内海安吉

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内海安吉像(宮城県石巻市日和山公園
2009年には像の移転が取り沙汰された[1]が、2012年現在も日和山公園に設置されている。

内海 安吉(うつみ やすきち、1890年4月27日[2] - 1976年4月11日)は、日本政治家自由民主党衆議院議員宮城県桃生郡小野村(現在の東松島市)出身。自民党衆議院議員で建設大臣国土庁長官を務めた内海英男は長男。

来歴・人物[編集]

1890年(明治23年)桃生郡小野村の農家に生まれる。1910年(明治43年)日本大学法律科を卒業し、日本電報通信社に入社し政治記者となる。同社の京城支局員、大連支局長を経て、奉天公報社長、帝国新報社長を務めた他、内閣嘱託として、興亜院に入り、上海で勤務する。この間、帰国中に執筆した「産業立国策」が犬養毅に評価され、1930年(昭和5年)立憲政友会から第17回衆議院議員総選挙に立候補するが落選する。その後も1937年(昭和12年)第20回総選挙1942年(昭和17年)第21回総選挙にそれぞれ立候補するがともに落選した。

戦後は内地に引き上げ、内海は鳩山一郎らの新党創設に参加し、日本自由党創立委員となる。1946年(昭和21年)戦後第一回目の総選挙となった第22回衆議院議員総選挙に立候補し当選する。以来連続9回当選。同年5月、衆議院議員初当選直後の石巻市長選挙(全国初の市民による市長の直接選挙[3])に立候補したが、800票余りの最下位で落選した[3]自由党では党務部長、総務などを歴任する。保守合同後は自民党に参加し、建設政務次官、衆議院建設委員長や内閣委員長を歴任した。地元の北上川総合開発を始めとし[1]、全国の河川道路を現地調査し、土木政策に通じた。

1967年(昭和42年)の第31回総選挙には立候補せず、息子の内海英男に地盤を譲った。1976年(昭和51年)4月11日死去。

脚注[編集]

  1. ^ a b 三陸河北新報社"内海安吉氏の胸像 移転計画"<ウェブ魚拓>2009年6月13日(2012年7月25日閲覧。)
  2. ^ 衆議院『第九十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1946年、19頁。
  3. ^ a b 『石巻の大正・昭和・平成-ふる里と歩んだ石巻日日新聞の100年』165頁

参考文献[編集]

議会
先代
浜地文平
日本の旗 衆議院懲罰委員長
1963年 - 1965年
次代
山本勝市
先代
福永健司
日本の旗 衆議院内閣委員長
1958年 - 1959年
次代
福田一
先代
佐藤虎次郎
日本の旗 衆議院建設委員長
1955年
次代
徳安実蔵