南光明

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みなみ こうめい
南 光明
本名 鈴木 光
生年月日 (1895-06-30) 1895年6月30日
没年月日 (1960-03-25) 1960年3月25日(64歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京市京橋区築地
(現在の東京都中央区築地)
死没地 日本の旗 日本
職業 俳優
ジャンル 映画サイレント映画剣戟映画
活動期間 1920年 - 1959年
活動内容 1920年 松竹キネマ研究所入所
1921年 俳優デビュー
1923年 日活に移籍
1927年 時代劇に転向
1928年 マキノ・プロダクションに移籍
1931年 東活映画社入社
1933年 松竹
配偶者 大林梅子
主な作品
浪人街 第一話 美しき獲物
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南 光明(みなみ こうめい、1895年6月30日 - 1960年3月25日[1])は、日本俳優である。現代劇から転向し、剣戟俳優となり、戦後も時代劇に出演した[1]。本名は鈴木 光である[1]

人物・来歴

1895年(明治28年)6月30日東京市京橋区築地[2](現在の東京都中央区築地)に「鈴木光」として生まれる[1]

1920年(大正9年)10月、本郷区春木町(現在の文京区本郷3丁目)に設立された松竹キネマ研究所に入り、小山内薫の指導の下、村田実監督による新劇の映画『路上の霊魂』に出獄者・鶴吉役で出演して、デビューした[1]。同作は松竹キネマが配給し、1921年(大正10年)4月8日に公開された。南は、同研究所が製作した3作にすべて出演した。同研究所は同年8月に解散、南は松竹キネマ蒲田撮影所に移籍した。

1923年(大正12年)、日活向島撮影所に移籍し、同年、溝口健二監督の『情炎の巷』で主演する[1]。当時の向島の現代劇は、女役も男性の女形が演じていたが、若山治監督の『哀愁の曲』では酒井米子と共演した[1]。同年9月1日の関東大震災で同撮影所は壊滅し、京都の日活大将軍撮影所に移転した。

1927年(昭和2年)には、時代劇俳優に転向した[1]。1928年(昭和3年)、マキノ・プロダクションに移籍し、入社第1作としてマキノ正博監督の『蹴合鶏』に主演した。1928年(昭和3年)に主演した、マキノ正博監督の『浪人街 第一話 美しき獲物』は、高く評価された。1929年(昭和4年)当時の雑誌記事によれば、当時の身長は「5尺6寸5分」(171.2センチ)、体重は「19貫500匁」(73.1キロ)であった[3]

第二次世界大戦後も時代劇に出演したが、1960年(昭和35年)3月25日、胃がんのために死去した[1]。満64歳没。生涯200本以上の作品に出演した。

おもなフィルモグラフィ

  1. ^ a b c d e f g h i マツダ[2005], p.162。
  2. ^ 南光明KINENOTE, 2009年10月30日閲覧。
  3. ^ 芝居とキネマ[1929], p..

参考書籍

  • 『日本俳優名鑑 - 映画俳優の部』、『芝居とキネマ』昭和4年1月号新春付録所収、1929年
  • 『無声映画俳優名鑑』、編無声映画鑑賞会・監修マツダ映画社、アーバン・コネクションズ、2005年

外部リンク