北畠顕家

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北畠顕家
北畠顕家(霊山神社蔵)
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 文保2年3月2日1318年4月3日
死没 延元3年/建武5年5月22日1338年6月10日
神号 北畠顕家命
戒名 長興寺道音[要出典]
墓所 大阪市阿倍野区王子町の北畠公園
大阪市阿倍野区北畠阿部野神社
福島県伊達市大石の霊山神社
官位 建武政権従二位右衛門督検非違使別当権中納言鎮守府大将軍
南朝権中納言[1]陸奥大介[1]鎮守府大将軍[1]従一位右大臣
主君 後醍醐天皇→義良親王(後の後村上天皇
氏族 北畠家
父母 父:北畠親房、母:不明[注釈 1]
兄弟 顕家顕信顕能唐橋顕雄顕子冷泉持定
日野資朝娘(萩の局?[注釈 2])、松代の方
北畠顕成北畠師顕、女子(安東貞季室)、村上師清
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北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代南朝公卿武将。『神皇正統記』を著した准三后北畠親房長男。主著に『北畠顕家上奏文』。南朝従二位権中納言陸奥大介鎮守府大将軍従一位右大臣

後醍醐天皇側近「後の三房」のひとり北畠親房の子として、前例のない数え14歳(満12歳)で参議に任じられて公卿に登り、建武の新政では、鎮守府大将軍として義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国に下向した(陸奥将軍府)。のち足利尊氏との戦い建武の乱が起こると、西上し、第一次京都合戦新田義貞楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝の内乱が開始するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。青野原の戦いで幕将土岐頼遠を破るが、義貞との連携に失敗し直進を遮られたため、転進。伊勢経由で迂回して大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、石津の戦いで奮戦の末に幕府執事高師直の軍に討ち取られて戦死した。享年数え21歳(満20歳)。

政治思想家としても父と類似の才覚を持ち、戦死の一週間前に後醍醐天皇への諫言として著した『北畠顕家上奏文』は、美文かつ歴史的価値の高い史料とされている。後醍醐天皇の御前で、眉目秀麗な北斉の皇族武将高長恭に扮して『陵王』を舞ったなどの芸能関係の逸話もある。

年少の公家であるにもかかわらず、顕家の第一回遠征軍が強かった理由の一つとして、日本史研究者の亀田俊和は、後醍醐天皇の優れた政策と、後醍醐がその奥州での権限を顕家に委ねた影響が大きかったのではないか、と推測している。後醍醐は雑訴決断所施行牒というものを推進し、恩賞(領土)を与える指示に強制執行能力を付加することで、弱者の保護を図った。顕家は奥州においてこの権限を託され、第一回遠征軍の前では、その施行システムによって武家からの求心力を集めることができた。ところが、第二回遠征軍の前では奥州でこの制度が行われなかったため、弱体化してしまった。その一方で、室町幕府執事の高師直は、後醍醐の施行システムをさらに洗練させた執事施行状というものを多く発給したため、武家からの求心力で差が付いてしまったでのはないか、という。

死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。

生涯

幼少期

文保2年(1318年3月2日[注釈 3][2]北畠親房の長男として生まれた。父の親房は後の「三房」の1人として後醍醐天皇に近侍した人物である。

元応3年(1321年)1月、顕家は3歳で叙爵されたのち、さまざまな官職を歴任し、元弘2年/正慶元年(1332年)12歳までに従三位参議左近衛中将となった[2]。14歳で参議はほかに先例がなく、中原師守の日記『師守記』では「幼年人、参議に任ずる例」として、康元2年(1257年)11月に15歳で参議となった四条隆顕ともに記されている。

元弘元年(1331年)3月、後醍醐天皇が西園寺公宗の北山第に行幸した際、顕家もこれに供し、「陵王」を舞った[2]。『増鏡』では、このとき帝も笛を吹き、顕家が舞い終えたのち、前関白である二条道平が自身の紅梅の上着、二藍の衣を褒美として与えたという[注釈 4]

このように、顕家は史上最年少で参議に任じられるなど先例のない昇進を示し、父親房同様に順調に出世をしていった[注釈 5]。これは顕家の才覚が幼少期から人々に認められていたからこそであろうと考えられる。

陸奥への下向と統治

後醍醐天皇像(清浄光寺蔵)

元弘3年/正慶2年(1333年)5月、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしたのち、顕家は親房とともに開始された建武の新政を補佐していた[4][2]。同年8月5日、顕家は従三位陸奥守となる[5][6][2]

10月10日正三位に叙任され[7]、10月20日後醍醐天皇の皇子である義良親王(のちの後村上天皇)を奉じ、父とともに陸奥へ下向した[8][2]。11月29日、陸奥国の多賀城宮城県多賀城市)に到着し、東北地方の統治を始める[9][2]

建武元年(1334年)8月、顕家は津軽における北条氏残党の追討を開始[10]、11月19日までにこれを滅ぼし、12月17日には津軽平定の功績によって従二位に叙任された[11][2][6]

建武2年(1335年)11月12日、鎮守府将軍[注釈 6]に任ぜられる[12]。それに先んじて、7月には東国では北条氏残党による中先代の乱が勃発していたが、8月までに足利尊氏が乱を平定していた[6][2]。同月30日、尊氏は斯波家長を奥州管領とした[13] が、これは明らかに顕家を牽制するものであった[2]

京への進撃と足利尊氏との戦い

北畠顕家卿肖像(萩生天泉画、霊山神社蔵)

その後、11月に朝廷は尊氏の追討を宣し、新田義貞を総大将とする軍勢を鎌倉へと派遣したが、12月まで足利方に破られた[6][2]。尊氏は義貞を追撃し、京へと迫る勢いであった。

12月22日、顕家は義良親王を奉じ奥州の兵を引き連れ、尊氏軍を追って上京を開始する[14][6]。軍記物『太平記』は、その兵数は5万と描写している。

翌建武3年(1336年)1月2日、顕家軍は鎌倉を攻め、足利義詮桃井直常の軍勢を破り、鎌倉を占領した[2]。翌日、佐竹貞義が顕家の追撃に向かったため、顕家は鎌倉を出て進撃を開始した。その後、1月6日には遠江に到着し、12日に近江愛知川に到着した[2]

なお、顕家の軍勢はこのとき、1日に平均40km弱も移動して600kmに及ぶ長距離を僅か半月で駆けており、その後も渡渉などが続く中1日30kmのペースを維持している。これは後の羽柴秀吉中国大返しを遥かに越える日本屈指の強行軍である。

その後、顕家軍は琵琶湖を一日かけて渡り、翌13日に坂本で新田義貞・楠木正成と合流し、顕家は彼らと軍議を開いた[15]。なお、顕家は坂本の行宮に伺候し、後醍醐帝に謁見した[2]

1月16日、顕家と義貞の連合軍は園城寺を攻め、足利方の軍勢を破り、軍を率いていた細川定禅は逃げた。さらには高師直と関山で戦闘した[16][2]。その後も戦闘は続いたが、1月27日から30日の戦いで義貞・正成とともに尊氏を破り、京から退去させることに成功する[2]

2月4日、顕家は右衛門督検非違使別当に任じられ、さらには翌5日には「大将軍」の号を賜わり、「鎮守府大将軍」となった[17][6][2]。同日に顕家は義貞とともに尊氏・直義を追討するため京都を出撃した[2]

2月10日から11日にかけて再度の入京を目指す尊氏を摂津国豊島河原で破り、尊氏は九州へと落ち延びた(豊島河原合戦)。その後、顕家は義貞とともに足利軍を追撃し、各地を転戦したのち、2月14日に京へと凱旋した[2]

陸奥への帰還

3月2日、顕家は権中納言に任官し[18]、3月20日あるいは24日に足利方を掃討するため再び奥州へ戻る[2]。その帰途、相模で足利方の斯波家長の妨害を受けるが、4月にはこれを破っている[19][2]

5月、顕家は相馬氏を破り、奥州へと帰還した[20][2]。この間、顕家と共闘した義貞・正成が九州から北上した尊氏に湊川で敗れ(湊川の戦い)、正成は命を落とし、義貞は後醍醐帝らとともに比叡山へと逃げた。

同年9月、武蔵国児玉郡浅見山(別名、大久保山)周辺域(現埼玉県本庄市から児玉町一帯)で、薊山合戦を起こす。『元弘日記』によれば、この戦は官軍が皆有利とある。

霊山出発と鎌倉攻略

北畠親房(『前賢故実』より)

延元2年/建武4年(1337年)1月、父の北畠親房から伊勢へ来援する文書が送られた[2]。同月8日、顕家は国府を霊山福島県相馬市および伊達市)の霊山城に移した[21][6][2]

同じ頃、後醍醐天皇からも前年12月に送られた京都奪還の綸旨が届き[22]、勅命を受けた顕家は25日に奉答書を送った[23][2]。その中で顕家は、「霊山城が敵に囲まれており、なおかつ奥州が安定してないので、すぐに上洛はできない。脇屋義助と連絡を取り合っている」と返答している。

8月11日、顕家は義良親王を奉じて霊山城を発ち、上洛するために再び南下した[24][6][2]。軍記物『太平記』では、このときの軍勢は奥州54郡から招集され、その兵数は10万余騎であったと描かれた。

8月19日、顕家軍は白河関を越えて下野に入ると伊達行朝中村経長の軍を中心に、12月8日には足利方の小山城を陥落させ、小山朝郷を捕えた[6][2]。顕家は足利方の大軍を、12月13日に利根川で(利根川の戦い)、12月16日に安保原でそれぞれ破った(安保原の戦い[25][2]。遂には北朝方にいた宇都宮公綱も顕家軍に加わった。

12月23日、顕家率いる軍勢は鎌倉を攻撃、翌24日までにこれを攻略した[26][2][6]。この際、斯波家長は討ち取られ、足利義詮・上杉憲顕・桃井直常・高重茂らは鎌倉を捨てて房総方面に脱出した[27][6]。鎌倉を陥落させた顕家軍には新田義貞の息子新田義興、さらには北条時行が合流するなど勝ちに乗じて膨れ上がった。『太平記』の物語では、関東一円から顕家のもとに軍事が馳せ参じ、その数は50万に上ったと描かれているが、これは誇張であると考えられる。いずれにせよ、顕家の軍勢は大軍であったことには変わりなく、顕家は勢いに乗じて鎌倉から西上を開始する。

『太平記』の物語では、顕家の軍は徹底的な略奪を行いながら行軍し、顕家軍が通った後には人家どころか草木も残らなかったと描かれている。同物語では、これらの行動を恥知らずの夷の軍勢であるから、と批判的に描写されている。霊山包囲などの苦境からの出撃により物資が絶対的に不足していたという事情が反映されたと伺われる。

新田義貞との連携失敗

新田義貞(藤島神社蔵)

延元3年/暦応元年(1338年) 1月2日に顕家は鎌倉を出発し[28][6]、1月12日に遠江国橋本に[29]、1月21日に尾張国に到着し、翌日に黒田宿へと入った[2]

対する足利方は守護らをかき集めた軍勢を組織し対抗したが、1月28日までに顕家はこれを美濃国青野原の戦い(現、岐阜県大垣市)で徹底的に打ち破る[30][2]。一時は総大将の土岐頼遠が行方不明になるほどの大損害を敵に与えたが、この戦いによる兵力の減少や疲弊により京攻略を諦め、2月には伊勢に後退した[31][2]

『太平記』の物語では、顕家が伊勢ではなく越前に向かい義貞と合流すれば勝機はあった、越前に合流しなかったのは、顕家が義貞に手柄を取られてしまうことを嫌がったからだと描かれている[32]

佐藤進一は、顕家とその父親房ともに貴族意識が強く、武士に否定的であったため義貞と合流することを嫌ったからだ、としている[33]。また、この時北畠軍の中にいた北条時行にとって義貞は一族の仇であり、彼が合流に強く反対したため合流が果たせなかったと解釈した[34]

佐藤進一の見解について、奥富敬之は北畠軍には義貞の次男義興もいたことから、北条時行に義貞への敵意、怨嗟はなく、時行が反対したとは考えられないと反論している。また『太平記』の描写については、顕家は義貞に手柄を取られることを嫌がって進軍の段取りを変えるような人物ではなく、さらに顕家は義貞よりも官職が高いことから、手柄を取られるなどとそもそも考えるはずがないとして、明らかに誤りであると指摘している[35]

義貞と顕家に対立があったかどうかについては、史料からは明確に読み取れない[36]。また、越前へ向かう行程は難路であり、峰岸純夫は、その行程の困難さから越前に向かう選択肢は考えられないと指摘する[37]。奥富は、佐藤和彦の見解を「正鵠にかなり迫っている」と評した上で、顕家は、わざと寄り道をして、足利の注意を引き付けると同時に、義貞が挙兵する時間稼ぎをしたのではないかという見解を示している[38]

一方、峰岸はむしろ合流を拒んだのは義貞の方で、義貞と北畠親子の間にはやはり何らかの確執があり、両者は不信関係にあったのではないかと推測している[39]。さらには、義貞がいる越前は未だ安定しておらず、義貞は上洛よりも越前の制圧、平定を重視していたとも考えられる[40]。この当時、足利側の攻勢は激しく、連帯感も取れていた。そのため、義貞も顕家も、目の前の敵の相手をするのが精一杯であり、互いに共同戦線を展開できるほどの余裕は残されていなかったとも指摘される[41]佐藤和彦は、北畠親房は伊勢に勢力を持っており、勝利したとはいえ疲弊していた顕家は伊勢にある北畠氏と関連の深い諸豪族を頼るため伊勢に向かったと推測した[42]

畿内における戦い

足利尊氏像( 浄土寺蔵)

2月4日、尊氏の命により、高師泰師冬細川頼春佐々木氏頼高氏らが顕家軍討伐のため京を進撃した。2月14日および16日、顕家は北朝軍と伊勢国雲出川及び櫛田川で戦ったが、決着はつかなかった[2]

2月21日、顕家は辰市及び三条口に戦って大和を占領するが、28日に般若坂の戦いで激戦の末に北朝方の桃井直常に敗れた[43][2]。そのため、顕家は義良親王を秘かに吉野へ送った。

一方、河内国に退いた顕家は、伊達行朝田村輝定らとともに戦力再建を図った。顕家は摂津国天王寺に軍を集結、3月8日に天王寺の戦いで勝利した[44][2]

だが、3月13日に奥州軍は朝方と再び天王寺、阿倍野及び河内片野(片埜・古名、交野とも)で戦い、翌14日に天王寺で敗れた。3月15日に顕家軍は渡辺の戦いで勝利したものの、翌16日に阿倍野で戦い敗れ、和泉国に転戦した[2][2]。3月21日、軍を立て直した高師直はこれを追撃し南へと向かった[2]

3月22日、南朝は九州の阿蘇惟時に出兵を要請し、顕家を救援するように命じている[2]。だが、惟時は出兵せず、4月27日に南朝は惟時に再度出兵を命じている[2]

5月6日、奥州軍は和泉堺浦の町屋を焼き、5月8日には和泉坂本郷並びに観音寺に城槨を構え[2][2]、翌9日には奥州軍は熊取、佐野、長滝の各地に進撃し、北朝方の細川顕氏日根野盛治田代基綱ら現地の北朝方勢力と交戦を続けた[2][2]

この間、5月10日 に顕家は東国経営の上奏文を草した[2]。5月15日には再び後醍醐天皇に諫奏文を上奏した(『北畠顕家上奏文』)[2]

最期

顕家軍は和泉で奮戦していたが、これに対して顕家討伐に向かった高師直は、5月16日に天王寺から堺浦に向かって出撃した。

5月22日、堺浦で両軍は激突した(石津の戦い[2][2]。顕家軍は善戦したものの連戦の疲労に加えて、北朝方についた瀬戸内海水軍の支援攻撃を受けて苦境に立たされる。そのうえ、予定していた味方の援軍到着遅延も相まって、この戦いでは劣勢に回り全軍は潰走した。

その後、顕家は共廻り等二百騎とともに石津で北朝方に包囲された。残り少ない顕家軍は決死の戦いを挑み尚も奮戦したが、顕家は落馬し、ついに討ち取られた。享年21。顕家の他、彼に随行していた名和義高南部師行らも戦死した。

死後

顕家の死によって南朝は、同年閏7月の義貞の死と相まって大打撃を受けた。その一方で、北朝方の室町幕府は中央のみならず顕家の根拠地であった奥州においても有利な戦いを進めていく事になった。

顕家の死後、6月21日に日野資朝の娘である妻は河内国歓心寺で尼となり、その菩提を弔い続けた。閏7月26日に弟の北畠顕信は南朝方によって鎮守府将軍に任命され、9月に伊勢国司北畠顕能を残し、義良親王を奉じて親房らとともに陸奥へ向かった。だが、船団はその途中に暴風雨に巻き込まれ、顕信は義良親王とともに伊勢へ戻ったが、親房は常陸にたどり着き、北朝方と戦った(常陸合戦)。しかし、興国4年/康永2年(1343年)11月、親房は常陸を捨て吉野へと向かった。

一方、伊勢に戻った顕信は翌年に再び陸奥へと向かい、顕家が拠点としていた霊山城を中心に活動した。だが、正平2年/貞和3年(1347年)霊山城が落城するなど、南朝勢力は次第に逼迫していく。観応の擾乱によって起こった北朝側奥州管領の対立に乗じて多賀国府を一時占拠するものの翌年には奪い回され、南朝勢力の回復には至らなかった。

嫡男である顕成は、顕家の子ということもあって南朝からは相当厚遇されたとされるが、出家して『太平記』の一部を執筆・校閲をしたとも、奥州にとどまり浪岡北畠氏の祖となった[注釈 7]とも、九州に下向して懐良親王に従軍したとも[45]され、事跡が明確でない。一方、次男である師顕の系統は時岡氏となったという。

文化14年(1817年)、松平定信が顕家の慰霊するために霊山に霊山碑を建てた。

顕家が祀られている阿部野神社

明治維新後、顕家の父親房が著した『神皇正統記』を先駆とする皇国史観が「正統な歴史観」として確立していくと、南朝に忠誠を尽くしてきた顕家、新田義貞、楠木正成らが再評価されるようになる。1868年明治元年)、米沢藩の儒者・中山雪堂と医師・西尾元詢が顕家らの英霊を祀る神社の創立の運動を起こし、1876年(明治9年)の明治天皇の東北巡幸を機会として、陸奥国府があったことにより建武の新政にゆかりのある霊山が選定、1880年(明治13年)6月に霊山の西方山麓に霊山神社が造営された。1885年(明治18年)にこれは別格官幣社に列せられ、建武中興十五社の一つとなった。

また、明治8年(1875年)に阿倍野に顕家を祀る祠が地元の人々によって建てられた。これは明治14年1881年)11月16日に顕家と親房の二人を祭神とする別格官幣社となり、建武中興十五社の一つ阿部野神社となった。

これとは別に、江戸時代に北畠の末裔なる鈴木家次なる人物が、顕家、親房、顕信をともに伊勢多気の祠に祭り、これはのちに北畠八幡宮となった。明治14年に北畠八幡宮は村社北畠神社となり、昭和3年11月10日に別格官幣社に昇格した。こちらは顕信を主祭神とし、顕家は配祀となっている。

人物・逸話

概要

北畠顕家像(阿部野神社境内)

顕家は凛々しい美青年であったと後世に伝わるが、これは脚色された部分が強いだろうとされる。顕家の容姿に関する当時の記録では、『舞御覧記』の元弘元年に顕家が後醍醐帝の北山第行幸に供して陵王を舞った際の記録がある。これには顕家の容姿に関して、「形もいたいけして、けなりげに見え給いに(幼くてかわいらしく、態度は堂々としている)」とある。

とはいえ、顕家は文武両道ともに優れた人物である。公家でありながらも武将として、足利尊氏といった当時の武家らと互角に渡り合えるほどの卓越した手腕と戦略眼を持ち合わせていた。また、若年ながらも奥州の結城・伊達といった諸勢力を従わせるほどの政治手腕も持ち合わせた。顕家は南朝軍総大将の新田義貞と同様に後醍醐天皇から期待された存在であった。

また、戦国時代の大名武田信玄よりも先に「風林火山」の旗印を用いたとされる[要出典]

後醍醐の施行システムの貢献

北畠顕家が年少の公家であるにもかかわらず、その第一回遠征軍が強かった理由として、日本史研究者の亀田俊和は、後醍醐天皇が「恩賞充行」(おんしょうあておこない/おんしょうあてがい)というものの権限を顕家に与え、さらに「施行状」(しぎょうじょう)という後醍醐が採択した優れた統治システムを、顕家にも独自に行わせたのが、理由の一つではないか、と推測している。

恩賞充行とは、この時代では大雑把に言えば、褒美として部下に領土を与えることである。恩賞充行権は強大な権限であるために、誰もが自由に振るうのを許された訳ではなかった[46]室町幕府では、将軍のほかは鎌倉公方足利氏九州探題一色氏南朝では天皇のほかは征西大将軍懐良親王、そして陸奥鎮守府の北畠家のみである[46]

奥州で恩賞充行権が行使された事例として、後醍醐自身による行使もしくはそれに準じた例は5件しかない[47]。その5件も、将軍である顕家自身に対するものか、あるいは後醍醐の寵臣「三木一草」の一人である結城親光の氏の白川結城氏に対するものという特殊なケースである[47]。すなわち、建武政権は恩賞問題の点から見れば、奥州以外の全てを統括する後醍醐と、奥州を統括する顕家に二分されるという構図になっており、後醍醐がいかに大きな権限を顕家に託していたかがわかる[47]

ところで、鎌倉時代には、恩賞(所領)を得た場合、それは権利を得ただけで、基本的に本人が自助努力で実効支配する必要があった[48]。そのため、弱小な勢力では、大きな勢力がその土地を不法占拠していた場合、泣き寝入りせざるを得ない場合があった。後醍醐天皇は建武政権雑訴決断所という訴訟機関を作ったのち、施行牒(しぎょうちょう)というものを出し、所領の明け渡しについて地方機関が強制執行を行う権限をもたせ、弱者の保護を図った[49]。後醍醐はまた、顕家にも、施行牒と同じ施行状というものを、陸奥将軍府から独自に発給する権限を持たせた[50]

その後、顕家は「袖判下文」という形式の文書で、恩賞を充行っていた[51]。これは武家である北条氏足利氏の袖判下文を踏襲したものと見なすことができる[51]。ところが、建武2年(1335年)7月を境に、顕家は「袖判陸奥国宣」という公家の文書形式で恩賞を充行うようになる[51]。形式が切り替わった理由について、亀田は、史料が少なく憶測になってしまうが、としつつも、この時期に始まった北条時行中先代の乱で奥州の北条氏反乱も勢い付き、陸奥将軍府の侍所の幹部からも反乱者が出てしまったことと関係があるのではないか、とする[51]。すなわち、武家勢力へ下手に迎合することを止め、自身の公家としての出自に回帰し、陸奥将軍府の独自路線を展開したのではないか、という[51]

これと同時に、顕家の施行国宣(強制執行の行政文書)も建武2年(1335年)6月で最後に終わりとなる[52]。亀田によれば、7月以降に発給された袖判国宣に施行状は付かなかったではないか、という[52]。9月には中央の後醍醐の施行状も消滅する[53]。これが、政権側が能動的に施行状を発給しないと決めたのか、あるいは中先代の乱によって戦いが激化したために、施行状が機能不全に陥ったのかは不明である[53]。これは、後年、室町幕府が戦いの時ほど(たとえば観応の擾乱)施行状を発給したのは対照的である[53]。仮説として、建武政権は、施行状を安定した時期の平時の行政的措置と見なしていたのに対し、室町幕府(=高師直=足利尊氏)は将軍と武士との主従関係を強めて合戦に勝利するための、戦時の手段と見なしていたのではないか、と亀田は推測している[53]

この後の建武の乱で顕家は鎌倉を瞬く間に征服し、翌年1月には第一次京都合戦足利尊氏を九州へ追い落とすことになる[54]。これほど顕家の第一回遠征軍が強かった背景として、亀田は、後醍醐の施行状システムのおかげで、顕家は奥州諸氏の支持を多く獲得して強力な主従関係を築くことができ、陸奥将軍府への求心力を高めることができたからではないか、と推測している[54]

顕家が施行状の発給を止めたのと入れ替わるように、足利氏の執事高師直は建武2年(1335年)11月5日ごろから、後醍醐を見習って施行状を発給するようになる[55]。亀田は、室町幕府が南北朝の内乱に勝利することができたのは、師直が開幕早々に執事施行状を大量に発給し、求心力を高めることができたことが理由の一つではないか、と主張している[56]

北畠顕家上奏文

顕家は戦死する7日前という直前の5月15日、後醍醐天皇に対して新政の失敗点を諌める全7条の奏上文『北畠顕家上奏文』を遺した[57]。跋文での名乗りは「権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍源顕家」である[1]。この奏上文は「北畠顕家奏状」、『顕家諫奏』、「北畠顕家諫奏文」とも呼ばれる。醍醐寺三宝院には「醍醐寺文書」と呼ばれる文書が伝わるが、顕家の直筆ではなく写しと見られている。醍醐寺文書は第1条の最初の部分が欠けており、各条に第何条との記載がないため、全7条であったか否か明確でない。

現存箇所では、「地方分権制推進」「租税を下げ贅沢を止めること」「恩賞として官位を与える新政策の停止」「公卿殿上人・仏僧への恩恵は天皇個人への忠誠心ではなく職務への忠誠心によって公平に配分すること」「たとえ京都を奪還できたとしても行幸・酒宴は控えること」「法令改革の頻度を下げること」「佞臣の排除」といった7つの批判を行う。そして、「もしこの意見を聞き届けていただけないなら、自分は天皇のもとを辞して山中にこもる」と激越な文章で結ばれている。諫奏文を送る上での覚悟が窺える内容となっている。

その美文と史料としての価値の高さから、20世紀前半の日本史研究者の黒板勝美は、この上奏文を醍醐寺の国宝過去現在因果経』よりも価値のあるものと高く評価している[58]。ただし、内容の妥当性そのものは、物語的な悲劇性とは冷静に分けて考える必要がある。たとえば、21世紀前半の研究者亀田俊和は、顕家の後醍醐への法令改革・人事批判については、これはあくまで公家層としてのバイアスがかかっていることを念頭に置く必要があり、また、法令改革の効果が直ちに眼に見えない同時代人の視点である、という点に注意する必要があると指摘している[59]。後世から客観的にみれば、後醍醐の法令改革はその場で取れる最善手の一つではあったし、また歴史的意義としては後進の室町幕府に繋がるものとして高く評価できる、という[59]

墓所・神社・銅像

伝 北畠顕家 墓
  • 堺市西区紀州街道石津川の交差する場所に架かる太陽橋の南詰めには、顕家が戦死したとされる場所と伝えられており、現在は南部師行と共に供養塔が建てられている[60][リンク切れ]
  • 大阪市阿倍野区の北畠公園内に顕家のものと伝えられる墓がある。ただし、『太平記』などの伝承に基づき、死後およそ400年後の享保年間に並川誠所の提唱によって立てられたものである[61]
  • 阿倍野区にある阿部野神社は顕家を祀っている。ここには顕家の銅像がある。この銅像はNHK大河ドラマ「太平記」が放映されたことを記念して1991年に建立されたもので、除幕式には親房・顕家親子を演じた近藤正臣・後藤久美子も列席した。
  • 顕家が陸奥国府を築いた霊山には霊山神社が建てられ、顕家親子らを祀っている。ここにも顕家の銅像がある。

官歴

※日付=旧暦

和暦 西暦 月日 事柄
元応3年 1321年 1月5日 従五位下に叙位(『公卿補任』)[62]
元亨2年 1322年 1月5日 従五位上に昇叙(『公卿補任』)[62]
元亨4年 1324年 4月9日 正五位下に昇叙(『公卿補任』)[62]
正中2年 1325年 12月30日 侍従に任官(『公卿補任』)[62]
正中3年 1326年 1月5日 従四位下に昇叙し(『公卿補任』)[62]、侍従如元。
2月19日 右近衛少将に転任(『公卿補任』)[62]
嘉暦2年 1327年 3月24日 従四位上に昇叙し、武蔵介を兼任(『公卿補任』)[62]。右近衛少将如元。
嘉暦3年 1328年 1月5日 正四位下に昇叙し(『公卿補任』)[62]、右近衛少将・武蔵介如元。
3月16日 少納言に転任(『公卿補任』)[62]
4月19日 左近衛少将に遷任(『公卿補任』)[62]。少納言・武蔵介如元。
11月9日 中宮権亮を兼任、少納言を去る(『公卿補任』)[62]
元徳2年 1330年 4月6日 権左中弁に遷任(『公卿補任』)[62]。中宮権亮如元。
10月5日 左中弁に遷任(『公卿補任』)[62]。中宮権亮如元。
元徳3年 1331年 1月5日 正四位上に昇叙(『公卿補任』)[62]
1月13日 参議に転任(『公卿補任』)[62]
1月16日 蔵人頭を経ずして左近衛中将を兼任(『公卿補任』)[62]
11月5日 参議・左近衛中将を辞し、従三位に昇叙(『公卿補任』)[62]
元弘2年/正慶元年 1332年 12月26日 参議に還任、左近衛中将を兼任(『公卿補任』)[62]
元弘3年/正慶2年 1333年 6月12日 弾正大弼を兼任(『公卿補任』)[62]
8月5日 陸奥守を兼任(『公卿補任』)[62]
9月10日 弾正大弼を止む(『公卿補任』)[62]
10月10日 正三位に昇叙し(『公卿補任』)[62]、参議・陸奥守如元。
月日不詳 右近衛中将を兼任[要出典]
建武元年 1334年 12月17日 従二位に昇叙(勲功賞)、その身任国に在り(『公卿補任』)[62]、参議・右近衛中将・陸奥守如元。
建武2年 1335年 月日不詳 陸奥権守に遷任、陸奥守を去る[要出典]
11月12日 鎮守府将軍を兼任(『公卿補任』)[62]
延元元年/建武3年 1336年 2月4日 検非違使別当に補任し、右衛門督を兼任(『公卿補任』)[62]。ついで翌5日に大将軍の号を賜わる[要出典]
2月26日 陸奥権守を去るか?(同日、義良親王の三品陸奥太守叙任により)[要出典]
3月2日 権中納言に転任、検非違使別当・右衛門督如元(『公卿補任』)[62]
3月10日 陸奥大介に任ぜられる[要出典]
月日不詳 検非違使別当・右衛門督を辞す(『公卿補任』)[62]
12月 北朝から解官(『公卿補任』)[62][注釈 8]
延元3年/暦応元年 1338年 5月22日 石津の戦いで戦死。享年21。法名は長興寺道音[要出典]
年月日不詳[注釈 9] 南朝にて従一位右大臣を追贈される。

系譜

顕家を題材とした作品

脚注

注釈

  1. ^ a b 系図纂要』は中御門為行女行子とする。
  2. ^ a b 吉野拾遺』『系図纂要』では日野資朝の娘としている顕家を祖とする浪岡氏関係の系図には、浪岡秀種女頼子(萩の局)と伝えるものが多い。
  3. ^ 『系図纂要』では「文保二年三ノ二生」とある。
  4. ^ 『増鏡』では、「其の程、上も御引直衣にて、倚子に著かせ給ひて、御笛吹かせ給ふ。常より異に雲井をひびかす様也。宰相の中将顕家、陵王の入綾をいみじう尽くしてまかづるを、召し返して、前の関白殿御衣取りてかづけ給ふ。紅梅の表着・二藍の衣なり」とこのときの様子が記されている。
  5. ^ 「元徳二年(1330年)13歳で左中弁となる新例をひらき、翌年参議で左近衛中将を兼ね、空前の昇進を示した」[3]
  6. ^ 建武記』『職原鈔』によると、鎮守府将軍は従五位上相当職であるので、三位以上の者がこの職に就いた際には、将軍の上に大を加えて大将軍としたという。
  7. ^ 浪岡氏については、顕家の弟顕信の孫にあたる北畠親能の子孫とする説など諸説ある。
  8. ^ 南朝に参候したため。
  9. ^ 高野山文書正平7年(1352年)4月1日付北畠親房蓮華乗院勧学料所寄進状に「亡息贈従一位右大臣」と見えているので、これ以前であることは確実である。

出典

  1. ^ a b c d 黒板 1939, p. 616.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av 愛しの顕家様のぺえじHP内北畠顕家関連年表、2014年7月2日閲覧
  3. ^ 河出書房新社『日本歴史大辞典』
  4. ^ 『大日本史料』6編1冊99頁「公卿補任」元弘三年六月十二日
  5. ^ 『大日本史料』6編1冊170頁「公卿補任」
  6. ^ a b c d e f g h i j k l 日本の歴史学講座HP内北畠氏総合年表、2014年7月2日閲覧[リンク切れ]
  7. ^ 『大日本史料』6編1冊242頁
  8. ^ 『大日本史料』6編1冊249頁「神皇正統記」
  9. ^ 『大日本史料』6編1冊250頁「相顕抄」
  10. ^ 『大日本史料』6編1冊701頁「会津四家合考」「南部文書」
  11. ^ 『大日本史料』6編2冊181頁「公卿補任」
  12. ^ 『大日本史料』6編2冊693頁「公卿補任」
  13. ^ 『大日本史料』第6編2冊587頁。
  14. ^ 『大日本史料』6編2冊825頁「八戸系図」
  15. ^ 『大日本史料』6編2冊978頁-
  16. ^ 『大日本史料』6編2冊993頁
  17. ^ 『大日本史料』6編3冊60頁「公卿補任」
  18. ^ 『大日本史料』6編3冊135頁「公卿補任」
  19. ^ 『大日本史料』6編3冊310頁「相馬岡田文書」
  20. ^ 『大日本史料』6編3冊400頁「相馬岡田文書」
  21. ^ 『大日本史料』6編4冊37頁
  22. ^ 『大日本史料』6編3冊934頁「白河文書」
  23. ^ 『大日本史料』6編4冊57頁
  24. ^ 『大日本史料』6編4冊352頁
  25. ^ 『大日本史料』6編4冊453頁
  26. ^ 『大日本史料』6編4冊453頁
  27. ^ 『大日本史料』6編4冊458頁「太平記」
  28. ^ 『大日本史料』6編4冊663頁「大国魂神社文書」
  29. ^ 『大日本史料』6編4冊664頁「瑠璃山年録残編」
  30. ^ 『大日本史料』6編4冊663頁
  31. ^ 『大日本史料』6編4冊710頁
  32. ^ 峰岸・121頁
  33. ^ 峰岸・121-122頁
  34. ^ 奥富・222頁
  35. ^ 奥富・222頁
  36. ^ 安井『太平記要覧』・202頁
  37. ^ 峰岸・122
  38. ^ 奥富・223頁
  39. ^ 峰岸・122頁
  40. ^ 峰岸・122頁
  41. ^ 安井『太平記要覧』・202頁
  42. ^ 奥富・222頁
  43. ^ 『大日本史料』6編4冊710頁
  44. ^ 『大日本史料』6編4冊737頁
  45. ^ 『北畠准后伝』・『南朝編年記略』
  46. ^ a b 亀田 2013, pp. 134–135.
  47. ^ a b c 亀田 2013, p. 139.
  48. ^ 亀田 2013, p. 507.
  49. ^ 亀田 2013, pp. 118, 508.
  50. ^ 亀田 2013, p. 508.
  51. ^ a b c d e 亀田 2013, p. 138.
  52. ^ a b 亀田 2013, p. 142.
  53. ^ a b c d 亀田 2013, p. 143.
  54. ^ a b 亀田 2013, p. 145.
  55. ^ 亀田 2013, p. 191.
  56. ^ 亀田 2013, pp. 180–181.
  57. ^ 黒板 1939.
  58. ^ 黒板 1939, p. 631.
  59. ^ a b 亀田 2014, pp. 167–175.
  60. ^ 堺市西区の紹介 区の概要中段 「北畠顕家の供養塔」[リンク切れ]
  61. ^ 北畠公園内「北畠顕家公由緒記」
  62. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 『大日本史料』6編4冊820–821頁.
  63. ^ a b 『系図纂要』による。
  64. ^ 『大日本史料』6編6冊778頁

参考文献

  • 奥富敬之『上州 新田一族』新人物往来社ISBN 978-4-40-401224-1 
  • 亀田俊和『室町幕府管領施行システムの研究』思文閣出版、2013年。ISBN 978-4784216758 
  • 亀田俊和『南朝の真実 忠臣という幻想』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー 378〉、2014年。ISBN 978-4642057783 
  • 黒板勝美北畠顕家の上奏文に就いて」『虚心文集』 2巻、吉川弘文館、1939年、607–632頁。doi:10.11501/1266363NDLJP:1266363https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1266363/322 オープンアクセス - 昭和4年(1929年)11月『歴史地理』54巻5号からの再録。
  • 佐藤進一 『日本の歴史9 南北朝の動乱』 中央公論社〈中公バックス〉、1971年
  • 峰岸純夫『新田義貞』吉川弘文館〈人物叢書〉、2005年5月10日。ISBN 4642052321 
  • 安井久善『太平記要覧』おうふうISBN 4-273-02939-1 
  • 横山高治 『花将軍 北畠顕家』 新人物往来社、1990年、ISBN 4-404-01781-2
  • 東京大学史料編纂所データベース

関連項目