千駄木

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千駄木(せんだぎ)は、東京都文京区町名[1]。現行行政地名は千駄木一丁目から千駄木五丁目。郵便番号は113-0022。

地理

日本医科大学1910年3月に私立東京医学校を合併し、10月、私立東京医学校跡地(現・千駄木校舎)に移転。谷根千とひと括りに呼ばれる谷中根津と千駄木は、下町情緒あふれる地域として知られる。しかし厳密には、江戸時代の区分では谷中、根津、千駄木はそれぞれ谷中村由来の寺町(と農村)、根津神社の門前町、駒込村由来の(下級)武家町であるので、「下町」ではなかった。特に千駄木は東京大学が近く、川端康成北原白秋高村光太郎夏目漱石森鴎外など多くの文人が居を構え、地形的にも高台付近は本郷台地の端であるため、本来の「山の手」に含まれる。第68・69代内閣総理大臣大平正芳の邸宅も現・千駄木二丁目にあった。千駄木三丁目は、林町と呼ばれる。五代目古今亭志ん生1945から1951年まで千駄木に住んでいた。天外天の総料理長・中川優は赤坂四川飯店で11年(内5年間は料理長)活躍した後、この地で独立した。

地価

住宅地の地価は、2015年平成27年)1月1日公示地価によれば、千駄木3-10-27の地点で84万2000円/m2となっている。

歴史

古くは駒込村の一部で、名前の由来は、雑木林で薪などを伐採、その数が千駄にも及んだからという説や、室町時代の武将・太田道灌センダン(栴檀)の木を植えた地であり、この栴檀木が転訛したとの説があるが、柳田國男は『母の手毬歌』の中で、雨乞いの儀式「千駄焚き」(センダキと発音する地域が多い)と関連付けている。江戸時代の古地図の下駒込村内に「上野東漸院持ち駒込千駄木御林」・「上野寒松院持ち駒込千駄木御林」の記載がある。旗本小笠原順三郎邸など、かつて坂上に徳川家康に仕えた武家の屋敷があり、お屋敷街となる。1745年に町奉行支配となった町名に駒込千駄木町・駒込千駄木坂下町・駒込千駄木下町の名がある。千駄木坂下町の小笠原邸跡には、明治初期に旧豊後府内藩主だった大給家(元・松平家)が屋敷を移したことから、「大給坂」と名付けられた[2]

1965年4月1日住居表示実施。駒込林町・駒込坂下町の大部分に駒込千駄木・駒込動坂町の各一部をあわせた町域を1-5丁目に分けて現行の「千駄木」となった。

交通

史跡等

  • 太田摂津守の屋敷跡 千駄木ふれあいの杜(屋敷森)。平成13年10月に開設された市民緑地。地元住民で構成する「千駄木の森を考える会」が区と協定で維持管理を、そして自然観察会といったイベントの企画・運営を行っている。
  • 旧安田楠雄邸。安田楠雄は、安田財閥の創始者・安田善次郎の孫にあたる。千駄木五丁目のお屋敷町にある。

施設

脚注

  1. ^ 『角川日本地名大辞典 13 東京都』、角川書店1991年再版、P990-991。
  2. ^ 大給子爵家こぼればなし鵠沼を語る会

関連項目

外部リンク