北斗晶

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北斗 晶
プロフィール
リングネーム 北斗 晶
宇野久子
レイナ・フブキ(EMLL)
本名 佐々木 久子
ニックネーム デンジャラス・クイーン
鬼嫁
チャコちゃん
身長 168cm
体重 60kg
誕生日 (1967-07-13) 1967年7月13日(56歳)
出身地 埼玉県北葛飾郡吉川町(現:吉川市
所属 健介office
デビュー 1985年6月12日
引退 2002年4月7日
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北斗 晶(ほくと あきら、1967年7月13日 - )は、日本の元女子プロレスラータレント実業家・芸能プロモーターである。本名は佐々木 久子(ささき ひさこ、旧姓:宇野〔うの〕)。埼玉県北葛飾郡吉川町(現:吉川市)出身。血液型はO型。2児の母。

現在は、男子プロレスラー佐々木健介の妻であり、マネージャーでありセコンドであり、株式会社健介オフィスの代表取締役社長でもある。愛称は、本名の久子に由来してチャコ。リングネームの由来はウルトラマンA[1]。レスラーとしての愛称はデンジャラス・クイーン。レスラー引退後は、鬼嫁の愛称で知られる。 尚、現役時代は自称身長が169cmだったとの事でプロフィールなどの公表身長は170cmとしていたと後に語っている。

経歴

プロレス界入り前

神田女学園中学校卒業。併設高校に進むもプロレス界入りのため中退した。ちなみに、学校には「ごきげんよう」と言って去ったらしい。

全日本女子プロレス時代

1985年6月12日、札幌中島体育センターにおける岩本久美子(後のグリズリー岩本)戦で全日本女子プロレスよりデビュー。入門当時は当時の本名・宇野久子をそのままリングネームにしていた。当時、デビュー時代から連戦連勝でありデビューからの連勝記録を保持していた。同年の新人王決定トーナメントは準優勝、年末の女子プロレス大賞では(最優秀)新人賞となった。

1986年3月、大阪城ホール大会で先輩のコンドル斉藤が保持する全日本ジュニア王座を奪取。同期ではもっとも早い戴冠だった。

1987年、当時保有していたWWWA世界タッグ王座(パートナーは堀田祐美子)の初防衛戦で、首の骨を折り長期欠場を余儀なくされる。医者からは引退を宣告されるが、本人のプロレスを続けたいと言う強い意思とファンからの後押しで復活(ただし、医者から「復帰したら30歳過ぎには後遺症で体が動かなくなる可能性もある」と忠告されている)。1988年には同期の鈴木美香(みなみ鈴香)と海狼組(マリン・ウルフ)を結成し、リングネームを北斗晶[2]に変更。1989年3月1日に『颱風前夜(The Eve of Fight)』で歌手デビューをしている。

1990年代に入ると2年後輩の豊田真奈美から「北斗、お前は1度も私に勝ってないんだからなあ」と言われ激怒。豊田、山田敏代ら昭和62年入門組との世代対決が開始され、女子プロレスの質は飛躍的に高まり、男性ファンが大挙して会場に押し寄せるようになる。1992年ヒールに転身し三田英津子猛武闘賊(ラス・カチョーラス・オリエンタレス)を結成(のち下田美馬が参加)した。

1993年から1997年にかけての団体対抗戦時代には神取忍と血みどろの抗争を繰り広げ、デンジャラスクイーンと呼ばれるようになる。後に神取との試合を聞かれると、「プロレス感が徹底的に違う」と述べている。試合後の毒舌マイクパフォーマンスも人気を呼んだ。また、国内の活動と平行して「レイナ・フブキ」のリングネームでメキシコEMLLでも活躍した。しかし長期欠場に追い込まれた首などの度重なる大怪我が響いて、最後まで悲願のWWWA世界シングル王座には手が届かなかった。

結婚

北朝鮮主催のスポーツと平和の祭典で健介と出会い婚約。1995年10月1日に健介と結婚後フリーとなり、WCWを経て1996年GAEA JAPANに入団。1998年に長男を出産、一時リングを降りていたが翌年復帰を果たし、団体内グループであるT.NDS(チームノストラダムス)および卑弥呼を結成し、日本初のママレスラーとなった。

その後、親友であり自身と同じく幼い子を持つ女性が亡くなったことがきっかけで引退を決意し、2002年4月7日、横浜文化体育館の長与千種浜田文子組戦(パートナーは里村明衣子)において現役を引退した。

「鬼嫁」キャラのマネージャー・タレントとして

引退直後は主婦業に専念していたが、2003年WJプロレス退団後苦労する夫健介を支えるべく、健介のマネージャー役としてプロレス界に復帰、健介の復活を支えた(2004年には、健介officeが発足)。また「埼玉の主婦の喧嘩」と称して全日本プロレスで試合をすることもある。

バラエティ番組などで人気があり、テレビ出演も多い。『踊る!さんま御殿!!』や『笑っていいとも!』や『徹子の部屋』や『さんまのまんま』などにゲストで出演した。2007年5月より『北斗晶の鬼嫁運動記者倶楽部』(2009年4月からは『 - 勝ちグセ。』)にレギュラー出演している。

2005年11月15日に健介officeを株式会社化し、代表取締役社長として会社経営に携わることとなった。プロレス興行とタレントマネジメントを兼ねた会社として運営している。

2010年にあっては、人気ギャルママ雑誌『I LOVE mama〔アイラブママ〕』と味の素の共同企画によるケータイサイト『mamaごはん』のテレビコマーシャルに登場。木口千佳大工原里美日菜あこという3名の『ギャルママモデル』らと並んでの出演となったこのテレビCMは、同年の6月から全国放映が始まっている。[3]

戦歴

数々の名勝負を残してきた北斗であるが、全女時代は、万全な体調でタイトルマッチを迎えることがほとんどなく、何かしらの怪我を抱えたまま強行出場することが多かった。手負いの北斗が必死に戦いを挑んでいく姿は、見る者を少なからず感動させた。特に同世代またはやや上のブル中野アジャ・コングたちとの絡みでは、クラッシュ引退後の苦しい時期を支えてきたお互いに対する思い入れの深さがひしひしと伝わってくる、情念がぶつかり合う死闘を生み出すことになった。

1990年
  • 6月17日、ジャパングランプリ'90のワンデートーナメント1回戦で2年後輩の豊田真奈美と対戦。押し気味に試合を進めた北斗だったが、場外へのプランチャをかわされた際に右ヒザがフェンスに直撃。北斗は歩行不能の状態ながら試合続行を訴えたが、右ヒザの裂傷が中の骨が見えるほど深かったためドクターストップ負け。豊田はこの後決勝で堀田祐美子を破り初優勝、明暗が分かれた。
1991年
  • 1月11日 川崎市体育館で豊田が保持するオールパシフィック選手権に挑戦。後輩相手ではあるが同王座への初挑戦であった。北斗は1月4日のWWWA世界シングル選手権試合でブルに挑戦した際に右腕を怪我し、筋肉が切れて石膏ギプスで固めた状態であった。前年のジャパングランプリ'90のリベンジもかかっていたが、片手一本での挑戦には限界があり、豊田に開始早々ギプスを外され、腕を極めにかかられた。セコンドにはタオルを持った海狼組のパートナーみなみ鈴香が、今か今かとタオルを投げ込もうとしていたが、北斗は拒否。最後は見かねた同期の堀田がタオルを投げ込み、TKO負け。試合後、みなみが挑戦を表明した。
  • 3月17日 後楽園ホールのセミファイナルでアジャ・コングと時間無制限一本勝負のシングル・マッチ。1月の豊田戦でも責められた右腕は完治しておらず、アジャのパワーファイトの前に10分31秒で完敗。対戦後、アジャは北斗に共闘を提案するが、北斗は受けなかった。
1992年
  • 7月15日 後楽園ホールブル中野の保持するCMLL選手権に挑戦。この時も、みぞおちの下の肋軟骨を2本、亀裂骨折しており、痛み止めを打っての強行出場で「これが最後のリングになるとしてもがんばって立ち上がる」と悲愴な覚悟で臨んだ一戦であった。
  • 試合前には下田美馬がセコンドに付く(=弟子入りする)ことを直訴し土下座。これが3人でのラス・カチョーラス・オリエンタレス結成のきっかけとなった。
  • 試合は一進一退の攻防が続いたが、全盛期にあったブルのパワーと怪我の影響で終始押され気味であった。ノーザンライト・ボムや変形パイル・ドライバーでもブルを沈めることができず、最後はトップロープからのギロチン・ドロップを返したものの、ブルがムーン・サルトに入るところで三田と下田がリングインしてブルを止め北斗をかばい、リング・ドクターを招き入れた。様子をチェックしたリング・ドクターが「痛み止めを打って試合に送り出したが、もう限界で、これ以上は選手生命にかかわる」と試合を止めた。
  • 試合直後に北斗は涙を流しながら、「誰が止めたんだよ・・・誰が止めたんだよ!いつもそうじぇねえか・・・いつもそうじゃねえか!そのベルトが欲しいよ・・・どうしても欲しいよ。延長さしてくれ・・・延長さしてくれ!」とアピール。ブルは即座にマイクをとり、北斗に指を差しながら、「お前プロレス好きなんだろ?好きなんだろプロレス!だったらよくなってからもう一回挑戦してこい。今じゃ駄目なんだよ・・・自分の体、大切にしろ!」と返した。
1993年
  • 4月2日 横浜アリーナで開催された夢のオールスター戦のセミファイナルで、LLPW神取忍と対戦。昨年以来の遺恨、記者会見での乱闘騒ぎなどですでにボルテージは最高潮に達していたが、試合はそれを遙かに上回る凄惨な血みどろの戦いとなり、対抗戦時代史上、そして日本の女子プロレス史上でも屈指の名勝負となった。
  • 開始早々、双方挑発しあう中、北斗が神取の左頬に右ストレートを放ち、神取が昏倒。北斗はすかさずマイクを取り「おい神取、てめえの実力ってのはそんなもんか!立ってみろ!起き上がれ!」と叫んだ。これに逆上した神取は即座に北斗の左肩を脇固めで破壊。腕が直角に曲がったまま、北斗は戦闘不能に陥りかける。
  • さらに場外戦で、実況席の机の上でツームストーン・パイル・ドライバーを放とうとした北斗を神取が切り返してパイル・ドライバー。北斗は脳天からもろに落ち、机が円形に陥没。双方が大流血した後も延々と凄惨な戦いが続き、北斗のノーザンライト・ボム、神取の逆ノーザンライト・ボムでも決まらない。最後はグーパンチでの殴り合いになり、クロスカウンターから北斗が神取に覆い被さって、30分37秒、北斗がフォール勝ちを収めた。
  • 試合終了後、神取は短く「おいっ、これで終わりじゃねえぞ」と言い捨ててリングを後にした。血まみれの北斗は座り込んだまま再びマイクをとり「神取ッ、聞こえるか?お前は、プロレスの心がない!プロレスは、プロレスを愛する者にしかできない!柔道かぶれのお前に負けてたまるか!」と叫んだ。
  • この試合をメイン・レフェリーとして裁いたのは全女の松永兄弟の一人、松永俊国であった。普段は一線を引いていた俊国は、ここぞという大一番のみにレフェリーとして登場することになっており、全女サイドがこの試合をいかに重く見ていたかがうかがえる。
  • 10月9日 東京ベイNKホールで開かれたレッスル・マリンピアード'93のメインイベントで、アジャ・コングと対戦。当初はアジャの保持するWWWA世界シングル王座を賭けたタイトルマッチであったが、手術して2週間、全治3か月と診断され、神経に刺さっていた半月板を半分切除した左膝、さらに右足の十字靱帯が切れ、背骨が2本折れていたという最悪に近いコンディションであった北斗は試合前に、タイトルマッチを辞退したいと発言、アジャも快くそれを認め、その代わりこれぞ全女という試合を見せると観客に約束した。こうしてノンタイトル戦となった試合はやはり北斗の膝がまともに動く状態ではなく、途中でリング・ドクターがチェックに入るほどの厳しい試合展開となったが、空中技など惜しげもなく繰り出し、最後は19分30秒、アジャの雪崩式水車落としに敗れた。このタイトルマッチ返上事件が、翌年の東京ドームでのアジャ戦の伏線となっていく。
1994年
  • 11月20日 東京ドームで開催された「憧夢超女大戦」興行におけるV☆TOP WOMAN日本選手権トーナメント(優勝賞金1500万円)での戦いを最後に引退すると表明。ただしトーナメントに優勝した場合は、引退を撤回するかもしれないとも発言していた。
  • 1回戦ではLLPWイーグル沢井と対決。イーグルはいきなりサンダーファイヤー・パワーボムを放つなどラッシュをかけたが、11分8秒、ノーザンライト・ボム2連発で退ける。
  • 準決勝ではFMWコンバット豊田と対戦。コンバットは机をリング内に持ち込むなどラフファイトで一気に攻め込むが、机攻撃に失敗、これが仇となったコンバットを、ノーザンライト・ボムで破る。
  • メインイベントとなる決勝では豊田真奈美ダイナマイト・関西を破って勝ち上がってきたアジャ・コングと対戦。静かな立ち上がりだったが、アジャがトペの際にトップロープに足を引っかけて右膝が外れてしまい、片足同然の状態での戦いとなった。滅多に怪我の部位を痛がらないアジャが悲鳴を上げるほどの重傷で、試合続行は不可能に近く、ちょうどNKでの試合と立場が逆転した。しかし、アジャは驚異的な根性で立ち向かい、試合を作っていく。20分を越える死闘は、ノーザンライト・ボム3連発で北斗が勝利。
  • 勝った北斗は茫然自失、敗れたアジャはWWWAのベルトを北斗に差し出し、号泣しつつ「このベルトは、あなたのものです。あなたと、このベルトを賭けるために、NK(1993年10月9日)から1年やってきました。このベルトは、あなたのものです。」とマイク・アピール。北斗は下を向いたまま言葉を発することなく、静かに涙を流していたが、やがてマイクを取り、「アジャ・・・いつもよぉ、生意気なこと言ってんのによぉ、なんでこんなときによぉ、言葉が見つからねえんだよ。だけど、この赤いベルトは、アタシのもんじゃない・・・これはアジャのもんだよアジャ(アジャは激しく泣きながらかぶりを振る)。もう一回巻いてみせてくれ(ここでアジャはさらに号泣)、アタシが唯一取れなかったベルト、巻いてみしてくれ」と言って、赤いベルトを座り込んでいるアジャに強引に巻き付け、二人で抱き合って泣き続けた。最後に北斗は「お前ら、アタシのことがもっと見たいか!」と観客にアピール、観客が北斗コールで応えると、「来年、東京ドームがあるなら、その時に必ず戻ってくる!」と締めくくった。
1995年
1996年
  • 2月 - 香川県・丸亀市民体育館大会でのタッグマッチを最後に、全日本女子プロレスを離れる。
  • 9月 - GAEA JAPANに入団を表明。
1998年
  • 3月15日 - この日の神奈川県・クラブチッタ川崎大会での試合を最後に、第1子の出産準備と子育てのために長期欠場に入る。
1999年
  • 7月18日 - 後楽園ホール大会に来場。アジャ・コングに促されてリングに上がり、復帰を宣言する。
  • 8月15日 - 後楽園ホール大会で復帰戦を行う。
2000年
2002年
  • 1月 - 後楽園ホール大会で現役引退を表明する。
  • 4月7日 - GAEA JAPANの横浜文化体育館大会で引退試合を行う。北斗は里村明衣子と組んで、長与千種・浜田文子組と対戦し、ノーザンライトボムで浜田からフォールし有終の美を飾る。

人物

  • 実家は、十数代続く農家。
  • プロレスラーになる以前はブル中野のファンで、私設のファンクラブを作り、週刊プロレスに会員募集の投稿をしたことがある。
  • 手先が器用で、特技は裁縫。自分の竹刀を入れる袋も自作だった。かつて洋服・雑貨店「シルバーベルドリーム」を経営していたこともある。
  • 料理も上手で、テレビ番組で料理の腕を披露することも多い、東海テレビ制作の特番『決定!アイアン主婦〜芸能人妻NO.1決定戦〜』でチャンピオンになったこともある。レシピ本の執筆もしている。『愛のエプロン』夫婦大会では丸のままのブリを前に「目玉が怖くて捌けない」と発言、泣きながら料理をするという一面も見せた(それを見た健介は「惚れ直しました」と笑顔で発言していた)。
  • 埼玉に建てた佐々木夫妻の豪邸は、ギリシァ風円柱やロココ調家具といった強烈なセンスに満ちており、頻繁にメディアに取り上げられている。健介の話では、純和風の豪邸を建てたかったが、案はほぼ全て却下され、庭に松の木を一本植えさせてもらっただけであったという。
  • 先にあげたレシピ本以外にも、いくつかの著書がある。結婚前のヒールレスラーとして、結婚後のママさんレスラーとして、そして夫とともに戦う力強い女性としての立場の変遷の中で刊行されてきたが、どれも彼女の率直な語り口を反映したものとなっている。
  • ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』のプロレスコントにおいて内村光良に本気の北斗原爆固めをかけ、これが原因で内村は足を捻挫、しばらくテレビを休養するはめになる。内村曰く、本気で技をかけて貰わないとリアクションを取りづらいから事前に「本番で絶対本気でやってください!」とお願いしたとのこと。
  • 近藤真彦の大ファンで、映画『ハイティーン・ブギ』のヒロインオーディションに申し込んだことがある。
  • 首の骨を骨折した際には、前述の通り復帰はおろか日常生活への大きな影響も心配されたが、約1か月で完治。後にテレビの企画で骨密度測定の企画に出演した際には、このエピソードを交え「鉄人以上・骨密度測定不能(濃すぎて)」という結果が紹介された。
  • 女子選手として、グレート・ムタと対峙したことのある唯一の選手である。奇襲でノーザンライトボムを喰らわせるも、毒霧の反撃を喰ってしまった。
  • 絶叫マシンに乗るのが大の苦手で、フジテレビの『世界絶叫グランプリ』で、夫の健介とスタッフが共謀してニュージーランドまで行き、ワイヤーで吊るされた絶叫マシンに無理やり乗せられ大泣きしてしまった。
  • 1994年11月18日に『北斗晶のオールナイトニッポン』のパーソナリティを務めた際、自身の一番好きな曲に森口博子の『ETERNAL WIND〜ほほえみは光る風の中〜』を挙げており、番組内で森口の歌唱力を絶賛していた。
  • 2009年12月14日放送の『森田一義アワー 笑っていいとも!』内「芸能人できる?できない? 分けまチョイ」において、以前メキシコにプロレス留学していて現地でチャンピオンになってしまったことから、3年間日本とメキシコを行き来していたと言う。また、メキシコで生活する上で必須であるため、スペイン語を覚えたが、対戦相手を罵倒する汚い言葉から覚えてしまったと語っている。そのため、スペイン語による自己紹介も難なく出来る。
  • 引退してからは女子プロレスとの関わりはほとんど持たなかったが、2010年に『笑っていいとも!』内でJWPの新人選手のリングネームを「ムーン瑞月」と名づけた。ちなみにムーンのデビュー戦の相手はマリンウルフのパートナーだったみなみ鈴香にリングネームが由来するみなみ飛香であった。
  • 2012年1月16日日本テレビ系列で放送された『私の嫌いな有名人 実名で発表するぞ!SP Part2』では、嫌いな有名人はかつて付き人を務めていた先輩の長与千種と答え、理由は新人時代に北斗が用意していたテーピング代を払わなかったのと、自身は引退時にノーザンライトボムを託したのに使ってもらえずにいた事だったが、その後に長与本人が登場し誤解だった事を説明(雑費は他の何人もいた付き人のうちの1人にちゃんと渡していて北斗には渡っていなかったのには気付いていなかった事と、技は長与が引退するまでに仕掛けるに値する選手がいなかった事)、それを聞いた北斗は技を大事にしていた事を知り、自分が誤解していた事に涙した。

得意技

プランチャ・スイシーダ
トペ・コンヒーロ
ノーザンライトボム通称北斗ボム(佐々木健介参照)
相手をボディスラムのように担ぎ上げ脳天から落とす技。ボディスラムをしようとした際に失敗して脳天から落としてしまった時に相手が失神状態になったためそれを改良して現在の形になった。代表的な使い手として、北斗からこの技を伝授された健介、ノアの佐野巧真などがいる。
ノーザンライトハーレーTS
ストラングルホールドγ
自分の両足を使った羽根折り固め。ノーザンライトボムとは逆に、健介の技を受け継いだもの。
DQボム(デンジャラスクィーン・ボム)
フィッシャーマン・バスター
フィッシャーマンズ・スープレックスの要領で抱え上げてから、垂直落下式ブレーンバスターのように脳天から落とす。
張り手
リバースバックドロップ
スピンキック
タイガー・スープレックス
高速パイルドライバー
ミサイルキック

タイトル歴

入場テーマ曲

  • Young Soldier(新人~海狼組時代に使用)
  • Oro De Ley / LUIS MIGUEL (SENTIMENTALに収録)

レギュラー出演番組

テレビドラマ

CM

著書

脚注

  1. ^ 2010年7月1日、「笑っていいとも!」(フジテレビ系)出演時に本人談。
  2. ^ 由来はウルトラマンAの主人公「北斗(星司)と南(夕子)」をみなみ鈴香と分け、本人が当時ファンだった前田日明の名の方の漢字を変えたもの。
  3. ^ 『人気ギャルママモデル&北斗晶がママの料理を応援』 2010年6月16日 モデルプレス

外部リンク