倉田主税

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。ERICTOWAZ (会話 | 投稿記録) による 2016年2月24日 (水) 08:41個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

倉田 主税(くらた ちから、1886年3月1日 - 1969年12月25日)は、日本実業家。株式会社日立製作所元社長・会長、日本科学技術振興財団初代会長、毎日放送取締役

弟には俳人神崎縷々三井鉱山社長を務めた倉田興人がいる。

来歴・人物

福岡県宗像郡神興村(現・福津市)出身。小倉工業を経て仙台高等工業学校(現東北大学工学部)卒業。久原鉱業所日立製作所に入社し、日立鉱山より産出されるを用いての電線自主製造確立に成功。電線事業確立後は電線工場の工場長に就任し、以降20年に渡り電線製造に携わる。

その後着任した笠戸工場工場長時に、公職追放された初代社長小平浪平以下16名の後を継いで、1947年に日立製作所二代目社長に就任。以降14年間社長を務める。社長歴任中に日本科学技術振興財団初代会長に就任、日立電線独立後は初代会長に就任した。更には日立製作所会長退任後、退職金を投じて財団法人国産技術振興会(現倉田記念日立科学技術財団)を設立するなど、産業の国産技術確立に貢献した。

略歴

  • 1886年(明治19年) 生誕
  • 1912年(明治45年) 久原鉱業所日立製作所に入社
  • 1941年(昭和16年) 日立製作所取締役就任
  • 1947年(昭和22年) 日立製作所社長に就任(二代目)
  • 1956年(昭和31年) 日立電線設立と伴い初代会長に就任
  • 1960年(昭和35年) 日本科学技術振興財団初代会長に就任。在職中にテレビ局(東京12チャンネル)を発足し、毎日放送とのネットワーク形成にも尽力する(1964年)
  • 1961年(昭和36年) 日立製作所会長に就任。工学部創設を検討していた東洋大学渋沢敬三竹村吉右衛門と共に出資し、川越キャンパスに工学部が創設。[1]
  • 1968年(昭和43年) 修養団初代理事長に就任
  • 1969年(昭和44年) 財団法人国産技術振興会(現倉田記念日立科学技術財団)を自らの退職金から出資して設立。[2]この年の12月に死去。


先代
二木謙三
修養団理事長
初代:1968年 - 1969年
次代
赤坂繁太
先代
小倉正恆
修養団後援会会長
第3代:1962年 - 1968年
次代
中安閑一
  1. ^ 東洋大学の肖像「「産学協同教育」への思いに懸ける」”. 2015年3月9日閲覧。
  2. ^ 倉田記念日立科学技術財団「創設者の思い」”. 2015年3月9日閲覧。