十刹

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十刹(じっせつ、じっさつ)は、五山制度に基づく寺格の一つである。五山に次ぎ、諸山の上に位置する。日本では臨済宗の寺格をいう。

概要

元来は南宋寧宗の頃にインドの五精舎塔所の故事に倣って「五山」とともに「十刹」を定めて保護を与えたのが由来と言われている[1]

日本では、建武の新政の段階で既に南禅寺浄妙寺(両寺は後に五山に昇格)、豊後国万寿寺が「十刹」に指定されていたことが明らかとされており、「十刹」成立を鎌倉時代末期とするのが通説とされている[1]

室町幕府によって「天下十刹」が定められたものの、その時々に応じて入る寺院や順位などが変動した。至徳3年7月10日(1386年)に五山制度の改革にあわせて十刹制度の改革を行って、「京都十刹」と「関東十刹(鎌倉十刹)」に分けられて京都関東鎌倉以外の寺院も含む)がそれぞれ10ヶ寺ずつ定められた[1]。だが、地方の寺院は「天下十刹」に入っていたものでも結果的にその資格を取り上げられたためにこれに強く反発し、後に枠外として「十刹」に追加される寺院も現れた。そのため、明応元年(1490年)には46ヶ寺、更に後には60ヶ寺まで増加することになった。

天下十刹

暦応4年8月23日(1341年)

暦応4年8月23日(1341年)の十刹は以下の通りである[1]

延文3年9月2日頃(1358年)

延文3年9月2日頃(1358年)の十刹は以下の通りである[1]

康暦2年1月26日頃(1380年)

康暦2年1月26日頃(1380年)の十刹は以下の通りである。この時、十刹に加えて準十刹6ヶ寺が定められた[1]

準十刹

至徳3年7月10日頃(1386年)

至徳3年7月10日頃(1386年)の十刹は以下の通りである。この時、京都十刹及び鎌倉十刹が定められた[1]

京都十刹

関東十刹

文明末年(1486年)

文明末年(1486年)の十刹は以下の46ヶ寺である[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 今枝愛真、「禅宗の官寺機構-五山十刹諸山の国別分布について」 『日本學士院紀要』 1961年 19巻 3号 p.89-122, doi:10.2183/tja1948.19.89

参考文献

  • 玉村竹二 『扶桑五山記』- 鎌倉市教育委員会(1963年)
  • 竹貫元勝「京都の禅寺散歩」雄山閣(1994年)ISBN 4-639-01245-4
  • 竹貫元勝「鎌倉の禅寺散歩」慶友社(2001年)ISBN 4-87449-230-4
  • 今枝愛真「禅宗の歴史」吉川弘文館(2013年)ISBN 978-4-642-06388-3