南インドの映画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
インド映画100周年のモニュメント(バンガロール

南インドの映画(みなみインドのえいが、Cinema of South India)とは、インドで製作される映画のうちカンナダ語映画マラヤーラム語映画タミル語映画テルグ語映画トゥル語映画の5つの映画産業を指す。各映画産業はそれぞれバンガロールコーチチェンナイハイデラバードマンガロールを拠点としている。

これらの映画産業はそれぞれ独立した産業として活動していたが、俳優やスタッフの人的交流、グローバリゼーションの促進により1つの映画産業としてのアイデンティティが形成されていった[1]。南インド映画は南インド映画商業会議所が管轄しており、テルグ語映画とタミル語映画が全体の収益の36%を占めている[2]

歴史[編集]

黎明期[編集]

1897年、ヨーロッパ人興行師によってマドラスヴィクトリア公会堂英語版で初めてサイレント短編映画が上映された[3]。上映された映画は日常風景を撮影したノンフィクションが大半で、マドラスではサイレント映画を上映するためのエレクトリック・シアターが建設された[3]。この施設はマドラス在住のイギリス人の間で人気スポットになったものの、数年後に閉鎖された。施設は現在、アンナ・サライ英語版(マウント・ロード)にある郵便局の一部として利用されている。劇場はこの他にもリリック・シアターが建設されており[3]、この劇場では英語の戯曲やクラシック音楽コンサート、社交ダンスなどのイベントが開催され、サイレント映画は付随的なイベントとして上映されていた。ティルチラーパッリの南インド鉄道社員サミカンヌ・ヴィンセント英語版は映写機とサイレント映画のフィルムを購入し、映画興行師として事業を展開した[4]。彼は上映用のテントを建て、好評を得たヴィンセントはインド各地を巡業してサイレント映画を上映した[5]。後年、彼はコーヤンブットゥールに拠点を置きトーキー映画の劇場を建設した[6]

「南インド映画(テルグ語映画)の父」ラグパティ・ヴェンカイアー・ナイドゥ

1909年、ウェールズ公ジョージがインドを訪問した際、それを記念してマドラスで大規模な展覧会が開催された。展覧会の目玉となったのは音声を伴う短編映画の上映だった。これはイギリスの会社が購入した録音済みの音楽レコードとリンクした映写機クローネ・メガホンを使用して上映されたものだが、この時点では台詞はなかった。インド人写真家ラグパティ・ヴェンカイアー・ナイドゥは展覧会終了後にクローネ・メガホンを買い取り、マドラス高等裁判所英語版の近くにテント劇場を建設した[3]。彼は1912年にマウント・ロードに常設の映画劇場ゲイティ・トーキーズを建設した。マドラスでフルタイムの映画が上映されたのはゲイティ・トーキーズが初となったが、劇場は後に商業開発のために閉鎖された[7]

コーヤンブットゥールに南インドで最初の映画館を建設したヴィンセントは、町や村の周辺の土地にテントを建て映画を上映する「テント・シネマ」の概念を生み出した。この「テント・シネマ」が初めて建てられたのは、マドラスの「エジソンズ・グランド・シネマメガホン」と呼ばれるテントであり、劇場では電気カーボンを使用した映写機が用いられていた[8]。本格的な映画館はセーラムモダン・シアターズ英語版)、コーヤンブットゥール(セントラル・スタジオ英語版、ネプトゥネ、パクシラージャ)に建設された。マドラスにはヴィジャヤ・ヴァヒニ・スタジオ英語版ジェミニ・スタジオ英語版という2つの映画スタジオが建設され、映画製作の拠点となった。当時の南インドはマドラス管区に内包されていたため、その首府であるマドラスは南インド映画の中心地として発展することになった。

最初の南インド映画[編集]

最初のマドラス映画(南インド映画)は、インディア・フィルム・カンパニーを設立したランガスワーミ・ナタラージャ・ムダリアールが監督した『Keechaka Vadham』である[9]。1920年代に入るとタミル語サイレント映画がマドラス周辺で撮影されるようになり、撮影されたフィルムはプネーカルカッタで技術的処理が行われた。後にプネーやカルカッタでもM・K・ティアガラージャ・バガヴァサール英語版の作品が撮影されるようになった。1921年にラグパティ・ヴェンカイアー・ナイドゥとラグパティ・スーリヤ・プラカーシュ・ナイドゥ父子によって初のテルグ語サイレント映画『Bhisma Pratighna』が製作された[10]。ラグパティ父子はヤーラグーディパティ・ヴァラーダ・ラオ英語版と共に数十本の映画を製作し、舞台俳優を主要キャストとして迎え入れた[11]。彼らは宗教的テーマを扱った『Nandanar』『Gajendra Moksham』『Matsyavatar』を製作し、宗教を題材にした映画は後年の南インド映画における主要ジャンルとなった[12][13]

初のトーキー・テルグ語映画『Bhakta Prahlada[14]

1918年に初のタミル語サイレント映画『Keechaka Vadham』が公開された[15]。1931年に北インドで初のトーキー・インド映画『Alam Ara』が公開され、同年10月には南インドで初のトーキー・タミル語映画『Kalidas』が公開された[16]。トーキー映画は大衆の人気を集め、1934年公開の『Lava kusa』で初めて南インド映画は興行的な成功を収めた。C・プライアー英語版が監督、スリランジャニ英語版が主演を務めた同作は記録的な観客動員数となり、勃興したばかりの映画産業を主流文化へと成長させた[17]。同時期に初のトーキー・カンナダ語映画『Sati Sulochana』が公開され[18]、続けて『Bhakta Dhruva』が公開された。両作は興行的な成功を収めたものの、カルナータカでは映画スタジオや技術スタッフ不足のため産業の成長が阻害されていた。『Sati Sulochana』はコールハープルのチャトラパティ・スタジオで撮影され、大半の撮影や録音、ポストプロダクションはマドラスで行われた。また映画製作の資金も容易に集まらなかったため、インド映画におけるトーキー勃興期に製作されたカンナダ語映画はほとんど存在しない。1938年には初のトーキー・マラヤーラム語映画『Balan』が公開された。マラヤーラム語映画は1947年にクンチャコ英語版ケーララアーラップーザ英語版ウダヤ・ピクチャーズ英語版を設立するまで、タミル人プロデューサーによって製作されていた。

社会的影響とスター俳優[編集]

『Mala Pilla』

マドラス管区はアーンドラ・プラデーシュ州ケーララ州タミル・ナードゥ州に分割され、これにより南インド映画は新たな時代を迎え、映画は言語ごとに地域的・排他的に製作されるようになった。1936年までに大衆は映画が宗教的・神話的テーマから離れることを許容するようになり[17]、こうした中で1951年に家族の問題をテーマとした『Jeevitha Nouka』が製作され、これ以前に製作された社会派映画として『Prema Vijayam』『Vande Mataram』『Mala Pilla』が挙げられる。テルグ語映画は禁忌や嫁荷などの社会問題をテーマとした映画を製作するようになり、1937年から1947年の間に製作された96作品中29作品が社会問題をテーマとしていた[19]インド国民会議のタミル・ナードゥ支部指導者たちはタミル語映画のスター俳優を政治利用しようと試みたものの、農村部の人々にとって映画は馴染みの薄い媒体だったこともあり、この試みは限定的なものに留まった[20]。こうした映画の政治利用の動きは、1947年にインド独立が実現した後に事実上停止された[21]。しかし、1950年代に農村部に電力が供給されると、ドラヴィダ人政党英語版は映画を主要な政治機関として活用するようになり[20]ドラーヴィダ進歩党が最初に映画を政治的に活用した政党となった[20]ペリヤール・E・V・ラーマサーミ英語版の思想に感化されたゲリラ劇場英語版の俳優や脚本家は作品にタミル・ナショナリズム英語版反バラモン英語版思想を取り入れるようになり[22]、映画では思想家たちが提唱するドラヴィダ人国家「ドラヴィダ・ナードゥ英語版」の独立に言及するだけでなく、映画の中で政党のシンボルを表示させることも多く見られた[20]。また、ドラーヴィダ進歩党が映画を政治利用し始めたことでM・G・ラーマチャンドラン英語版S・S・ラジェンドラン英語版のように映画での名声を背景に政界に進出する俳優が現れた。

映画が言語ごとに分割される一方、タミル語映画『灼熱の決闘英語版』は全言語で人気を集めた。また、ラーマチャンドランはインドで最も記憶に残る俳優の一人となり、その名声を背景に全インド・アンナー・ドラーヴィダ進歩党を結成した。このころ、南インド映画はサティヤン英語版プレーム・ナジール英語版の活躍によりマラヤーラム語映画の黄金時代を迎えていた。ナジールは1967年公開の『Iruttinte Athmavu』でインド映画最高峰のスター俳優に挙げられるようになり、ラージクマール英語版は『Jeevana Chaitra』『Bangaarada Manushya』など200作品以上の映画に出演するスター俳優として活動したが、彼は政界に進出せず映画俳優として生涯を終えた。2010年代に入ると『Puli』『K.G.F: CHAPTER 1』『Kotigobba 2』『バーフバリ 伝説誕生』のように南インドだけではなくインド全土で興行的な成功を収める作品が登場した。これらのヒット作のうち、『バーフバリ 王の凱旋』はハリウッドと同質のVFXを駆使して製作された最初の南インド映画となった。

主な映画賞[編集]

出典[編集]

  1. ^ Southern movies account for over 75% of film revenues”. The Economic Times. The Economic Times. 2011年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年1月1日閲覧。
  2. ^ The Digital March Media & Entertainment in South India”. Deloitte. 2014年4月21日閲覧。
  3. ^ a b c d Muthukumaraswamy, M. D; Kaushal, Molly (2004). Folklore, public sphere, and civil society. p. 116. ISBN 9788190148146. https://books.google.com/?id=Xsrgg1Mel8UC&pg=PA117&dq=Victoria+Public+Hall+Tamil+cinema#v=onepage&q=Victoria%20Public%20Hall&f=false 
  4. ^ Pioneers In Indian Cinema - Swamikannu Vincent Archived 2013-05-09 at the Wayback Machine.. Indiaheritage.org. Retrieved on 2013-07-29.
  5. ^ Rajmohan, Joshi (2006). Encyclopaedia of Journalism and Mass Communication: Media and mass communication. p. 68. ISBN 9788182053663. https://books.google.com/?id=_aoH81IN8SsC&pg=PA68&dq=Swamikannu+Vincent#v=onepage&q=Swamikannu%20Vincent&f=false 
  6. ^ “Down Memory Lane - Bioscope in Coimbatore.”. The Times Of India. オリジナルの2015年6月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150630202911/http://o3.indiatimes.com/brahmanyan/archive/2007/09/21/4783241.aspx 
  7. ^ “Cinema at Round Tana”. Chennai, India: The Hindu. (2003年6月25日). http://www.hindu.com/thehindu/mp/2003/06/25/stories/2003062500120300.htm 2011年9月26日閲覧。 
  8. ^ “He brought cinema to South”. Chennai, India: The Hindu. (2010年4月30日). http://www.hindu.com/fr/2010/04/30/stories/2010043051340400.htm 2011年9月26日閲覧。 
  9. ^ Velayutham, Selvaraj (2008). “'India' in Tamil silent era cinema”. Tamil Cinema: The Cultural Politics of India's Other Film Industry. Routledge. p. 156. ISBN 978-0-415-39680-6. https://books.google.com/?id=65Aqrna4o5oC&dq=Tamil+cinema 
  10. ^ Telugu Cinema Biography”. Totaltollywood.com (1913年5月3日). 2003年10月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年9月21日閲覧。
  11. ^ CineGoer.com - Articles - History Of Birth And Growth Of Telugu Cinema Archived 2007-04-10 at the Wayback Machine.
  12. ^ Land Marks in Tamil Cinema Archived 2008-04-10 at the Wayback Machine.
  13. ^ 1916-1936 Archived 2008-08-21 at the Wayback Machine.
  14. ^ Narasimham, M. L. (2011年9月10日). “Eighty glorious years of Telugu talkie”. The Hindu (Chennai, India). オリジナルの2013年11月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131104073753/http://www.thehindu.com/features/cinema/article2442172.ece 
  15. ^ “Metro Plus Chennai / Madras Miscellany : The pioneer‘Tamil' film-maker”. The Hindu (Chennai, India). (2009年9月7日). オリジナルの2009年11月12日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090912035730/http://www.hindu.com/mp/2009/09/07/stories/2009090750790300.htm 2011年6月29日閲覧。 
  16. ^ Velayutham, Selvaraj (2008). Tamil cinema: the cultural politics of India's other film industry. p. 2. ISBN 9780415396806. https://books.google.com/?id=65Aqrna4o5oC&printsec=frontcover&dq=Tamil+cinema+industry#v=onepage&q&f=false 
  17. ^ a b “Reliving the reel and the real”. The Hindu (Chennai, India). (2007年1月19日). オリジナルの2007年5月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070501115359/http://www.hindu.com/thehindu/fr/2007/01/19/stories/2007011901020100.htm 
  18. ^ First film to talk in Kannada”. The Hindu. 2005年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月20日閲覧。
  19. ^ CineGoer.com - Articles - History Of Birth And Growth Of Telugu Cinema Archived 2012-02-18 at the Wayback Machine.
  20. ^ a b c d Devdas, Vijay (2006年). “Rethinking Transnational Cinema: The Case of Tamil Cinema”. Scenes of Cinema. 2008年12月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年12月13日閲覧。
  21. ^ Sarah, Dickey (1993). "The Politics of Adulation: Cinema and the Production of Politicians in South India". The Journal of Asian Studies 52 (2): 340–372.
  22. ^ Hardgrave, Jr, Robert L (March 1973). "Politics and the Film in Tamilnadu: The Stars and the DMK". Asian Survey (JSTOR) 13 (3): 288–305