医師ガシェの肖像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。K-iczn (会話 | 投稿記録) による 2016年2月28日 (日) 03:37個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎top)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

『医師ガシェの肖像(第1バージョン)』
オランダ語: Portret van Dr. Gachet
作者フィンセント・ファン・ゴッホ (F753, JH2007)
製作年1890年6月
種類油彩、キャンバス
寸法67 cm × 56 cm (26 in × 22 in)
所蔵個人蔵
『医師ガシェの肖像(第2バージョン)』
オランダ語: Portret van Dr. Gachet
作者フィンセント・ファン・ゴッホ (F754, JH2014)
製作年1890年6月
種類油彩、キャンバス
寸法67 cm × 56 cm (26 in × 22 in)
所蔵オルセー美術館、パリ

医師ガシェの肖像』(いしガシェのしょうぞう)は、1890年6月、死の1か月余り前にフィンセント・ファン・ゴッホによって描かれた絵画。油彩。同名の作品は本項で述べる油彩画2点とエッチング(ナショナル・ギャラリーワシントンD.C.)1点がある。「ガシェ博士の肖像」と表記されることもある。

この絵の背景

ドラクロワ、『フェラーラの聖アンナ病院のタッソ』

ゴッホはこの頃、精神病院に幽閉されたトルクァート・タッソを描いたウジェーヌ・ドラクロワの絵のことを考えていた。ポール・ゴーギャンとのモンペリエのファーブル美術館訪問の後、ゴッホは弟テオドルス・ファン・ゴッホ(テオ)にこの絵のリトグラフが手に入らないか書き送っている[1]。3か月半前、彼はこの絵のことを、彼の描きたい肖像画の例として考えている。「しかし、ドラクロワが試みて描きあげた牢屋のタッソの方がより調和に満ちている。他の多くの絵と同様、本当の人間を表現しているのだ。ああ、肖像画! 思想のある肖像画、その中にあるモデルの魂、それこそ実現しなければならないものだと思う。」[2]

ポール・ガシェについて

モデルとなったポール・ガシェ(1828年 - 1909年)は、フランスパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズ在住の精神科医であった。彼は週に数度パリで診察を行っていたが、1890年3月に初めてゴッホの診察をし、健康回復のために彼をオーヴェールに招いた。5月、オーヴェールに着いたゴッホはガシェとその一家と親しくなり、再び創作意欲がよみがえって村の風景や村人たちを描き、ガシェ自身もモデルとなった。7月末に自殺を図ったと思われる大怪我を負って死去するまでの2か月間、ゴッホはこの村で80点ほどの作品を残している。

ガシェは絵画愛好家であり、ポール・セザンヌカミーユ・ピサロらの友人であり、自らも絵画を描いていた。ガシェの筆による「死の床のファン・ゴッホ」(パリ・オルセー美術館蔵)という作品が残されている。一方ガシェ自身にも憂鬱質の気があり、これらゴッホによる肖像にもそれが反映されている。

それぞれのバージョン

第1バージョンの作品

最初のバージョンは弟テオの未亡人ヨハンナ(ヨー)が1897年にデンマーク人コレクターに300フランで売った。その後、画商パウル・カッシーラー1904年に、ハリー・ケスラー英語版に同1904年に、さらにドリュエ(Druet)に1910年に売られた。1911年フランクフルト・アム・マインシュテーデル美術館が取得し1933年までコレクションとして公開されていた。

1933年、ナチスの政権獲得と退廃芸術糾弾によりこの絵は隠し部屋に仕舞われたが、1937年に退廃芸術狩りを行う宣伝省によって没収された。集められた膨大な印象派や表現主義絵画の中から、ヘルマン・ゲーリングは個人用にこの絵を含む数枚を持ち帰り、すぐにアムステルダムの画商に売った。画商はこれをコレクターのジークフリート・クラマルスキー(Siegfried Kramarsky)に売ったが、彼はナチスを逃れニューヨークへ渡り、この絵はメトロポリタン美術館に寄託され展示されていた。

所有者のクラマルスキー家は、この絵をメトロポリタン美術館から引き上げ、最終的にオークションにかけることに決めた。1990年5月15日にニューヨークのクリスティーズでの競売で、当時史上最高落札額の8250万ドル(当時のレートで約124億5000万円)で、大昭和製紙名誉会長の齊藤了英に競り落とされた。

ゴッホの残した肖像画の中でも傑作の一つに数えられるが、この高額落札によってさらに有名な作品となった(齊藤は数日後にルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」も7810万ドルで落札している)。これらの作品については斎藤の「自分が死んだら棺桶にいれて焼いてくれ」という発言が報道され[3]、世界中から批判された。斎藤は後にこの発言を「この絵に対する情熱を表現した言葉のあや」と釈明し、死後は日本政府か美術館に寄付すると説明した。だが斎藤の購入後からは一般公開されることなく、寄付されることもなかった。斎藤の死後、この絵は担保にされひそかに売却されたといわれ行方不明となった。

その後明らかになったところによれば、1997年に斎藤家より売却を受けたサザビーズが非公開でオーストリア出身のアメリカのヘッジファンド投資家ウォルフガング・フロットルに(一説に9000万ドルで)売却したが、2007年1月、フロットルが円取引失敗によって10億ドル以上の負債を出す破産をし、サザビーズがこの絵を引き取ったことで所在が明らかになった[4]

第2バージョンの作品

最初の作品をゴッホが複製したものといわれる。この作品はゴッホからガシェ本人に贈られており、ガシェの遺族から他のポスト印象派絵画コレクションとともにフランス政府に寄付された。現在はオルセー美術館に収蔵されている。

脚注

  1. ^ http://webexhibits.org/vangogh/letter/18/564.htm
  2. ^ http://webexhibits.org/vangogh/letter/18/531.htm
  3. ^ 1991年5月1日日本経済新聞
  4. ^ 瀬木慎一「破産で再登場した「ガシェ」- 正常と思えぬ名画取引」 - 2007年3月14日朝日新聞