が完成された。第2次世界大戦敗戦後の1946年(昭和21年)、持株会社整理委員会による指定(財閥解体)を受け古河財閥の持株会社としての機能を喪失、くわえて岡田完二郎社長がGHQ公職追放令に基づく追放指定を受け社長を辞任するなど、終戦をさかいに再出発を図ることとなった。1989年(平成元年)、社名を「古河鉱業株式会社」から「古河機械金属株式会社」に変更、現在に至る。

2005年(平成17年)、機械セグメント・金属セグメント・電子化成品セグメントを会社分割により分社化し、事業持株会社である古河機械金属(株)を中心とした「古河機械金属グループ」としての経営体制に移行。2009年(平成21年)にはM&Aによって塗料事業が新たに加わった(2013年売却)。現在では、機械金属・電子化成品・不動産・その他(運送業など)の4セグメント産業機械・開発機械・ユニック・金属・電子材料・化成品・不動産・その他(運送業など)の8事業を主とした企業活動を行っている。

また、日本の公害の原点ともいわれる足尾鉱毒事件栃木県群馬県渡良瀬川周辺で発生した足尾銅山の公害事件)は、古河鉱業(現・古河機械金属)が原因企業であり、このことは、多くの教科書にも取り上げられているため広く知られているが、今日、古河機械金属はその原因企業として、環境保全技術の開発や積極的な自然再生事業など、前向きな環境保全活動を行っている。

事業内容[編集]

「古河機械金属グループ」は、事業持株会社である古河機械金属(株)、古河機械金属の子会社47社・関連会社16社で構成され、古河産機システムズ(株)、古河ロックドリル(株)、古河ユニック(株)を中核事業会社とする「機械セグメント」、古河メタルリソース(株)を中核事業会社とする「金属セグメント」、古河電子(株)、古河ケミカルズ(株)を中核事業会社とする「電子化成品セグメント」、古河機械金属(株)の不動産本部を中心とした「不動産セグメント」を主な事業としている。

機械セグメント[編集]

  • 産業機械、ロックドリル、車両搭載型ユニッククレーンなどの製造・販売。
    • 産業機械は、環境機械、ポンププラント破砕機、鋼橋梁、鋳造品などを主要製品として製造・販売。これらの製品は「古河産機システムズ(株)」が製造・販売し、製品・部品の一部については子会社である「古河キャステック(株)」から供給を受けている。
    • ロックドリルは、ブレーカ、圧砕機、クローラドリル、トンネルドリルジャンボなどの削岩機を主要製品として製造・販売。これらの製品は「古河ロックドリル(株)」が製造・販売。
    • ユニック製品は、車両搭載型ユニッククレーン、自動車搬送用ユニックキャリアなどを主要製品として製造・販売。これらの製品は「古河ユニック(株)」が製造・販売。

金属セグメント[編集]

電子化成品セグメント[編集]

  • 高純度金属ヒ素、結晶製品などの電子材料、酸化チタン亜酸化銅などの化成品の製造・販売。
    • 電子材料は、高純度金属ヒ素、ガリウムリン多結晶、窒化アルミセラミックス、レーザー用レンズミラー、ノイズフィルター用コイルコア、医療用具(貼付型接触粒)、酸化物系シンチレーターなど、多岐にわたる製品を製造・販売。これらの製品は「古河電子」が製造・販売。また、これらの一部を関連会社である「いわき半導体(株)」に販売し、子会社である「(株)ウエルネス」が製造する医療器具を「古河電子(株)」が仕入販売。
    • 化成品は、酸化チタン、亜酸化銅、ポリ硫酸第二鉄溶液、硫酸などのほか、機能性素材などの製造・販売。これらの製品は「古河ケミカルズ(株)」が製造・販売している。

不動産セグメント[編集]

  • 古河機械金属(株)の不動産本部による不動産の売買、仲介、賃貸。

主要製品[編集]

産業機械事業[編集]

開発機械(ロックドリル)事業[編集]

  • 油圧ブレーカ
  • 圧砕機
  • トンネルドリルジャンボ
  • 油圧クローラドリル
  • ダウンザホールドリル
  • 鉱山用ドリルジャンボ

ユニック事業[編集]

  • ユニッククレーン
  • ユニックキャリア
  • ミニ・クローラクレーン
  • ユニックパル
  • ユニックオーシャンクレーン

金属事業[編集]

電子材料事業[編集]

  • 高純度金属ヒ素
  • ガリウムリン多結晶
  • 窒化アルミセラミックス
  • ラインフィルタ用コア・コイル
  • レーザー用レンズ
  • 光学部品

化成品事業[編集]

主力製品のマーケットシェア[編集]

道路や鉄道の山岳トンネル工事からダム、地下発電所、地下石油備蓄基地の工事などで使用されるトンネルドリルジャンボ(削岩機)は、国内シェア80%を誇り、高速道路や鉄道の山岳トンネル工事において多くの圧倒的な実績を残している。

また、携帯電話の電子デバイスやDVDのレーザーダイオード、LEDなどに使用されるガリウムヒ素半導体の原料である高純度金属ヒ素については、現在では国内唯一の製造メーカーであり、その世界シェアは60%(国内シェアは75%)を誇っている。さらに、サーバーやプリンタなどの電源に使用されるアモルファスダストコアは、その世界シェアは90%(国内シェアは70%)を占めている。

  • 産業機械事業
    • 下水道用汚泥ポンプ - 国内シェア40%
    • スラリーポンプ - 国内シェア20%
    • 破砕機 - 国内シェア20%
  • 開発機械(ロックドリル)事業
    • 油圧ブレーカ - 国内シェア30%、世界シェア30%
    • 油圧クローラドリル - 国内シェア60%、世界シェア30%
    • トンネルドリルジャンボ - 国内シェア90%
  • ユニック事業
    • 車両搭載型クレーン(ユニッククレーン) - 国内シェア47%
    • キャリア(ユニックキャリア) - 国内シェア48%
  • 電子材料事業
    • 高純度金属ヒ素 - 国内シェア75%、世界シェア60%
    • ガリウムリン多結晶 - 国内シェア40%、世界シェア40%
    • アモルファスダストコア - 国内シェア90%、世界シェア70%
  • 化成品事業

事業所[編集]

古河機械金属グループ[編集]

中核事業会社[編集]

グループ会社 主要各社[編集]

グループ・ビジョン[編集]

「成長への挑戦」を合言葉に、競争力アップと圧倒的なシェア獲得というビジョン実現のために、様々な戦略を推進している。

  • 企業理念
    • 変革 - 未来に向けた意識改革により絶えざる自己革新を行う。
    • 創造 - お客様のニーズに対応し、信頼され、魅力あるモノづくりを目指す。
    • 共存 - 経営の透明性を高め、環境と調和した社会の発展に貢献する。

歴代社長[編集]

戦後就任の社長略歴[編集]

現社長(第17代)の略歴[編集]

経営陣[編集]

足尾鉱毒事件[編集]

栃木県群馬県渡良瀬川周辺で発生し現在も鉱毒の流出が続いている足尾銅山公害事件。原因企業は古河鉱業(現・古河機械金属)である。

事件の概要[編集]

日本における近代産業の急速な発展は、その副作用として様々な公害問題を引き起こした。その中でも特に注目されたのが、足尾銅山鉱毒事件である。

江戸時代からの銅山として知られている栃木県・足尾銅山は、明治初年、古河市兵衛が経営者となった。彼は最新の洋式技術を取り入れて鉱石採掘したので、の生産は飛躍的に増大した。しかし、それに伴って大量の鉱毒が渡良瀬川に流れ込み、洪水のたびごとに流域の田畑を荒廃させ、住民に大きな被害を与えた。そこで、地元出身の代議士・田中正造は被害民と共に、鉱毒防止・銅山の操業停止・被害民救済を主張して政府にたびたび請願した。政府も銅山側に鉱毒予防措置を指示したが、その対策はあまり効果がなく、その後も被害が続いて大きな社会問題となった。

田中正造と足尾鉱毒事件[編集]

幕末には廃鉱同然であった足尾銅山を、古河市兵衛が買い取ったのは1877年(明治10年)であるが、6年後には製銅額が買収時の十数倍になった。しかし、この飛躍的な発展に伴って、下流の渡良瀬川流域の農業漁業に大被害が現れた。まず、1880年代半ば頃から、渡良瀬川の水が青白色に変じた時は、必ず魚が浮くと言われた。銅山から流れ込む亜硝酸アンモニウムなどによる被害であった。1896年(明治29年)の大洪水では、群馬県など4県にわたる流域一帯の農作物や家畜に大きな被害を与え、人体にも影響を及ぼすに至った。

これに対し、被害地の村民は、1897年(明治30年)以降、蓑笠・草鞋ばきで大挙して上京し、数回にわたって陳情を試みたが、1900年(明治33年)には警官隊と衝突して数十名が逮捕された。栃木県選出の代議士田中正造は、議会で政府に銅山の操業停止を迫った。また、木下尚江らの知識人とともに世論の喚起につとめた。政府も「鉱毒調査会」を設けて鉱毒予防を銅山に命じたが、操業は停止させなかった。そこで、1901年(明治34年)に田中は議員を辞職し天皇の行列に直訴を試みたが、果たせなかった。

政府は1907年(明治40年)、被害と洪水を緩和するために、渡良瀬川と利根川の合流点に近い栃木県下の谷中村を廃村として住民を集団移転させ、遊水地にした。しかし、田中はこれを不服とする住民と共に谷中村に残り、1913年(大正2年)に亡くなるまでそこに住んで政府に抗議し続けた。

古河側の主張[編集]

足尾鉱毒事件に関しては、主に被害者側の視点での記述が多いが、中立性を確保するため古河側の主張も併記する。ただし、古河側が直接、鉱毒に関して言及している例は非常に少ない。古河側の直接的な文献で、鉱毒に関する言及が多い文書には、古河鉱業刊『創業100年史』(1976年)がある。なお、古河鉱業は鉱毒という語を用いず、「鉱害」という語を用いている。

これによれば、1740年に既に渡良瀬川沿岸で鉱毒による免租願いが出されていることが当時の文献から確認でき、鉱毒は古河の経営になる前から存在したと主張している。また、当時は圧力があって文献では残っていないが、1821年に鉱毒被害があった、という研究も紹介している。古河側の主張によれば、(第1次)鉱毒調査会による鉱毒防止令による工事と、大正時代までに行われた渡良瀬川の治水工事により、鉱毒は「一応の解決をみた」(『創業100年史』より)と述べている。この時代、待矢場両堰普通水利組合などが鉱毒に言及していたことについては記述がない。

源五郎沢堆積場崩壊事故後の毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会との交渉については(それ以前から鉱毒問題に関しては)、「つねに前向きの姿勢で対処してきた」(『創業100年史』より)と述べている。古河側が時効の成立を主張したことなどについては言及がある。1974年の調停で、鉱毒問題については「終止符が打たれた」(『創業100年史』より)と述べているが、古河鉱業がカドミウム汚染に関する責任を認めていないことについての言及はない(1976年に結ばれた公害防止協定への言及もないが、協定成立年とこの文献の発行年が同年であることから、編集に間に合わなかったという可能性もある)。

砂川幸雄の主張[編集]

砂川幸雄は、「政府による厳しい工事完成期間、昼夜を分かたず行われた作業、延べ58万3000人の動員」等々、古河鉱業が困難な公害予防工事に取り組んだ事実を指摘し、田中正造の天皇への直訴の必要性への疑問を投げかけた著書を著した。

優秀な人材の社外流出[編集]

後述する山口喜三郎崎山刀太郎小沢敏雄は、もと古河合名会社(現・古河機械金属)や古河鉱業(現・古河機械金属)に在籍した優れた人材であったが、古河財閥古河グループの外に出て古河財・古河グループと競合する企業のリーダーとして活躍して活躍することになった。これは、古河商事の破綻以降において古河財閥の経営が著しく消極化したこと、また1950年代の鉱業・石炭業の斜陽化と関係があるといえる。しかし、戦前は、満州事変1931年)の勃発を契機に、古河財閥は守勢一方から脱却し銅関連事業・その下流加工産業を主軸として事業は拡大に転じ、古河鉱業・古河電気工業を中心に中川末吉(古河鉱業を経て古河電工社長横浜ゴム社長などを歴任)という優れたリーダーのもとで、古河財閥の企業間の協力関係を深めながら産業を中心とした財閥としての地位を固めていった。戦後も、石炭事業からの撤退や足尾銅山の閉山などを乗り越えて、現在では産業用機械(ドリルジャンボやユニック)のトップメーカーとなった。

山口喜三郎(→東芝)[編集]

古河鉱業(現・古河機械金属)において電気分銅事業の創始以来、銅加工業を中心に工業部門の発展を推進した山口喜三郎は、古河電気工業の設立(古河鉱業から分離された)と共に古河鉱業の常務取締役を辞任し、古河電工専務取締役としてそれまでの新しい事業展開方針の実現に向けて動き出そうとしていた。しかし、古河商事大連事件古河財閥を揺るがした古河商事の事業の失敗=多額の大損失の発生)による古河合名会社(現・古河機械金属)の経営方針の消極化と第一次世界大戦後の恐慌の深刻化は、山口に活躍の場を与えることをしなかった。古河合名会社の内部では、景気後退に伴い山口の積極的経営方針を批判する意見が強まり、1921年中川末吉(のち古河電工社長、横浜ゴム社長)が専務取締役に就任し、山口はヒラの取締役に降格させられた。この結果、山口は古河を去ることになる。

一方、山口は、既に1918年東京電気(現・東芝)の取締役に就任していたが、1921年に東京電気の副社長に就任し、引き続いて1927年には東京電気の社長になり、また、1937年には芝浦製作所(現・東芝)の会長にも就任した。更に、東京電気と芝浦製作所の両社が合併して東京芝浦電気(現・東芝)が設立され、同社の初代社長に就任した。この少し前の1935年に、山口は東京電気の社長として富士電機製造(現・富士電機)と通信機器に関する「事業共同経営に関する覚書」を締結し、富士通信機製造(現・富士通)の設立に関わるなど、日本の電機エレクトロニクス産業の中で目覚ましい活躍をしている。

崎山刀太郎(→三菱電線工業)[編集]

古河電気工業傘下の電線会社は、東京の日本電線と大阪の日本電線製造(のちの大日日本電線)の2社であった。関東大震災1923年)の被災を免れた日本電線は、業務の拡張のため1923年に倍額増資を企図したが、古河合名会社(現・古河機械金属)と古河電工はわずかしかこの増資に応じることができず、そのために古河の日本電線に対する資本支配力が弱体化した。これは、関東大震災直後の混乱と古河商事大連事件の余波を受けて、古河銀行第一銀行第一勧業銀行みずほ統合準備銀行を経て、現在はみずほ銀行)と古河合名会社の日本電線などの傍系会社に対する金融的な援助が及ばなかったことが一因である。

このような背景のもとで、日本電線は東京製線を吸収するなど古河電工と競合する積極的な経営活動を行うに至り、1926年に古河電工との協約書が破棄され、日本電線は独自の道を歩むことになった。古河合名会社から派遣されていた日本電線専務・崎山刀太郎は協約書破棄の前年に古河合名会社を退社し古河を去り、その後、日本電線と大日日本電線の合併を推進、三菱電線工業の創設が行なわれた。

小沢敏雄(→ソニー)[編集]

古河鉱業(現・古河機械金属)に入社した小沢敏雄は石炭産業の斜陽化を目の当たりにして、1960年ソニーへ転職(中途入社)。入社直後、総務部に配属され、ここで、古河鉱業在籍中のノウハウを活かし、組織規定・分掌規定さえない東京通信工業から社名を変更したばかりの若いソニーの規定を作り上げたが、盛田昭夫社長に「古いしきたりがないのが、うちの特徴。そんな頭の固いことをしていては自由な発想は生まれない」と叱責されたという。後に、CBS・ソニー(当時)の設立が決まり、小沢がゼロからレコードビジネスに取り組むことになった時、この盛田の精神を思い出し新しいビジネスの成功に邁進、今日のソニー・ミュージックエンタテインメントを築き上げた。小沢はCBS・ソニー社長、ソニー・コンピュータエンタテインメント初代社長、ソニー・ミュージックエンタテインメント会長などを歴任。

大成火災海上保険[編集]

概要[編集]

大成火災海上保険は、かつて古河財閥に属した損害保険会社で、現在の損害保険ジャパンSOMPOホールディングス)の前身会社の1つ。戦前までは台湾(当時は日本領)の会社だったが、戦後、日本で再出発を図った。古河グループ(古河三水会)に所属し、筆頭株主は古河機械金属。火消しをモチーフにしたマスコットキャラクター「たいちゃん」があった。安田火災海上保険、日産火災海上保険との合併直前に引当不足で債務超過に見舞われ、倒産。当初、安田・日産・大成の3社合併だったのを2社合併に変更し、大成は再建中のところを再保険部門(大成再保険)を分割した上で後から合流する形になった。筆頭株主であった古河機械金属は、大きな打撃を受けた。

1920年(大正9年)1月、古河鉱業(現・古河機械金属)系列の損害保険会社として、前身である旧・大正火災海上保険が台湾・台北市で設立。1922年(大正11年)5月、日本で営業を開始。1988年(昭和63年)9月、東証一部上場2001年(平成13年)11月22日、東京地方裁判所更生特例法の適用を申請。2002年12月1日、安田火災海上保険と日産火災海上保険が合併した損害保険ジャパンに吸収合併

経営破綻とその背景[編集]

2001年11月22日、更生特例法の適用を東京地方裁判所に申請し、受理された。米同時テロなどによる保険金の支払見込額が744億円に膨らみ、9月末時点で398億円の債務超過に陥った。戦後の損害保険会社の破綻は2000年5月に金融監督庁(現・金融庁)から業務停止命令を受けた第一火災海上保険に続いて2社目、損害保険会社の更生特例法の申請は初めてで、大成火災の負債総額は4131億円。

経営破綻に至った経緯は、米同時テロを受け保険会社同士で保険を掛け合う「再保険」取引に数百億円規模の損失が発生したためだ。巨額損失の裏側には、複雑な再保険制度の中でハイリスク・ハイリターンな取引に傾注した姿が浮かぶ。再保険は顧客から預かった保険料の一部を他の保険会社に回し、保険金の支払リスクを肩代わりしてもらう制度。再保険を引き受けた保険会社がさらに別の会社に保険料を回していくこと(再々保険)で、多くの会社間で支払リスクを分散させる仕組みだ。大成火災日産火災あいおい損害保険の3社は、再保険取引を専門に手がける米保険代理店フォートレス・リーと組み、他の損害保険会社から保険リスクを引きうける再保険事業を共同で実施していた。事業を始めた1970年代には引き受けリスクをきちんと再々保険に出し、安定的な取引をしていたという。1980年代以降、様相が変わり始めた。世界各地で大規模な自然災害が頻発したことで再保険市場の保険料が高騰、他社から引き受けたリスクを再々保険に回すことが難しくなった。大成火災は「このままでは事業が成立しなくなる」と危機感を募らせた。そこでフォートレス・リーとともに考え出したのが、再々保険料を極端に割安にしてもらう代わりに、万一、事故が起きたときにはその損失を3社が負担する仕組みだった。リスクを外に転嫁するのではなく、自分で丸ごとかぶることにしたわけだ。この時点で保険リスクを複数の保険会社で分散するという再保険の機能は失われた。ただ、そのままでは大きな事故が起きた場合、3社は保険金を支払いきれなくなる恐れがある。このため3社は保険金支払を5年間にわたって分割できるような再々保険を出す保険会社と結んだ。万一、事故が起きても支払負担を5年に分散すれば問題ないと考えたためだ。つまり、3社が考案した仕組みは、リスクを外に出すのではなく自分で抱えたうえで、支払負担を複数年度に分けることで事故を乗り切ろうという狙いだったわけだ。3社にとって支払う保険料が大幅に安くなる一方で、他の保険会社から受け取る再保険料は変わらないため、その利ザヤが大幅に広がって高利回りな取引になる。しかし、事故が起きれば保険金支払負担は丸ごと3社がかぶる。その落とし穴が米同時テロという史上最悪の事故で一気に露呈し、大成火災の破綻という結末に至った。

筆頭株主であった古河機械金属への影響[編集]

古河機械金属は大成火災の筆頭株主であったことから、更生特例法の適用を申請した11月22日の古河機械金属の株価は暴落、終値は前日比20円安(14%下落)の123円。古河電気工業富士電機など、古河グループ各社の株価も軒並み下落した。大成火災の株式について、古河機械金属は18.2%を保有、古河不動産は2.4%を保有(両社あわせて計20.6%)。更に、大成火災と合併予定だった安田火災(74円安の744円)、日産火災(69円安の492円)も株価を大きく下げることとなった。

また、破綻時の大成火災代表取締役会長は古河機械金属出身の小松任(こまつ・あつし)であった。小松会長は1931年東京生まれ、1953年早稲田大学法学部を卒業し古河鉱業(現・古河機械金属)に入社。取締役機械本部長・プラント部長、産機本部長・機械部長、常務取締役ユニック本部長、古河ユニック社長、専務取締役事業開発本部長などを経て、1996年に大成火災へ移り代表取締役会長。損害保険会社の代表権をもった会長に就任するまで、保険業に携わった経験は皆無と思われる。

諸問題[編集]

大峰炭鉱・従業員暴動事件[編集]

古河鉱業(現・古河機械金属)の大峰炭鉱福岡県田川郡添田町)で、1944年3月13日、日本の統治領であった朝鮮(当時)からの朝鮮人労務者1名が、入坑前の身体検査で窃盗および逃走の嫌疑をかけられ、日本人の炭鉱指導員5名により炭鉱事務所へ連行され暴行を受け、同日死亡した。これを知った他の朝鮮人労務者らが炭鉱事務所へ押し寄せ、その場にいた日本人指導員らへ暴行、更に事務所や寮の器物を損壊する等の暴動事件へと発展した。

その後、十数名の古河鉱業関係者が逮捕され、このうち日本人3名と朝鮮人2名が起訴された。

既婚女子であることを理由とする解雇[編集]

古河鉱業(現・古河機械金属)では、経営合理化のため間接部門の整理統合を行なうこととなり、その結果、男子職員5名、女子工員10名の余剰が出たので女子工員については既婚者を中心に退職を求めることとした。労働組合の了承を得て、女子について希望退職の募集を行ったところ、既婚者は裁判を提起した1名を除く全員7名、未婚者2名が退職願を提出した。退職願を提出しなかったこの1名は、1953年5月から同社に雇用され、機械事業部高崎工場に配属され業務に従事していたものであるが、同社は退職願を提出しない同人に対し、内容証明郵便により就業規則の「己むを得ない事業上の都合によるとき」に該当するとの理由で解雇する旨の意思表明をした。これに対し、解雇は合理的理由を欠き無効であることを理由に、雇用契約上の地位確認を求め提訴した。前橋地方裁判所は、人員整理は、諸条件を考慮して、最適の者として選ばれたのが既婚女子であったというのであるから合理的理由があると判断したが、これを不服として女子労働者が控訴したが、控訴は棄却された。その上告審では、以下のように判旨され、女子労働者の訴えは退けられた(古河鉱業の勝訴)。

「会社が経営改善のため、高崎工場において人員整理を行う必要に迫られていたとする原審の認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして是認することができ、その過 程にも所論の違法はない。」「原審の確定した事実及び記録上うかがわれる諸般の事情に徴すれば、上告人に対する本件解雇が経営合理化に籍口して既婚女子のみを排除するためのものであったとはいえないとした原審の認定判断は、是認することができないものではない。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。」

西淀川公害訴訟[編集]

1978年(昭和53年)に阪神工業地帯の主要企業10社と国、阪神高速道路公団被告に、環境基準を超える大気汚染物質の排出差し止めと損害賠償を求めて第一次訴訟が提訴され、その後二〜四次まで合計726人が原告となった大規模裁判である。硫黄酸化物の排出原因者である企業に加えて、当時、自動車交通量の増加にともなって深刻化していた自動車排気ガスによる大気汚染をも視野に入れた訴訟であった点が特徴的である。

古河機械金属も被告企業の1社である(詳細は西淀川公害訴訟の項を参照)。

華人労務者問題[編集]

華人労務者とは日中戦争時に労働力不足であった日本において、中国大陸から日本の企業に雇用され、労働力を提供した中国人労働者のことである。華人労務者の中には半強制的に日本へ移送されることになった人たちも存在した。

栃木県足尾の古河鉱業(現・古河機械金属)では、過酷な労働、粗末な食料、風呂無し生活を強いられ、衰弱到着3月で60%が死亡したとされる(詳細は華人労務者の項を参照)。

橋梁工事の談合事件[編集]

国土交通省および日本道路公団発注の鋼橋梁上部工事に関して、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)3条違反の行為があったとして、公正取引委員会から2005年11月に審決を、2006年3月に課徴金納付命令を受けた。

ポンプ工事の談合事件[編集]

2008年4月に、東京都下水道局発注の下水道ポンプ設備工事について、独占禁止法3条違反の行為があったとする公正取引委員会の審決を受けた。公正取引委員会は、同工事の入札をめぐり入札参加業者が共同して受注予定者を決定し、受注予定者が受注できるようにしていたとして、古河機械金属を含む計6社に対し総額7億4755万円の課徴金納付命令を行なった。

6社は古河機械金属、荏原製作所日立製作所三菱重工業鶴見製作所新明和工業

社外役員に関する問題点[編集]

社外取締役古河電気工業相談役(元同社社長)、社外監査役朝日生命保険社長と清和綜合建物特別顧問(元第一勧業銀行副頭取)であるが、社外といっても同じ古河グループの企業の経営者であり、中立性の点で問題があると思われる。

古河潤之助の社外取締役としての適格性[編集]

古河潤之助古河電気工業社長在任中の2001年、同社は米国ルーセント・テクノロジーズ光ファイバー事業(OFS)を約2800億円を投じて買収した。しかし、保有設備を大拡張した直後にITバブルが崩壊。2001年度は24億円の赤字であったが翌2002年度は1140億円の赤字に膨れ上がるなど、この大買収は結果的に大失敗となり、潤之助社長が社長就任会見時に豪語した「利益水準で住友電気工業をつかまえてみせる」という積極的な経営戦略は完全に裏目に出た。潤之助社長はこれを受け事実上の引責辞任、後任には非生え抜きの元NTT常務・石原廣司(現・代表取締役会長)が就任することとなった。また、潤之助が社長在任中、古河電工独占禁止法に違反したとして公正取引委員会から複数の課徴金納付命令・排除措置命令等を受けている。

以上のような事実(経営能力やコンプライアンスに対する意識など経営者としての能力)を勘案すると、潤之助が15年以上にわたって古河機械金属の社外取締役をつとめていることについて、株主や債権者等の一部からは疑問の声が上がっている。

その他[編集]

主要株主[編集]

古河機械金属の株式を保有している主要な株主(持株数・持株比率)

保有株式[編集]

古河機械金属が保有している株式貸借対照表計上額・カッコ内は保有目的)

  • 古河電気工業 - 62億2700万円(取引および古河グループとしての関係維持・強化のため)
  • 富士電機 - 26億8600万円(取引および古河グループとしての関係維持・強化のため)
  • 富士通 - 22億1800万円(取引および古河グループとしての関係維持・強化のため)
  • 常陽銀行 - 11億6800万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 静岡銀行 - 11億4300万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 横浜ゴム - 9億6000万円(取引および古河グループとしての関係維持・強化のため)
  • みずほフィナンシャルグループ - 5億0500万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 三菱マテリアル - 4億4600万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 関東電化工業 - 4億0200万円(取引および古河グループとしての関係維持・強化のため)
  • 常磐共同火力 - 3億3300万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 日本農薬 - 3億2900万円(取引および古河グループとしての関係維持・強化のため)
  • 澁澤倉庫 - 3億1200万円(取引および古河グループとしての関係維持・強化のため)
  • 八十二銀行 - 2億5200万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 三菱地所 - 2億3300万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 群馬銀行 - 2億2300万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 阪和興業 - 1億2400万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 三井住友トラスト・ホールディングス - 1億2400万円(取引関係の維持・強化のため)
  • タクマ - 1億1300万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 西松建設 - 1億0600万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 山梨中央銀行 - 1億0400万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 千葉銀行 - 1億0100万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 日本ゼオン - 9100万円(取引および古河グループとしての関係維持・強化のため)
  • ワキタ - 8400万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 東京海上ホールディングス - 7400万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 双日 - 5800万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 大日本コンサルタント - 4700万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 常磐興産 - 4400万円(取引関係の維持・強化のため)
  • コスモ石油 - 3900万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 東洋インキ製造 - 3200万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 川田テクノロジーズ - 2300万円(取引関係の維持・強化のため)
  • 日本軽金属 - 1900万円(取引および古河グループとしての関係維持・強化のため)

ユニック・クレーン[編集]

ユニック・クレーンは、中核事業会社(連結子会社)である「古河ユニック(株)」が製造・販売しているトラック搭載型クレーンのことである。1961年(昭和36年)、当時の「(株)ユニック」により初代ユニッククレーン「UNIC100」が製造された。1987年(昭和62年)に、(株)ユニックは古河鉱業(現・古河機械金属)により買収され、1989年には現社名(古河ユニック)へ変更された。

「UNIC(ユニック)」という愛称の由来は、世界の全ての人々のクレーン(ユニバーサルクレーン)でありたいという願いと、その形が似ている伝説の一角獣(ユニコーン)の力強いイメージを元に考え出された造語からきている。なお、「ユニック」「UNIC」は古河機械金属の登録商標である。

本社ビル[編集]

東京・丸の内の本社(丸の内仲通りビル)は、1963年(昭和38年)1月に竣工した地上10階・地下4階のビルである。以前は、同じく千代田区丸の内の古河総合ビルに入居していたが、三菱地所による丸の内再開発により取り壊されることになり、2006年に現在のビルに移った。古河総合ビルの跡地は、現在、丸の内パークビルディング三菱一号館・丸の内ブリックスクエア)となっている。ちなみに、古河総合ビルは三菱四号館の跡地に建てられたものである。

また、丸の内仲通りビルは、かつて三菱電機の本社であったため三菱電機ビルと呼ばれていたが、三菱電機の本社が東京ビルディング(東京ビルTOKIA)に移転したことにともない現名称に変更された。1974年に発生した三菱重工爆破事件三菱重工業を標的とした東アジア反日武装戦線による無差別爆弾テロ事件、死者8名・負傷者376名)では、テロ事件の舞台となった三菱重工の本社ビル(現・丸の内二丁目ビル)が丸の内仲通りをはさんで反対側に位置した関係で、三菱電機ビル(現・丸の内仲通りビル)も大きな被害を受けた。

なお、丸の内仲通りビルには現在、古河機械金属の本社のほかに、古河電気工業古河林業の本社、古河三水会など多くの古河グループ各社が入居している。

日本橋室町(古河ビル)の再開発[編集]

三井不動産が主体となって進めていた、東京日本橋室町東地区開発の「2-3街区」に、古河機械金属の所有する古河ビルが所在する関係で、古河機械金属もこの再開発に事業主体の1社として参画していた。

具体的には、2-3街区は地上22階・地下4階・高さ116メートルとなる超高層ビル(室町古河三井ビルディング)が立地しており、オフィス・商業施設・文化交流施設・賃貸住宅が入居している。

また、所有者は古河機械金属と三井不動産含め5社と地権者3名で、着工は2011年11月15日、竣工は2014年1月31日、商業施設は2014年3月に開業した。

そして古河グループ不動産部門であった古河不動産を吸収合併した経緯から、古河機械金属は上述の古河ビルのほかに複数のオフィスビルを有しており、メーカーでありながら不動産事業も行っている。主要なオフィスビルとしては、東京日本橋室町の室町古河三井ビルディング、大阪堂島浜古河大阪ビル福岡大名古河大名ビルがあげられる。

古河鉱業と帝国大学[編集]

1906年(明治39年)、京都帝国大学(現・京都大学)の設置に尽力高等教育機関の設置に前向きな西園寺公望首相とする第1次西園寺内閣が成立すると、1907年度(明治40年度)予算に東北帝国大学(現・東北大学)および九州帝国大学(現・九州大学)の設置予算を組み込んだ。しかし、日露戦争後の不況期に入ったことを理由に大蔵大臣によって予算は削減され、設立は絶望的となった。このとき、古河鉱業(現・古河機械金属)副社長であった原敬・内務大臣が、古河財閥の3代目当主・古河虎之助を説得し、両帝国大学設立のための資金を提供させることを取り付け、予算削減から17日目に両帝国大学の設置が閣議決定された。

1907年(明治40年)6月、東北帝国大学本部が設置され、同年9月に札幌農学校が東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)に昇格した。1911年1月には、東北帝国大学理科大学が新設され、九州帝国大学本部の設置および九州帝国大学工科大学の新設がなされた。同年4月には、九州帝国大学福岡医科大学が移管されて九州帝国大学医科大学となった。これらの大学設置には、地元からの寄付金等も用いられたが、1907年度から5年間で約106万円に上った古河財閥の寄付金が用いられた(内訳は建築費が987,739円、事務費用69,137円)。古河財閥からの校舎建設資金は、東北帝国大学分が、農科大学135,519円、理科大学244,170円、九州帝国大学分が工科大学608,050円であった。

北海道大学には現在、これらの名残の建築物ともいえる「古河記念講堂」が現存している。

ボウリング設備への進出[編集]

古河鉱業(現・古河機械金属)が機械部門を強化する過程で、市場の成長性に目を付けボウリング設備へ進出。技術開発に臨んで10年後に一大ボウリングブームが訪れ(1971年 - 1972年)、注文は殺到し一時は全売上の半数近くを占めるまでの業績を上げた。ブームの下降とともにボウリング設備分野は終息したが、業績の停滞期に大きな成果を上げ、その後の古河鉱業の各種事業への進出を大きく支えることになった。

現在ではピンヒッターの製造は行なっていないが、古河コマースがメンテナンスを行なっている。

古河市との関係[編集]

茨城県古河市と古河機械金属・古河財閥古河グループとは、何の関係もない。古河市の読みは「こが」である。

関連書籍[編集]

沿革[編集]

古河グループ[編集]

概要[編集]

古河グループは、現在、古河機械金属・古河電気工業富士電機富士通を中核理事会社として、横浜ゴムADEKA日本ゼオン日本軽金属ホールディングス朝日生命保険みずほ銀行を加えた10社の理事会社を中心に、会員会社51社、その他の準会員会社462社をもって任意団体の「古河三水会」を構成し、グループ各社相互間の緊密なる協調を図り、それぞれの企業活動の強化促進に努めている(グループ会社数は523社・従業員数は約25万人)。三水会という名称は、古河グループの社長会の開催日が毎月第三水曜日であることに由来する。

古河グループの歴史の源は、日本の鉱山王と言われた古河市兵衛が明治8年(1875年)に「進業専一」を信条に産銅事業(現在の古河機械金属)に乗り出したことに始まる。明治35年(1905年)には組織を古河鉱業会社とし、以後、事業の近代化、企業の多角的な発展を目指し、今日の古河グループの繁栄の基礎を築いた。古河グループの各企業は、金属、機械、電線、ゴム、化学、電機、通信機、軽金属、電子工業、サービス等、産業界の様々な分野で、それぞれの特性を発揮しながら活躍している。

古河グループにおける古河機械金属の位置付け[編集]

古河財閥(現・古河グループ)の各社は、そのほぼ全てが古河鉱業(現・古河機械金属)の一部門としてスタートしている。

例えば、古河電気工業は古河鉱業から分離独立した(本所鎔銅所横浜電線製造日光電気精銅所の3社が合併)(古河鉱業から見れば子会社)。富士電機製造(現・富士電機)は古河電工とドイツ社シーメンスの合弁で設立された(古河鉱業から見れば孫会社)。富士通信機製造(現・富士通)は富士電機から分離独立した(古河鉱業から見れば曾孫会社)。富士通ファナック(現・ファナック)は富士通から分離独立した(古河鉱業から見れば玄孫会社)。また、横濱護謨製造(現・横浜ゴム)は、古河とアメリカのグッドリッチ社の業務提携により設立。旭電化工業(現・ADEKA)は、古河と桂川電力(現・東京電力)、東京電気(現・東芝)の3社により設立。日本ゼオンは、古河とアメリカのグッドリッチ・ケミカル社の業務提携により設立。日本軽金属は、古河と東京電燈(現・東京電力)により設立。帝国生命保険(現・朝日生命保険)は、古河が株式の過半数を買い入れ経営権を取得した。

以上のような経緯から、古河機械金属は現在も古河グループ(古河三水会)の資料では筆頭に名を連ねている。また、古河機械金属の英文社名が「FURUKAWA MACHINERY & METAL CO.,LTD.」などではなく「FURUKAWA CO.,LTD.」であるのも、こうした歴史的背景からである。

グループ・メッセージ[編集]

古河グループは「未来をひらく古河グループ」をグループ・メッセージとして、世界的企業の構想のもとに新しい時代に即応するため、親密な協力連携により経済の国際化に対処しつつ、新規産業分野にも積極的に取り組み、人類福祉の使命に燃えて着実にその歩みを進めている。

理事会社[編集]

(これら古河グループ主要会社の間では、各社の株式を相互持合している)

会員会社[編集]

子会社や関連会社まで含めると膨大な数に上るため、ここでは、古河グループの社長会である古河三水会理事会社、及び会員会社の主要会社のみを挙げる。

スポーツ[編集]

古河電気工業サッカー部JR東日本サッカー部が合併して設立された「ジェフユナイテッド市原・千葉」、富士通サッカー部として設立された「川崎フロンターレ」、という2つのJリーグのクラブチームを有している。

古河記念基金[編集]

財団法人古河記念基金は、古河グループ各社ならびに個人の支援・協力により、育英事業と学術振興事業を主目的として1965年に設立された。日本人学生および外国人学生に対する奨学事業、大学に対する研究費援助などを行っている。基金の理事長は藤田譲朝日生命保険最高顧問、常務理事は岩崎誠古河三水会事務局長、理事等の役員には古河三水会(古河グループ)各社の代表者が就任している。

古河機械金属グループからも、相馬信義・古河機械金属社長が理事、小林勉トウペ社長が監事、山下南海男・古河機械金属特別顧問が評議員、吉野哲夫・古河機械金属相談役が相談役を務めている。なお、基金の理事・監事・評議員・相談役等の役員はいずれも無報酬である。

大阪万博の古河パビリオン[編集]

1970年日本万国博覧会(大阪万博)で、古河グループ(以下の各社)は「古代の夢と現代の夢」というテーマを「東大寺七重の塔とコンピュートピア」で表現したパビリオンを出展した。

古河鉱業(現・古河機械金属)、古河電気工業旭電化工業(現・ADEKA)、横浜ゴム富士電機富士通日本軽金属日本ゼオン朝日生命保険第一銀行(現・みずほ銀行)、東亜ペイント(現・トウペ)、大成火災海上保険(現・損害保険ジャパン)、古河化学(現・JXTGエネルギー)、古河アルミ(現・UACJ)、古河電池古河マグネシウム古河産業日本農薬ハマ化成(現・タキロンシーアイ)、金町ゴム富士電気化学(現・FDK)、日軽アルミ(現・日本軽金属)、日軽商事(現・日軽産業)、澁澤倉庫日本製箔東海金属古河鋳造富士ディーゼル古河特殊金属(現・古河テクノマテリアル)。

  • 「古代の夢」=「東大寺七重の塔」
    • 再現された七重の塔は、最上階の七層へはエレベーターで上がり、展望回廊から万博会場を見渡すことができた。
  • 「現代の夢」は「コンピュートピア」
    • コンピュートピアとは、コンピュータによって実現される便利で楽しい世界(ユートピア)である。会場には、富士通が製作した最新鋭の純国産コンピュータが展示された。
  • 古河パビリオンは3室に分かれており、第1室「導入部」はテーマディスプレイ・メビウスの環、第2室「実験劇場」はコンピュータ・ハンド・ゲーム、電車の運転テスト、碁とコンピュータ、コンピュータ・ドレス・デザイナー、キャッシュレス・ショッピング、第3室はコンピュータ・ミュージカル・ホール、テレビ電話コーナー、で構成されていた。
  • 古河パビリオンは未来的建築の並ぶ会場内であえて「外し」狙いで古典的に東大寺の過去に雷で燃失した七重塔を再現していた。会期終了後、東大寺より移設の要望もあったが、資金上の問題もあり最上部の相輪部のみ寄贈されるにとどまる(大仏殿回廊の東側に建てられている)。

歴代当主[編集]

ちなみに、古河従純の長男・古河潤之助(1935年東京生まれ、慶應義塾大学経済卒)は元古河電気工業社長(現・相談役)(現・古河機械金属社外取締役)、次男・古河久純古河林業会長、三男・古河正純1938年東京生まれ、学習院大学政経卒)は元古河産業社長、四男・古河建純1942年東京生まれ、慶應義塾大学工卒)は元ニフティ社長(元富士通常務)、五男・古河直純1944年東京生まれ、慶應義塾大学経済卒)は日本ゼオン社長。

古河従純の子息は、全て古河グループ各社へ入社し役員となっているが、これは財閥系企業では非常に珍しいことである。その理由としては、従純が第二次世界大戦敗戦直後の古河財閥の大混乱下において、米国ハーバード大学留学時の人脈を活かし財閥解体公職追放の影響を最小限に抑えようと奔走・尽力したことが挙げられる。この従純の終戦時の対応が大きな信頼を勝ち得て、戦後も古河一族は古河グループ各社から好意的に受け入れられた。

現当主(5代目)の略歴[編集]

1995年より、古河機械金属社外取締役

この間、横浜ゴム社外監査役、朝日生命保険社外監査役、川崎汽船社外取締役、インターネットイニシアティブ社外取締役など歴任。

妻は、久邇宮朝融王(皇族、のち皇籍離脱)の第5王女・典子(1941年〜)。

社名の変遷[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]