保明親王

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保明親王
皇太子
在位 延喜4年2月10日904年3月4日) - 延喜23年3月21日923年4月14日

時代 平安時代前期
生誕 延喜3年11月20日903年12月16日
薨御 延喜23年3月21日923年4月14日
改名 崇象 → 保明
諡号 文献彦太子
父母 父:醍醐天皇、母:藤原穏子
兄弟 勧子内親王宣子内親王恭子内親王克明親王保明親王慶子内親王代明親王勤子内親王婉子内親王都子内親王重明親王常明親王修子内親王敏子内親王式明親王雅子内親王有明親王普子内親王時明親王長明親王源高明兼明親王源兼子靖子内親王、源厳子、源自明韶子内親王源允明康子内親王英子内親王斉子内親王朱雀天皇章明親王村上天皇源為明盛明親王
藤原仁善子藤原貴子藤原玄上
慶頼王煕子女王
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保明親王(やすあきらしんのう)は、平安時代前期の皇族醍醐天皇の第二皇子で、その皇太子朱雀天皇村上天皇の同母兄。初名は崇象(むねかた)。諡は文献彦太子

経歴[編集]

伯父の左大臣藤原時平の後ろ盾により、延喜4年(904年)にわずか2歳(満2か月)で立太子し、東宮となる。しかし、延喜9年(909年)時平は没した。延喜11年(911年11月28日保明に改名する。延喜16年(916年)10月22日に元服。東宮女御として藤原時平の娘仁善子藤原忠平の娘貴子が入宮した。また、親王の乳母の子で歌人大輔を寵愛する。保明親王は即位することなく、父・醍醐天皇に先立ち薨御。享年21。

保明親王薨後、その第一王子・慶頼王(やすよりおう:時平の外孫)が皇太子に立てられるが、2年後僅か5歳で薨御し、代わりに保明親王の同母弟、寛明親王(朱雀天皇)が皇太子となる。保明親王・慶頼王ともに藤原時平と繋がりが深かったことから、両者の相次ぐ死は時平が追い落とした菅原道真祟りによるものとの風評が立った。これを受けて醍醐天皇は道真を右大臣に戻し正二位追贈するを発し、道真追放の詔を破棄する。なおも、台風洪水疫病と災厄は収まらず、延長8年(930年)6月には内裏清涼殿落雷が発生し(→清涼殿落雷事件)、公卿を含む複数の死者が出た。醍醐天皇はこれを見て病に臥し、3ヵ月後寛明親王に譲位、7日後崩御した。

系譜[編集]

脚注[編集]