内藤政徧

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内藤 政偏
時代 江戸時代後期
生誕 安永2年7月17日1773年9月3日
死没 寛政11年10月7日1799年11月4日
改名 岩三郎・新三郎(幼名)、政偏
墓所 神奈川県鎌倉市光明寺
官位 従五位下、主殿頭
幕府 江戸幕府
陸奥国湯長谷藩
氏族 内藤氏
父母 父:内藤貞幹、母:土方雄端の娘
養父:内藤政広
兄弟 政為政広政偏政吉
正室:松平頼謙の娘
銀一郎、養子:内藤政環
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内藤 政偏(ないとう まさゆき)は、陸奥湯長谷藩の第8代藩主。

安永2年(1773年)7月17日、第6代藩主・貞幹の四男として生まれる。天明7年(1787年)に第7代藩主だった兄の政広が早世したため、その養子として跡を継いだ。寛政2年(1790年)11月に徳川家斉御目見し、12月に叙任されたが、兄同様に寛政11年(1799年)10月7日に27歳の若さで死去した。実子は早世していたため、養子の政環が跡を継いだ。