前輪駆動

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フロントエンジン・フロントドライブ概念図

前輪駆動(ぜんりんくどう、略: FWD = Front Wheel Drive)とは、車輪を有する輸送機器の駆動方式の一つで、前後の車輪のうち前方の車輪を駆動する方式である。前輪駆動と対比される駆動方式は後輪駆動である。

自動車では駆動輪に近い車体前方にエンジンを搭載されたものが多く、その場合はフロントエンジン・フロントドライブ (FF: Front-engine Front-drive)方式と呼ばれる。

概要

21世紀初頭時点では、乗用車を中心とする四輪自動車に広く用いられる。特に4気筒以下のエンジンを積んでいる車種の大半は前輪駆動、およびそれをベースとした4WD車である。トランスミッションエンジンの搭載方法は1970年代以降、主に横置き配置が用いられるようになっているが、それ以前からの歴史がある縦置きの例も若干が残っている。

「後部エンジン・前輪駆動」も前輪駆動に入るが、一般の自動車(乗用車やトラックなど)ではこのレイアウトにするメリットがないため存在しない。しかし、二輪駆動のフォークリフトでは、運転席下部や後部にエンジンを搭載し前輪を駆動する方式(MFおよびRF)が主流である。これは用途上バックで運転することが多いことと、重いエンジンをカウンターウエイトとして利用できるからである。また戦車にも近いものが存在する。

四輪自動車以外にも、オートバイオート三輪にも前輪駆動のものが稀ではあるが存在した。その多くは前輪真上ないし側面にエンジンを搭載し、チェーン駆動もしくはタイヤハブをローラーで摩擦駆動するものであったが、操縦性の制約や駆動摩擦力を得るための荷重不足によって一般化はしなかった。簡易車両が主流を占めたこれら前輪駆動オートバイの中でも特異な例外的大型車はドイツのレース用オートバイのメゴラ (de:Megola 1921) で、640ccの星型5気筒エンジンを前輪ハブ内に搭載し[1]、変速機やクラッチもなしに前輪を直接駆動した極めて異様なオートバイであった。

自転車は、19世紀、チェーンによる後輪駆動が確立される以前には、前輪を直接ペダル駆動するものが多かったが、後輪駆動車が普及してからはるか後年、リカンベントの一部、補助動力付き自転車の補助動力などで、前輪を駆動するものが出現している(この場合、後輪とあわせ前輪「も」駆動する自転車なので、詳しくは二輪駆動自転車を参照)。

沿革

最初の「前輪駆動」車といえる車は、1769年に作られた世界最初の自動車でもあるキュニョーの砲車であった。キュニョーの砲車は三輪(前1輪・後2輪)で前部に動力源(蒸気機関)を持ち前輪を駆動した(詳細はキュニョーの砲車を参照)。この当時はそもそも比較する対象がなかった(世界最初の自動車のため、参考とすべき他の方式が存在しなかった)ために前輪駆動・後輪駆動という分類自体が存在しなかったが、キュニョーが駆動・操舵系を前方に集中させた意図は、当時の荷車同様に固定2輪とした後部車台上に大砲を搭載するためであり、前輪駆動のメリットの一つであるスペース効率が当時からすでに企図されていたとも言える。いずれにせよ前輪駆動は自動車の歴史の中でもっとも古い方式であるが、蒸気自動車やその後の内燃機関式自動車ではなかなか主流にはなり得なかった。後輪駆動方式に比べ技術的な障害が多かったからである[2]

自動車が本格的に普及し始めた19世紀末は、プロペラシャフトのジョイント技術の未熟から、旋回時、舵角の付いた前輪に円滑に駆動力を伝達する手段が乏しかった。駆動輪を操舵しない後輪駆動方式でもサスペンションが上下するためプロペラシャフトのジョイントは曲げに対応する必要があったが、曲げ角の小さいユニバーサルジョイント(カルダン式自在継手)で十分だった。しかし前輪駆動方式のジョイントは旋回時のより大きな曲げ角に対応する必要がある。カルダン式自在継手を2つ組み合わせたダブルカルダン・ジョイントにすれば大きな曲げ角を得ることができるが、全長が長くなり、動作も自動車に使うにはぎこちなかった。

1950年代までの前輪駆動車は、後輪駆動車のプロペラシャフトにも使われる十字型ジョイント(カルダンジョイント)を二つ組み合わせたダブルカルダン・ジョイントか、その圧縮形態である「トラクタ・ジョイント」「L型ジョイント」しか使うことができなかった。それらはいずれも前輪駆動車のジョイントとしては耐久性や円滑性の面で不完全であった。

カルダン式よりも優れた能力を持つ、金属ボールをジョイント内に複数個配置し、ボールの面接触を利用することでジョイントが屈曲しても駆動力を等速伝達できるようにした「ボール・ジョイント」の着想は、すでに1920年代から現れており、1930年代には「ワイス・ジョイント」「ツェッパ・ジョイント」などとして実用化されていたが、精密加工を必要とするため極めて高価で採用は一部高級車に限られ、生産性や耐久性にも課題を抱えており、普及には至らなかった[2]

初期の前輪駆動車は、ジョイント技術の発達が普及の条件であった。その改良は、むしろ前輪駆動車よりも先行して普及した、後輪駆動構造を基礎とするパートタイム型四輪駆動車の、前輪用ジョイントの改良発展によって助けられた面がある。

前1輪のオートバイや三輪自動車では、小型のガソリンエンジンを直上に搭載し、チェーン駆動や車輪を直接ローラー駆動する軽便だが原始的な前輪駆動の事例が20世紀初頭から現れているが、エンジンの大型化や振動面で制約が多く、後輪駆動のオートバイや三輪車に対して優位を得られなかったために実用例はごく小型・低出力の車種に限定され、傍系の技術に留まっている。

初期の前輪駆動車

20世紀初頭に、ガソリン前輪駆動車の開発に取り組んだ先駆者は、のちの第一次世界大戦後に高速戦車開発で成功を収めたアメリカ合衆国発明家ジョン・W・クリスティーである。クリスティーは、1904年以降約10年間にわたって特異な前輪駆動車の設計に取り組み、1905年ヴァンダービルト・カップ1906年フランスグランプリなど、初期の大レースにも盛んに参加した。クリスティーの前輪駆動車は、巨大なV型4気筒エンジンを車両前部に横置きし(というより、横置きのエンジン全体がまるごと露出し)、そのエンジンのクランクシャフト両端にクラッチを介して直接左右の前輪を接続した、変速機も付かない極めて粗野な構造であった(ただしスライディングピラー式前輪独立懸架付きであった)。最大で19,981ccにも及んだ大出力エンジンにより高速を出したが、操縦が難しく、クリスティー本人も含む操縦者の重傷事故が多発、死者も出ている。

クリスティーはその後1909年に、市販を企図したタクシー向け前輪駆動車を開発した。それははるか後年のジアコーサ方式に似た、横置きエンジンと横置きトランスミッションを直列配置し、真下の前車軸に動力伝達する手法を採用、前輪独立懸架も採用していた。さらに1912年には既存の馬匹牽引式蒸気消防車の前方に前輪駆動の走行ユニットを組み付けるタイプの自走消防車も開発した。しかしクリスティーの開発した各種の野心的な前輪駆動車は、当時の技術水準に対して着想が高度すぎ、商業的にも高価で、いずれも成功しなかった。クリスティーは第一次世界大戦中に四輪駆動車からさらに戦車の開発に注力するようになり、前輪駆動車の開発からは離れた。

より現実性の高い、変速機と差動装置を一体化したトランスアクスルを備える洗練された前輪駆動車は、1920年代に現れる。四輪自動車の前輪駆動に関する理論的な解析は概して乏しい状態であったが、感覚的に「後輪による推進よりも、前輪による牽引の方が安定性に優れているであろう」と考えた技術者たちが、レーシングカーに前輪駆動を導入した。1925年から1926年にかけ、アメリカの自動車設計者であるハリー・ミラー (Harry Miller) による1.5リッター8気筒の「ミラー・レーサー」と、フランスの技術者ジャン=アルベール・グレゴワール (Jean-Albert Grégoire) およびピエール・フナイユ (Pierre Fenaille) による1.1リッター4気筒の「トラクタ・ジェフィ (Tracta Gephi)」が世に送り出された。

何れも低重心シャーシと過給器付き高性能エンジンとの組み合わせでポテンシャルは高く、前者はインディアナポリス500マイル耐久レースで数年間に渡り上位入賞、また後者はル・マン24時間レースに1927年は設計者自身の手で完走、1930年には1100ccクラスの1・2フィニッシュを達成するなど、サーキットで優れた成績を収めた。さらにその実績を活かして、ミラーは自動車ディーラーのエレット・ロヴァン・コードの依頼で大型高級車「コード L29」(1929年)を、グレゴワールは「トラクタ」の市販モデル(1927年)をそれぞれ開発したが、いずれも少量生産に終わっている[3]

また1920年代のアメリカでは、ミラーの成功に刺激され、大手自動車メーカーでも前輪駆動方式を検討するようになるが、ジョイントの問題から頓挫した。

これらを含めて第二次世界大戦以前に開発された初期の前輪駆動車の多くが商業的・技術的に成功しなかったのは、前輪を駆動するジョイントが円滑性・耐久性の面で未熟であったことや、前輪を車体最先端に置き、エンジンはそれより後方に退かせ縦置きするという、同時代の後輪駆動車に影響されたレイアウトを採っており、駆動輪の荷重不足で十分な駆動力を得られなかった[4]ことなどが原因として挙げられる[5]。ジョイントの制約から回転半径も大きくなった。

これ等とは別に前輪駆動が主のフォークリフトが、1920年代の米国で開発普及が始まっている。

前輪駆動車の普及へ

大衆向けの量産前輪駆動車の最初は、1931年にドイツで開発された500ccのDKW・F1である。この小さく経済的なミニカーの成功に続いて、アドラーも1932年発売の小型車「トルンプ」で前輪駆動を採用、1933年にはDKWと同じアウトウニオン・グループのアウディから前輪駆動の中級車アウディ UW 220が発売された。リアエンジンが流行していた当時のドイツであったが、アウトウニオンとアドラーは小型車での前輪駆動に傾倒し、他国のメーカーにも影響を与えた。

ドイツでのトレンドはフランスにも飛び火した。1934年に発表されたフランスの中型車シトロエン・トラクシオン・アバンは、従来同様に先端前輪の縦置きエンジン車ではあったが、前輪駆動のメリットを当時としては最大限に生かし、全金属車体の軽量低床構造などの先進設計も導入して高性能を達成、1957年まで長く生産された。第二次世界大戦以前の前輪駆動車としては最も成功した事例と言える。以後シトロエンは前輪駆動の先駆メーカーとして広範な車種に前輪駆動を採用した。

同時期、後輪駆動車にも共通して、車両前方に50%かそれ以上の荷重をかけて直進性を高めるアンダーステア型の重量配分が普及するようになり、小型前輪駆動車ではエンジンを前車軸上や前車軸前方へのオーバーハングに配置して、駆動力不足を克服する傾向が生じた。これによって第二次世界大戦後に至り、ヨーロッパの小型乗用車には、引き続き等速ジョイントの性能問題を抱えながらも、徐々に前輪駆動が広まっていった。

イシゴニス方式とジアコーサ方式、等速ジョイント

世界の大衆車に前輪駆動が広く普及するきっかけを創ったのは、1959年に発表されたイギリスBMCミニとされる。それまで前輪駆動は縦置きレイアウトがむしろ主流であったが、ミニは、エンジンを横置きにし、その下にトランスアクスルを置いて二階建てに配置する方式を採用した。この横置きエンジン二階建て構造は、開発者アレック・イシゴニスの名を採ってイシゴニス方式と呼ばれる。

ミニがこのような配置を採ったのは、前後長(横置きなので幅ともいえる)がそれほど短くない既存の直列4気筒エンジンをコンパクトなエンジンルームに納めねばならない制約からである。それ以前にも直列2気筒前輪駆動車に横置きエンジン配置の先例は多々あったが、直4エンジンを横置き配置するという着想は、プロペラシャフトのあるFR車では容易に採用し得ない手法であり、前輪駆動方式に著しいスペース節減効果の可能性があることを実証した。

ミニのブレイクスルーの背景には、等速ジョイントの改良も大きく寄与している。フォードエンジニアであったアルフレート・ハンス・ツェッパ(英語版WP)が1938年に考案し、その後イギリスのバーフィールド社によって開発され、ミニで採用された「バーフィールド・ツェッパ・ジョイント」は、完全な実用性を備える量産型のボール式等速ジョイントであり、操舵時の大きな屈曲角でも円滑に駆動力を伝えることができ、長年にわたる前輪駆動車の課題を克服するものであった。

ミニのバーフィールド・ツェッパ・ジョイントは条件の厳しい車輪側に採用されたものであり、車体側(差動装置側)には在来型のカルダン・ジョイントや、不等速型ながら車体側に使用する場合は一応の実用水準を持った三叉型の「トリポッド・ジョイント」が用いられていた。それらを性能面で上回り、差動装置側での使用に適した「伸縮性」を持つボール式等速ジョイントは、バーフィールドの原案に基づき、東洋ベアリング(現:NTN)が「ダブルオフセット・ジョイント」(DOJ)として実用化した(1966年〈昭和41年〉のスバル・1000向けが最初)。

これらのボール式等速ジョイントの改良は、さらなる前輪駆動車の普及に貢献し、1960年代欧州車を皮切りに、急速に世界の自動車メーカーが多くの小型車を前輪駆動化した。

ここから更に一段飛躍し、1969年発表のイタリアフィアット・128は、トランスミッションと直列4気筒エンジンを一直線に繋ぎ横置きするという方式を採用した。こちらも開発者ダンテ・ジアコーサ (Dante Giacosa) の名を採ってジアコーサ方式と呼ばれた。この方式は、最初から横置きを前提とした長さ(幅)の短いデフ一体型のトランスアクスルを新たに開発する事で可能になったのである。ジアコーサ方式はイシゴニス方式よりも設計の自由度が高く、低コストな前輪駆動方式の決定的なシステムとなった。

現在では多くがフィアット・128に倣ったジアコーサ式の横置きレイアウトを踏襲するが、縦置きにこだわり続けるメーカーも存在し、アウディと富士重工業 (現: SUBARU)がよく知られている。縦置きは四輪駆動化し易いレイアウトであり、両社とも四輪駆動車を付加価値としている。両社ともエンジンの後方に前車軸を跨ぐようにしてトランスアクスルを配置するレイアウトを採っているが、このような構造は後輪駆動車をベースに四輪駆動としたものと比較して、独立したフロントデフケース及びトランスファーとフロントデフを連結するプロペラシャフトを必要としない為、部品点数を少なくできるメリットも存在する[6]。過去には、サーブルノートヨタ[7]などが1980年代前半まで縦置きの前輪駆動車を製造していた。しかし、それらの車種も、その後継車(または発展型)ではすべて横置きレイアウトに変更された。

アメリカ車では1966年のオールズモビル・トロネードが、V型8気筒エンジンとトランスミッションを平行に配置して縦置きする「ユニタイズド・パワーパッケージ」と称する手法を採用した。エンジンとトランスミッション間の駆動力は大容量の特殊なチェーンドライブにて伝達され、トランスミッションに直付けされたフロントデフにより前車軸へ駆動力が分配された。この方式はゼネラルモーターズ内の他部門における後輪駆動車向け量産オートマチックトランスミッション(AT)を、内部構造はほぼそのままで共用できるという利点があった。オールズモビルはトロネードを敢えてAT専用車とする事で、チェーンドライブ部分の構造を簡素化し、後輪駆動車よりはるかにコンパクトなパワーユニットの実現に成功した。同様の構造は1973年-78年までのGMC・モーターホーム英語版、1967年以降のキャデラック・エルドラド、1979年以降のビュイック・リヴィエラでもほぼそのままの形で採用され、トロネードのパワーユニットが横置き式に全面変更される1986年まで存続していた。

ホンダは、最初に製造した前輪駆動車(1967年〈昭和42年〉のN360)から横置レイアウトであったが、1989年平成元年)に発売したアコード・インスパイアでは、あえて当時既に珍しくなっていた縦置きレイアウトを採った。その後レジェンドなども同様のレイアウトを採ったが、現在ではすべて横置きに変更されている。

前輪駆動は、オイルショック以降の省燃費志向を背景として、小型車のみならず大排気量の乗用車にも広がったが、その場合にネックとなる重量の負担と、駆動力による姿勢変化の難(タックインやトルクステア等)は、同時期に普及の進んだパワーステアリングの助けとサスペンションの改良、タイヤの高性能化によってある程度改善されている。

長所

  • 荷重が前輪に多くかかるため直進時の安定性が良く雨や雪などの悪天候下でも走行安定性が高い。RR方式の次にトラクションが得やすい。そのため低ミュー・低速域のラリーでは後輪駆動よりも優れた成績を残すことが多い。
  • 床下にプロペラシャフトや独立したディファレンシャル・ギアボックスが不要なため、部品を減らせる事から車両重量を軽減でき、低床・平床化が図れる。
  • 横置きエンジンの場合はパワートレインの省スペース化により、車体長の短縮と車室の拡大が容易。
  • パワートレインのモジュール化が可能で、組み立て時間の短縮や、車種を超えた流用も容易。
  • 駆動力を負担しないリアサスペンションの構造を簡素化できる。
  • モジュール化によって多くの自動車に採用されるようになり、それにより多くの実験結果が得られ、開発期間を短縮できる。
  • 駆動力を伝達する部品が少なく、さらに横置きエンジンの場合は伝達軸がすべて平行であることから、伝達損失が少なく省燃費走行にも向くとされて、エコカーなどにも積極的に採用される。

短所

後輪駆動の各方式に比して独特の短所が存在するが、技術の向上によって年々克服されつつある。

  • 駆動力と旋廻力を同時に前輪が負担するため、
    • 旋回時のクセ、いわゆるアンダーステア特性やタックイン傾向が避けられない(サスペンションとタイヤの改良により、実用上はほぼ問題のないレベルの操縦性を得ているが、他の方式に比べると運動性が劣る)。
    • 高出力・大車重に向かない(現在でも日本メーカーのFF車では280PS未満が多い)。
  • 後輪駆動に比して低級振動が出やすいため、高級車に採用しにくい傾向がある。特に横置きの場合、車体の曲げ方向に働く振動(エンジンによるバイブレーションやスナッチ)を抑えることが難しいが、最近では電子制御エンジンマウントの普及もあり、振動減少に大きく貢献している。
  • 駆動力の着力点と装舵の着力点のずれによるワンダリングが発生しやすい。
  • 横置きエンジンの場合、操舵中に角度のついた自在継ぎ手に力が加わることによりトルクステアが発生する(エンジン縦置き配置採用や、横置き配置でも左右ジョイントの位置を車体中央から見て同一距離に設定にするなどして、ドライブシャフトを左右均等な長さにすることでも解消できる。パワーステアリングの普及で問題は更に軽減されている)。
  • 乗用車の場合、直列6気筒以上のエンジンを横置き配置するにはスペースの面から実用上制約が伴う。
  • 縦置き、横置きにかかわらず、自在継手を用いる構造から、前輪の切れ角が大きくとれず、旋回半径が他の方式と比べて大きくなりがちで取り回しが悪い(克服には相当に特殊な構造の等速ジョイントを与える必要がある)。
    • 自在継手を用いない前輪駆動・後輪操舵のフォークリフトの操舵車輪切れ角は大きくとれ、旋回半径が小さく取り回しが良い。
  • 前輪に荷重が集中するため、後輪にかかるトラクションが少なくなる。そのため凍結路、特に坂道でスリップした場合、後輪駆動と同様に発進が困難になりがちである。積雪地及び寒冷地ではスタッドレスタイヤと金属製チェーンの併用や、あるいは前輪だけをスパイクタイヤに交換するユーザーも存在する。

モータースポーツ

WTCCTCRのようなツーリングカーレースでは、前輪駆動の4ドア車で争われている。BTCC後輪駆動との混走だが、調整により互角に戦うことができる。

ラリーではWRC3JWRCERC3APRC3などが二輪駆動車であることを義務付けているが、ごく僅かな例を除いた全てのメーカーが前輪駆動車を採用している。これは低ミューな路面やツイスティなコースの多いラリーでは、後輪駆動よりも有利なためである。また多大な性能調整の恩恵を受けてはいるものの、1999年WRCのターマックラリーで、フィリップ・ブガルスキーの駆る前輪駆動のF2キットカーが、四輪駆動WRカーを破って2度総合優勝したことがある。

また、プロトタイプレーシングカー日産・GT-R LM NISMOは、“空力を優先しデザインに自由度を持たせるため”として、前輪駆動を採用している。

脚注

  1. ^ インホイールエンジンとも呼ばれる。元々は初期の航空機に見られたロータリーエンジン(回転式星形エンジン)の技術応用である。
  2. ^ a b 武田隆 『世界と日本のFF車の歴史』 グランプリ出版 2009年5月25日 p.9-11, 32, 33
  3. ^ 若手設計者コンビによる小型レーサー「トラクタ」開発で前輪駆動が導入されたのは、資産家で主たる出資者でもあったフナイユが「前輪駆動に優位がある」と(根拠もなく直感で)強硬に主張したためである。彼は前輪駆動車用に、不等速型ジョイントで耐久性に難があるが、コンパクトで製造しやすい「トラクタ・ジョイント」も考案した。後輪駆動を想定していたグレゴワールはフナイユの主張にやむなく前輪駆動車を設計したが、完成した試作車を運転して高いポテンシャルに驚嘆し前輪駆動派に転向、以後1950年代に至るまでのフランス自動車界で、前輪駆動車開発を主導した。
  4. ^ 例えば前車軸が車体最先端に位置したコード・L29の場合、前後輪の荷重比率は38:62で、駆動輪である前輪荷重の不足が甚だしかった。前輪駆動車の駆動力不足は、特に発進時や登坂路で顕著な問題となった。その教訓により、後年のシトロエン・DS(1955年)は前輪荷重比率を70%近くにまで高めて十二分な駆動力を確保しており、また富士重工業が1960年代に前輪駆動導入を研究開始した際には、実車試験によって、前輪荷重比率60%程度以上を確保できれば後輪駆動車と遜色ない実用駆動力が得られることを確認している。
  5. ^ 後年ホンダFFミッドシップを提唱してエンジン位置を後退させた前輪駆動車を市販したが、初期前輪駆動車と同様な問題を露呈して長続きしなかった。
  6. ^ http://toyokeizai.net/articles/-/105134 スバルの4WDが雪国で圧倒的に愛される理由 - 森口将之東洋経済オンライン、2016年02月18日。
  7. ^ ターセルコルサなど。

関連項目