北条貞直
北条 貞直(ほうじょう さだなお)
いずれも北条時房の系統出身であり、得宗家当主の北条貞時より偏諱を受けた[1]人物である。
時代 | 鎌倉時代末期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 正慶2年/元弘3年5月22日(1333年7月4日) |
官位 | 陸奥守、陸奥・遠江・佐渡国守護 |
幕府 | 鎌倉幕府 引付衆、引付頭人 |
主君 |
将軍:守邦親王 得宗:北条貞時→高時 |
氏族 | 北条氏、大仏流 |
父母 | 父:北条宗泰 |
兄弟 | 貞直、宣政 |
子 | 顕秀 |
北条 貞直(ほうじょう さだなお)は、鎌倉時代末期の武士。北条氏の一門・大仏流北条宗泰の子。屋号から大仏 貞直(おさらぎ さだなお)とも呼ばれる。楠木正成の篭る千早城攻めに参加した大仏高直[2]と同族。
生涯
得宗・北条貞時より偏諱を受けて貞直と名乗る[3]。
元徳3年/元弘元年(1331年)9月に貞直は江馬越前入道(江馬時見)、金沢貞冬、足利高氏(のちの尊氏)らと共に大将軍として上洛した[4]。9月26日には貞直と共に上洛軍を率いて笠置に向けて進発して2日後に攻め落とした(笠置山の戦い)[5]。10月の赤坂城の戦いに勝利して戦功を挙げたことから、遠江・佐渡などの守護職を与えられた。
正慶2年/元弘3年5月、新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に攻め込んでくる(東勝寺合戦)と極楽寺口防衛の大将としてその迎撃に務め[6]、新田軍の主将の一人である大館宗氏と戦い1度は突破を許したが態勢を立て直して宗氏を討ち取り堅守していた[7]。しかし力尽きて5月21日深夜に攻防戦の要衝である霊山山から撤退するが、この時に残っていた兵力は300騎ほどだった[8]。そして5月22日に宗氏に代わって采配を取った脇屋義助(義貞の弟)の攻撃の前に遂に敗れ、弟の宣政(のぶまさ)や子の顕秀(あきひで)らと共に戦死した。
武将としての能力だけでなく、和歌にも優れた教養人であったと伝わる。
古典「太平記」でも北条一族の主要人物のひとりとして登場しており、鎌倉防衛戦においては巨福呂坂の守将・金沢貞将と共に最期の様子が描かれている[9]。
年譜
※ 日付=旧暦
- 1322年(元亨2年)7月12日、引付頭
- 1331年(元徳3年/元弘元年)9月5日、陸奥守護職
- 年月不明=引付衆、遠江・佐渡守護職
- 1333年(元弘3年)5月22日、極楽寺口の戦いで新田義貞軍に敗れて自害。
脚注
- ^ 貞時の代には「得宗(貞時)→御家人」の偏諱の授与の図式が成立していたことが研究で指摘されている(角田朋彦 「偏諱の話」(再興中世前期勉強会会報『段かづら』三・四、2004年、p.21)。
- ^ 高直は貞直の従兄にあたる維貞の子であり、諱は似ているが遠縁である。貞直の「貞」の字は北条貞時、高直の「高」の字は北条高時(貞時の子)から一字を拝領したものである(紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.15系図・p.21))。大仏流北条氏は得宗家当主を烏帽子親とする家系であり(山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、脚注(27) (山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)P.182))、「得宗(貞時・高時)→御家人」の偏諱(「貞」または「高」の字)の授与の図式が成立していたこの時期(角田朋彦 「偏諱の話」(再興中世前期勉強会会報『段かづら』三・四、2004年、p.21)において、得宗家当主(貞時・高時)は自身を脅かす可能性があった大仏流に対し嫡流以外の人間にも偏諱を与えていたのである(紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.23))。詳細は北条氏 (大仏流)の項を参照のこと。
- ^ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その76-大仏貞直(細川重男のブログ記事)より。
- ^ 『金沢貞顕』136頁。
- ^ 『金沢貞顕』137頁。
- ^ 『金沢貞顕』147頁。
- ^ 『金沢貞顕』148頁。
- ^ 『金沢貞顕』148頁。
- ^ 『太平記』巻第10「大仏貞直金沢貞将討死事」
参考文献
- 永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉吉川弘文館、2003年。ISBN 4-642-05228-3