冬月 (駆逐艦)

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艦歴
計画 1941年度(マル急計画
起工 1943年5月8日
進水 1944年1月20日
竣工 1944年5月25日
除籍 1945年11月20日
その後 戦後工作艦任務
1948年5月一部解体
船体は北九州若松港の防波堤
要目(計画)
排水量 基準:2,701英トン
公試:3,470トン
全長 134.2m
全幅 11.6m
吃水 4.15m
機関 ロ号艦本式缶3基
艦本式タービン2基
2軸 52,000馬力
速力 33.0ノット
航続距離 18ノットで8,000海里
燃料 重油:1,080トン
乗員 263名/307名[1]/343名[2]
兵装
(1944年[3]
65口径10cm連装高角砲 4基8門
九六式25mm機銃 3連装5基
同単装12挺
61cm4連装魚雷発射管 1基4門
九三式魚雷8本)
九四式爆雷投射器2基
九五式爆雷 54個
電探
(1944年[3]
21号電探1基
13号電探1基[4]
水測兵装 九三式探信儀1基
九三式水中聴音機1基[5]
1945年4月7日、天号作戦での冬月。後部高角砲発砲の瞬間。後方は戦艦大和。アメリカ軍撮影。

冬月(ふゆつき)[6]は、日本海軍駆逐艦一等駆逐艦秋月型の8番艦である。

秋月型は、この冬月以降で船体各部形状の簡略化・艦橋の大型化などの変更が加えられたため冬月型として区分する分類法もあるが、日本海軍による分類は「秋月型駆逐艦」である[7]。 艦名は片桐大二の研究によれば「[8]。 艦名は海上自衛隊の護衛艦「ふゆづき」に継承された。

艦歴

1941年(昭和16年)度計画(マル急計画)による乙型一等駆逐艦の第361号艦として、舞鶴海軍工廠1943年(昭和18年)5月8日に起工された[9]。当初は三菱長崎造船所で建造される予定であったが、艦型変更と線表改訂により舞鶴での建造に変更された[10]。また当時の舞鶴海軍工廠は夕雲型駆逐艦の複数隻の建造(第345号艦は早霜)や、損傷艦船(不知火初春巻波名取木曾等)の修理を抱えていた[11][12]。 10月1日、本艦は正式に冬月と命名された[13]。同日附で冬月は秋月型駆逐艦に類別された[7]1944年(昭和19年)1月20日に進水[12]。同日附で横須賀鎮守府に入籍[14]。4月21日附で、横田保輝少佐(駆逐艦太刀風沈没時駆逐艦長)が本艦臨時艤装員長に任命される[15]。 4月28日、舞鶴海軍工廠では、冬月に先駆けて松型駆逐艦1番艦が竣工していた(松は昭和18年8月8日起工、昭和19年2月3日進水)[16]。 5月5日、横田少佐は冬月艤装員長の職務を解かれた(5月15日附で陽炎型駆逐艦12番艦浦風駆逐艦長へ転出、浦風の沈没時に戦死)[17]。後任の艤装員長として作間英邇中佐(吹雪型駆逐艦綾波沈没時艦長等)が着任した[18]。本艦は同年5月25日に竣工した[19][20]。同日附で、佐間中佐は正式に冬月初代駆逐艦長となる[21]

就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊高間完少将海軍兵学校41期)に編入された。瀬戸内海に回航され訓練に従事、6月22日、第4号輸送艦第104号輸送艦とともにを出撃して横須賀に向かう[22]。機銃増備工事を受けた後[23]小笠原諸島方面への輸送作戦である『伊号作戦輸送』に従事し、第十一水雷戦隊旗艦軽巡洋艦長良、駆逐艦、第4号輸送艦とともに第一輸送隊を編成し[24]、6月29日に横須賀を出撃[25]父島で輸送物件を揚陸後、7月1日に第4号輸送艦とともに父島を出港し[26]、7月3日に横須賀に帰投した。長良、駆逐艦清霜とともに東京湾で短期間訓練を行った後[27]、7月9日に横須賀を出港して7月11日に呉に到着した[28]

第四十一駆逐隊

7月15日附で、秋月型駆逐艦2隻(霜月、冬月)により第41駆逐隊が、松型駆逐艦4隻()により第43駆逐隊が、それぞれ編制される[29]。第41駆逐隊司令には駆逐艦雪風駆逐艦長や第21駆逐隊司令等を務めた脇田喜一郎大佐、第43駆逐隊司令には菅間良吉大佐が任命された[30]。 その前後には沖縄方面への輸送作戦『呂号輸送作戦』に参加する。247名の人員と47トンの物件を搭載し[31]、7月15日に中津湾を出港。中城湾に到着後、駆逐艦3隻(冬月、清霜、竹)は南大東島への緊急輸送を行った[32]。中城湾を経て7月20日に瀬戸内海に帰投するが、帰投後にディーゼル発電機のクランクシャフト折損が判明する[33]。しかし、翌23日には出動訓練に加わった[34]

8月1日、姉妹艦の霜月、竣工間際の空母雲龍、防空仕様に改装中の軽巡洋艦五十鈴とともに第七基地航空部隊急襲部隊に編入される[35][23]。8月11日に呉を出港し、8月13日に横須賀に到着[23]。横須賀方面で待機するもさしたる出番はなく、9月21日から25日の間に横須賀海軍工廠に入渠[36]。9月27日に呉に帰投した[23]

10月6日に再び呉を出港して横須賀に向かい[37]、10月12日に霜月とともに軽巡洋艦大淀を護衛して横須賀を出港し、大分に向かうが[38]同日夕刻、御前崎の173度80海里の遠州灘に差し掛かったところで[38]アメリカの潜水艦トレパン (USS Trepang, SS-412) の魚雷攻撃を受けた。トレパンは相手を2隻の扶桑型戦艦と2隻の秋月型駆逐艦と判断し、魚雷を6本発射して戦艦と駆逐艦に1本ずつ命中させたと判定した[39]。続いて艦尾発射管から二度目の攻撃を行ったが、この攻撃は失敗した[40]。魚雷は冬月の艦首に命中し、18番フレームより先が折損して垂下した[41]。戦死者1名[42]。辛うじて14ノットで自力航行が可能であり[37]、10月15日に呉に入港し呉海軍工廠にて修理が行われた。このため、レイテ沖海戦には参加できなかった。また修理の際、冬月の艦首形状は直線型に改められた[37]。冬月の被雷から5日後の10月18日、レイテ方面輸送作戦に従事すべく九州沿岸を南下中の姉妹艦涼月も米潜水艦の雷撃で艦首を喪失、2隻は呉軍港に並んで艦首を修理することになった[42]

冬月修理中の11月15日、第十戦隊の解隊(十戦隊司令官木村進少将免職)により[43]、第41駆逐隊は第二水雷戦隊(司令官不在[44])に編入された[37]。同日附で第61駆逐隊が解隊され、第41駆逐隊に秋月型2隻(涼月若月)が編入される[45]。ただし若月は11月11日にフィリピン方面で沈没しており(多号作戦)、第41駆逐隊への編入は書類上の事である[46]

冬月の修理は11月18日頃に終わった[47]。11月20日、第一水雷戦隊の解隊と二水戦統合に伴い、同隊司令官木村昌福少将は第二水雷戦隊司令官に任命される[48]。11月23日、駆逐艦3隻(冬月、涼月、)はマニラ方面への『緊急輸送作戦』に従事する空母隼鷹を護衛して呉を出撃[49][50]。冬月航海中の11月25日、姉妹艦の霜月が米潜水艦カヴァラ (USS Cavalla, SS/SSK/AGSS-244)の雷撃によって撃沈され、脇田駆逐隊司令も戦死した[51]。 隼鷹隊は11月30日にマニラに到着して軍需品を陸揚げしたあと、12月3日に馬公に到着[49]。日本に戻る途中の金剛型戦艦3番艦榛名(艦底損傷中)と合流する[52][53]。12月6日、馬公を出港して日本本土に向かう[49]。しかし、12月9日未明の佐世保に入港直前、部隊は野母崎沖でアメリカ潜水艦のウルフパックに発見された。隼鷹はレッドフィッシュ (USS Redfish, SS-395) の魚雷が2本命中して中破[49]、続いて槇がシーデビル (USS Seadevil, SS-400) かプライス (USS Plaice, SS-390) の雷撃で損傷した[49]。この輸送作戦の際、「涼月」ともども荒天に見舞われた際に船体にシワが発生(四番砲塔の後方両舷外鈑附近)、隼鷹も甲板を損傷した[54]

12月12日に呉に帰投後、12月27日まで呉海軍工廠で修理が行われ修理完了後は瀬戸内海で訓練を行った[37]。艦長が酔ったまま操艦し、座礁する一幕もあったという[55]。この頃、艦橋左右に機銃台を設置し、25mm3連装機銃2基を増設、全体で7基となった。電探も22号電探が1基、13号電探が2基となった。 1945年(昭和20年)1月3日、第二水雷戦隊司令官は木村少将から古村啓蔵少将へ交代[56]。 1月10日、霜月、若月の2隻は第41駆逐隊から除籍され、同隊は秋月型2隻(冬月、涼月)となった[57]。 3月1日附で佐間大佐(冬月駆逐艦長)は第43駆逐隊司令へ転出、山名寛雄中佐(満潮型駆逐艦駆逐艦長)が冬月の二代目駆逐艦長に任命された[58]。また第41駆逐隊司令として吉田正義大佐(夕雲型駆逐艦風雲艦長等)が着任[58]。冬月に将旗を掲げた[59]

3月19日、呉軍港空襲で対空戦闘を行った[60]。3月23日から27日まで呉海軍工廠第四船渠に入渠[61]。出渠後は大和型戦艦1番艦大和を中心とする海上特攻隊(指揮官伊藤整一中将・海兵39期)とともに三田尻沖に移動した。事前の研究会で、大和を護る能力を持つ艦は長十㎝高射砲を装備する秋月型2隻(冬月、涼月)しかなく、輪形陣の防空に大きな期待をかけることは出来ないことが確認されたが、輪形陣の半径を1.5~2kmとする以上の妙案はでなかった[62]。対空戦闘に備え砲塔の外周をロープでかこむなどの準備を行う[63]。29日、大和、冬月は紫電改第三四三海軍航空隊所属)を敵機と間違えて誤射した[64]

坊ノ岬沖海戦

4月6日、第二水雷戦隊(司令官古村啓蔵少将:軽巡矢矧、第17駆逐隊《磯風雪風浜風》、第21駆逐隊《朝霜初霜》、第41駆逐隊《冬月、涼月》)は菊水作戦にともなう第二艦隊(司令長官伊藤整一中将:旗艦大和)の海上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加し、徳山沖を出撃[59]。第二艦隊は連合艦隊(司令長官豊田副武大将)より4月8日朝の沖縄突入を艦隊の航路と通過時刻付きで命令されており[65]、失敗が目に見えている作戦に第二水雷戦隊側は最初から諦めていたという[66]

翌4月7日、海上特攻隊はアメリカ第58任務部隊マーク・ミッチャー中将)の艦載機による空襲を受けた。本格的な戦闘になる前、機関故障により落伍していた朝霜が集中攻撃を受けて撃沈されていた[67]。第二水雷戦隊の戦闘詳報には『冬月三〇度方向ニ朝霜交戦中ラシキ砲煙ヲ認ム』と記録されている。8隻となった第二水雷戦隊は、軽巡《旗艦》矢矧が輪形陣の先頭に立ち、大和の右舷後方(左舷後方)に冬月(涼月)が占位した[68]。だが回避行動を優先するため、輪形陣はすぐに崩れて個艦での対処を余儀なくされる[69]。護衛艦は次々に被弾し、矢矧、霞が航行不能、浜風が轟沈、磯風は矢矧の巻き添えとなり機関室が浸水(速力低下)、涼月も被弾により大火災となった。一方、冬月はロケット弾2発を受けたがいずれも不発ですみ、主砲発令所(戦死1名)と第一缶室(戦傷者なし)に被害が出た[70][71]。このため長10㎝高角砲の統一射撃ができなくなり、各砲塔の独自照準となった[72]。機銃掃射により戦死者12名を出したが、佐世保帰投後に20名が死亡したとされる[71]。また魚雷1本(数本とも)が艦底を通過しており[72]、冬月を重巡洋艦と間違えて魚雷深度を5-6m(冬月の吃水4m)に調整した為とみられる[71]

冬月は大和の左舷に位置してアメリカ軍機と交戦したが、午後2時すぎになると大和の沈没は時間の問題となった[73]。吉田司令によれば、大和が戦闘不能の場合冬月が横付けして乗組員を救助する取り決めだったが、大和転覆が近いと見た吉田は様子を見る事にしたと回想している[70]。冬月は惰性で進む大和の後方を航行し、大和の転覆と爆沈を見届けた[74]。大和の沈没後、吉田司令は冬月より『1141ヨリ数次ニ亙ル敵艦上機大編隊ノ攻撃ヲ受ケ、大和、矢矧、磯風沈没。浜風、涼月、霞航行不能、其ノ他各艦、多少ノ損害アリ。冬月、初霜、雪風ヲ以テ生存者ヲ救助ノ後再起ヲ計ラントス』と発信した[75]。古村二水戦司令官はこの時点で漂流中のため、吉田司令が冬月より遊撃部隊の指揮をとった。このとき雪風の艦長の寺内正道中佐が「人員はこのままにして沖縄に突入すべし」と意見具申したため、吉田司令は信号で寺内艦長を叱りつけている[66][76]。またPBYカタリナ飛行艇2機が着水してアメリカ軍墜落機の救助をはじめ、これに対し冬月が発砲する一幕もあった[77]

冬月は装載艇をおろして森下信衛第二艦隊参謀長や吉田満少尉以下大和生存者約100名を救助[78]、つづいて航行不能の霞の救援に向かった。冬月は霞に接舷して乗員を救助後、同艦を雷撃で処分した[79]。山名(冬月)艦長は3ヶ月前まで霞の駆逐艦長だった[80]。 さらに3隻(冬月、初霜、雪風)は矢矧の沈没地点へ向かい、乗組員を救助した。17時20分、二水戦司令官古村啓蔵少将は初霜に救助され[81]、遊撃部隊の旗艦は冬月(吉田41駆司令)から初霜(古村司令官)に移った[82]。古村少将は初霜より冬月に『涼月ヲ護衛シ至急佐世保ニ回航セヨ』と命ずるが、同時に『状況ニ依リテハ涼月ヲ処分シテ差支ナシ』とも通達している[83]。冬月は涼月を発見できぬまま佐世保へ向かった。また、雪風は磯風の曳航準備を進めていたが[84]、初霜からの命令により磯風を自沈処分にした[85]。記録によれば、冬月は大和・矢矧・霞乗組員合計約600名以上を救助した[86]

4月8日朝、冬月は各隊に単独帰投中の涼月の掩護を要請した[87]。3隻(初霜、雪風、冬月)は同日午前中に佐世保に帰投した[88]。午後、涼月は単艦で佐世保に帰投した[89]。冬月は4月10日から16日まで佐世保海軍工廠 で修理が行われ[90]、4月20日の第二水雷戦隊解隊に伴って第三十一戦隊鶴岡信道少将・海兵43期)に編入された[91]。 5月20日、第41駆逐隊に秋月型10番艦宵月が編入された[92]。 5月25日には秋月型11番艦夏月が第41駆逐隊に編入される[93]。同日附で第41駆逐隊は第七艦隊岸福治中将・海兵40期)の指揮下に入り、関門海峡対馬海峡方面の哨戒に任じた[94]。6月1日に門司港に回航され係留される。B-29の機雷封鎖戦術飢餓作戦)により冬月の行動も制限され、冬月が航行した後に爆発した機雷もあったという[95]。 7月5日、涼月は第41駆逐隊から除籍され予備艦となった[96]。 7月23日夜、関門海峡への機雷投下作戦で飛来したB-29 の編隊に対して対空射撃を行い、そのうちの1機を撃墜した[97]。夜間対空戦闘で1機を撃墜、1名を捕虜にしたとされる[98]

8月15日、終戦の日に第17駆逐隊は解隊され、同隊所属だった不知火型駆逐艦雪風が第41駆逐隊に編入された[99]。冬月は玉音放送を門司港で迎えた[100]。8月20日、呉へ移動を命じられ、門司を出港する[101]。曳船で埠頭から離れたたところ、直後に触雷して5名が戦死、負傷者多数[101]。後部兵員室より後方を亡失し、航行不能となった[102]。9月20日付で第四予備艦となり[37]、11月20日に除籍[103]1946年2月25日、冬月は特別輸送艦に指定された[104]が復員輸送に従事せず工作設備を搭載して工作艦となり、掃海部隊の支援任務に就いた[102]。同港は機雷掃海艦の一大拠点だった[102]。 冬月は任務終了後、佐世保へ回航される。1948年(昭和23年)5月1日から31日にかけて[103]、旧佐世保海軍工廠の佐世保船舶工業で一部を解体、冬月の船体は涼月、柳(桃型駆逐艦)とともに福岡県北九州市若松区若松港の防波堤として利用された。現地では軍艦防波堤と呼ばれたが、その後埋められた。現在は響灘臨海工業団地内の若松運河出口付近に、柳の船体の一部と案内板を見ることができる。一方、冬月と涼月の船体は完全に埋めたてられていて確認することはできない。

歴代艦長

※脚注なき限り『艦長たちの軍艦史』358頁による。

艤装員長

  1. (臨時)横田保輝 少佐:1944年4月21日[15] - 1944年5月5日[18](本職:第十戦隊司令部附)
  2. 作間英邇 中佐:1944年5月5日[18] -

駆逐艦長

(注)1945年12月20日以降は「艦長」[105]

  1. 作間英邇 中佐:1944年5月25日[21] -
  2. 山名寛雄 中佐:1945年3月1日[58] - 1945年9月21日[106]、以後1946年3月1日まで艦長を置かず。
  3. 山根灌 第二復員官/第二復員事務官:1946年3月1日[107] - 1946年4月16日[108]
  4. 玉井吉秋 第二復員事務官:1946年4月16日[108] - 1946年4月26日[109]
  5. 平山敏夫 第二復員事務官:1946年4月26日[109] - 1946年5月12日[110]
  6. (兼)由川周吉 第二復員事務官/復員事務官:1946年5月12日[110] - 1946年12月23日[111] (本職:博多上陸地連絡所長→博多運航部長)

脚注

  1. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127100, pp.53
  2. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.8
  3. ^ a b 機銃、電探数は『日本駆逐艦物語』281ページの「あ号作戦後の駆逐艦兵装状況一覧表」による。1944年8月7日の調査。
  4. ^ 終戦時は22号電探1基、13号電探2基。
  5. ^ 秋月型駆逐艦では水中聴音機は後日装備とされたが、秋月が1943年10月末までに装備していることが確認されているので冬月は竣工時から装備済であると推定できる。『秋月型駆逐艦』39ページ・98~99ページ、『日本の軍艦11』158ページによる。
  6. ^ 海軍公報「10月(1)」pp.1 (「昭和18年10月1日付 海軍大臣達第235号)。片桐はその著書p.356にて読みを「ふゆづき」としているが、その根拠は示していない。
  7. ^ a b #内令昭和18年10月(1)p.1『内令第二千二十六號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス|昭和十八年十月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等秋月型ノ項中「霜月」ノ下ニ「、冬月」ヲ加フ|潜水艦、一等伊十型ノ項中「伊號第十二」ノ下ニ「、伊號第十三」ヲ加フ|同二等呂三十五型ノ項中「呂號第四十九」ノ下ニ「、呂號第五十」ヲ加フ|海防艦、御蔵型ノ項中「千振」ノ下ニ「、草垣」ヲ加フ|掃海艇、第十九號型ノ項中「第三十三號」ノ下ニ「、第三十八號、第四十一號」ヲ加フ|驅潜艇、第十四號型ノ項中「第五十四號、」ノ下ニ「第五十五號、」ヲ加フ』
  8. ^ 片桐, 356ページ
  9. ^ #S1806舞鎮日誌p.5『(二)造修(1)新造艦船工事 早波、濱波 艤装工事豫定通進捗中/沖波 船臺ニ在リテ罐及主機械積込中/第三四五號艦 船臺ニ在リテ建造工事豫定通進捗中/第三六一號艦 五月八日起工目下船臺ニ在リテ船殻工事中』
  10. ^ 遠藤, 213、214ページ
  11. ^ #S1806舞鎮日誌p.5『(2)修理工事(a)損傷復舊工事/霞 損傷復舊工事ニ併セ重油タンク加熱装置施行三十日完成/不知火、初春 船渠内ニ於テ損失部結合工事中/巻波、太刀風 概ネ予定通工事進捗中/名取 六月一日入港工事中ナルモ資材入手ノ関係上明年五月末完成ノ見込』
  12. ^ a b #S1901舞鎮日誌p.9『(a)新造艦船 早霜 艤装中/冬月 一月二十日進水艤装中(略)|(b)損傷艦船 名取(一九.五末)木曾(一九.二末)何レモ附記期日完成豫定ヲ以テ復舊工事極力促進中/長良 二十六日入港損傷復舊工事中|(c)霞十八日、呂四〇潜二十日整備完了出撃ス』
  13. ^ #達昭和18年10月(1)pp.1-2『達第二百三十五號 昭和十七年度及昭和十八年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦一隻、潜水艦二隻、海防艦一隻、掃海艇二隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十八年十月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|舞鶴海軍工廠ニ於テ検図 驅逐艦 冬月(フユツキ)|川崎重工業株式會社ニ於テ建造 伊號第十三潜水艦|三井造船株式會社ニ於テ建造 呂號第五十潜水艦|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 海防艦 草垣(クサガキ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 第三十八號掃海艇 第四十一號掃海艇|函館船渠株式會社ニ於テ建造 第五十五號驅潜艇』
  14. ^ #内令昭和19年1月(4)p.39『内令第百七十五號 驅逐艦 冬月 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル 昭和十九年一月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  15. ^ a b 昭和19年4月21日(発令4月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1436号 p.27」 アジア歴史資料センター Ref.C13072097400 
  16. ^ #S1904舞鎮日誌p.8『(a)新造艦船 松 兵装艤装竝ニ諸公試完了四月二十八日引渡ヲ了ス/冬月 艤装中/桃 同/第三六六號艦 第五四八八號艦}船臺ニ在リテ船殻工事中/第二四三一號艦四月一日、第五四九二號艦四月十日起工(以下略)』
  17. ^ 昭和19年5月15日(発令5月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1471号 p.8」 アジア歴史資料センター Ref.C13072098200 
  18. ^ a b c 昭和19年5月5日(発令5月5日付)海軍辞令公報(部内限)第1461号 p.3」 アジア歴史資料センター Ref.C13072098100 
  19. ^ #秋月型(潮2015)81頁
  20. ^ #S1905舞鎮日誌pp.7-8『(a)新造艦船 冬月 兵装艤装竝ニ諸公試完了五月二十五日引渡ヲ了ス/桃 艤装中/第三六六號艦 第五四八八號艦 第二四二一號艦}船臺ニ在リテ船殻工事中(以下略)』
  21. ^ a b 昭和19年5月28日(発令5月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1486号 p.17」 アジア歴史資料センター Ref.C13072098300 
  22. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127400, pp.19,20
  23. ^ a b c d 遠藤, 214ページ
  24. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127400, pp.23
  25. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127400, pp.45
  26. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.3
  27. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.23,24
  28. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.62
  29. ^ #内令昭和19年7月p.21『内令第八百六十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年七月十五日 海軍大臣|第三十二驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ二項ヲ加フ |第四十一驅逐隊|霜月、冬月|・|第四十三驅逐隊|梅、竹、松、桃| 』
  30. ^ 昭和19年7月21日(発令7月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1541号 p.7」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100100 
  31. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.33
  32. ^ 『ろ号作戦輸送部隊任務報告』pp.7
  33. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.46
  34. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.64
  35. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.57
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  46. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録142頁『早くも僚艦若月沈没』
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  57. ^ #秘公報昭和20年1月(2)p.7『昭和二十年一月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四驅逐隊ノ項ヲ削ル|第七驅逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル|第三十驅逐隊及第三十一驅逐隊ノ各項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル』
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  62. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録163、213頁(冬月砲術長は集団防御について否定的で、個艦防御優先を主張した)
  63. ^ #最後の水兵52頁
  64. ^ #最後の水兵53頁では撃墜としているが、2機が損傷して高度を落とした。紫電改は遠方から見るとF6Fヘルキャットと似ている。
  65. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録170.216頁(森下信衛参謀長談)
  66. ^ a b #佐藤 艦長続編(文庫)108頁
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  70. ^ a b #佐藤 艦長続編(文庫)106-107頁
  71. ^ a b c #駆逐艦隊悲劇の記録198-200頁『冬月・凉月の奮戦』
  72. ^ a b #最後の水兵57頁
  73. ^ #最後の水兵59頁
  74. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録208-209頁、#最後の水兵59頁
  75. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)108頁(沈没していたのは浜風で、磯風は航行不能状態)
  76. ^ #S1911第17駆日誌(9)pp.31-32『071450雪風→冬月|此レカラ如何ニサルル決心ナリヤ』-『冬月→071450雪風|極力生存者ヲ救助セヨ 人員救助シ再擧ヲ計ラントス』-『071455雪風→冬月|速カニ行動ヲ起サレテハ如何』
  77. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』pp.45-46『1505|PBY二機飛来墜落搭乗員捜索救助ニ従事』-『1524|冬月PBMニ対シ砲撃 敵機遠去カル』
  78. ^ #最後の水兵60頁、#駆逐艦隊悲劇の記録211頁
  79. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録222頁『駆逐艦霞の処分』
  80. ^ #最後の水兵60頁
  81. ^ #S1911第17駆日誌(9)p.32『初霜→071724雪風|司令官救助セリ』
  82. ^ #S1911第17駆日誌(9)p.33『初霜→071805雪風冬月|艦船番號順序ヲ初霜、冬月、雪風トス』
  83. ^ #S1911第17駆日誌(9)p.33『(将旗)2sd|状況ニ依リテハ涼月ヲ処分差支ナシ』
  84. ^ #S1911第17駆日誌(9)p.33『(将旗)17dg071900→雪風初霜|我航行不能被曳航準備完成』
  85. ^ #S1911第17駆日誌(9)p.33『初霜→071925雪風|雪風ハ磯風ニ横付ケ乗員ヲ容収セヨ』
  86. ^ #最後の水兵64頁では大和(士官8、兵97)、矢矧(士官22、兵254)、霞(士官15、兵277)
  87. ^ #S1911第17駆日誌(9)p.34『080932(将旗)41dg→(将旗)2sd軍令部次長指宿(飛行場)|凉月佐多岬ノ262度140浬ヨリ鹿児島又ハ佐世保ニ向ケ航行中同艦警戒ニ関シ配慮ヲ得度』
  88. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』pp.78
  89. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録233頁
  90. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』pp.78,79
  91. ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』pp.81
  92. ^ #秘海軍公報昭和20年5月(4)p.22『内令第四四七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年五月二十日 海軍大臣|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月、」ノ下ニ「宵月、」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項中「榧、」ノ下ニ「椎、」ヲ加フ|第五十二驅逐隊ノ項中「楓、」ノ下ニ「梨、萩、」ヲ加フ』
  93. ^ #秘海軍公報昭和20年5月(4)p.29『内令第四百六十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年五月二十五日 海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項中「磯風、」ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「宵月、」ノ下ニ「夏月、」ヲ加フ』
  94. ^ 『第七艦隊戦時日誌』C08030022100, pp.3,6,57
  95. ^ #最後の水兵63頁
  96. ^ #秘海軍公報昭和20年7月(3)p.1『内令第六〇〇號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年七月五日 海軍大臣|第四十一驅逐隊ノ項中「、涼月」ヲ削ル』
  97. ^ 遠藤, 215ページ、木俣『日本水雷戦史』646、647ページ。ただし、青森空襲を記録する会 本土空襲墜落機調査には記載がない
  98. ^ #最後の水兵64頁
  99. ^ #秘海軍公報昭和20年8月(2)p.28『内令第七三四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年八月十五日海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項ヲ削ル 第四十一驅逐隊ノ項中「夏月」ノ下ニ「、雪風」ヲ加フ』
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参考文献

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  • SS-412, USS TREPANG, Part 1(issuuベータ版)
  • 福井静夫『終戦と帝国艦艇 わが海軍の終焉と艦艇の帰趨』出版共同社、1961年5月。 
  • 遠藤昭『高角砲と防空艦』原書房、1975年
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、1993年、ISBN 4-7698-0386-9
  • 倉橋友二郎『駆逐艦隊悲劇の記録 海ゆかば・・・』徳間書店、1967年6月。  著者は1944年6月~1945年5月まで駆逐艦「涼月」砲術長勤務。
  • 倉橋友二郎『激闘駆逐艦隊』朝日ソノラマ、1987年12月。 
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。 
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • 小池山三郎『帝国海軍最後の水兵さん』文芸社、2014年7月。ISBN 978-4-286-15239-4  著者は駆逐艦「野分、神風、冬月」勤務。艤装~終戦後まで冬月高射砲砲手。
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社NF文庫、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9 
    • 「欺瞞戦術」<駆逐艦「風雲」艦長・吉田正義大佐の証言>(太平洋戦争時、風雲艦長、第43駆逐隊司令、第41駆逐隊司令等)
    • 「戦術の極意」<駆逐艦「」艦長・石塚栄少佐の証言>(太平洋戦争時、村雨水雷長、北上水雷長、矢矧水雷長、槇艦長等)
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦11 駆逐艦II』光人社、1990年、 ISBN 4-7698-0461-X
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 福井静夫『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0611-6
  • 山本平弥ほか『秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> 戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌』潮書房光人社、2015年3月。ISBN 978-4-7698-1584-6 
    • 当時「秋月級」設計主務者・海軍技術大佐松本喜太郎『私はこうして愛児「秋月級」を誕生させた 防空専用艦誕生にいたる背景や苦労を主任設計者が回想する建艦秘話
    • 当時「涼月」機関長・海軍大尉原田周三『「涼月」機関長奇跡の後進航法に生きる 直撃弾により満身創痍となりながらも後進で帰投した不眠不休の戦い
    • 当時「涼月」砲術長・海軍少佐倉橋友二郎『防空駆逐艦「涼月」砲術長の沖縄水上特攻 四十一駆逐隊の若月、霜月すでになく冬月と共に戦った対空戦闘記
    • 戦史研究家落合康夫『艦名別 秋月型駆逐艦十二隻の生涯』
  • 「歴史群像」編集部『歴史群像 太平洋戦史シリーズVol.23 秋月型駆逐艦』学習研究社、1999年、ISBN 4-05-602063-9

関連項目