千葉貞胤

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千葉貞胤
時代 鎌倉幕府後期 - 南北朝時代
生誕 正応4年[1]12月15日1292年1月6日
死没 正平6年/観応2年1月1日[1]1351年1月28日
別名 千葉介[1]
官位 従四位[1]
幕府 鎌倉幕府室町幕府
下総伊賀両国守護職[1]
主君 将軍守邦親王得宗北条貞時高時
後醍醐天皇足利尊氏
氏族 千葉氏
父母 父:千葉胤宗、母:北条顕時の娘
曾谷教信の姪
一胤氏胤
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千葉 貞胤(ちば さだたね)は、鎌倉幕府末期から南北朝時代武将千葉氏の第11代当主。第10代当主・千葉胤宗の子。

生涯

北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第9代執権北条貞時より偏諱を受けて貞胤と名乗る[2]

正和元年(1312年)、家督を継いで当主となり[1]伊賀下総守護職を継承した。元弘元年/元徳3年(1331年)9月、後醍醐天皇挙兵討伐のため在元弘の乱では鎌倉幕府方の北条貞直軍に属して楠木正成が守る河内下赤坂城攻めで功を挙げ[1]たが、元弘3年/正慶2年(1333年新田義貞が幕府に反旗を翻して鎌倉を攻めると義貞に与し[1]武蔵国鶴見川付近で鎌倉街道下道を北上する北条貞将(貞胤の従弟にあたる)を破った。

建武政権成立後は宮方につき、北朝方についた嫡流の従兄・胤貞と千葉氏の家督を争った。建武2年(1335年)には胤貞と相馬親胤に本拠の千葉荘を攻められるが、胤貞と親胤は同年11月足利尊氏の檄文に拠って上洛したため、下総での戦いは貞胤有利となり胤貞の本拠千田荘の土橋城を攻め落とす。

その後も貞胤は新田義貞の軍に属し足利軍と戦うが、建武3年(1336年1月16日には丹波国志賀郷にて嫡男の一胤を足利軍の細川定禅に討ち取られる。さらに、義貞軍は一時は足利軍を九州に追いやるものの、再起を果たし反撃した足利軍に攻め込まれ貞胤も恒良親王を擁しての北国落ちに従う。

そして、延元元年/建武3年(1336年)10月に吹雪の越前国木芽峠で義貞軍とはぐれて道に迷い、やむなく足利方(斯波高経)に降伏した[1]。だが、その直後11月19日に従兄の胤貞が急死したため貞胤は北朝方に寝返って下総守護を安堵された。その後は北朝方につき京と下総を往復するが、上洛していた正平3年/貞和4年(1348年)8月には、四條畷楠木正成楠木正行と戦い戦功を挙げた[1]

正平6年/観応2年(1351年)1月1日、61歳で京にて死去[1]。次男の氏胤が家督を継いだ。

参考文献

外部リンク

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k 安田、1990年、p.389。
  2. ^ 得宗家は本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、烏帽子親関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており、地域棟梁格の有力御家人であった千葉氏(菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』汲古書院、2011年)もその統制下にあった。その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が将軍から得宗家へ移行したという見解も示されており(角田朋彦 「偏諱の話」(『段かづら』三・四、2004年) および 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.163)、→詳細は北条氏#北条氏による一字付与についてを参照)、泰胤北条泰時頼胤北条時頼宗胤胤宗兄弟が北条時宗胤貞貞胤北条貞時高胤北条高時から一字を拝領したと考えられる(以上、紺戸論文(『中央史学』二、1979年、p.15系図・p.18)より)。以上、千葉氏当主が北条氏と烏帽子親子関係を結んだ旨は、服部英雄 「中世小城の景観・海から考える」(→PDF版)に明確に示されている。