佐瀬寿一

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佐瀬 寿一
させ じゅいち
別名 茅 蔵人(かや くらんど)
ビックリ・エレクトリック・カンパニー
アンクル☆させ
生誕 (1949-03-30) 1949年3月30日(74歳)
出身地 日本の旗 日本 千葉県勝浦市
学歴 日本大学芸術学部卒業
ジャンル 歌謡曲
職業 作曲家
活動期間 1969年 - 現在
公式サイト 作曲家・佐瀬寿一の部屋
ビートルズ

佐瀬 寿一(させ じゅいち、1949年3月30日[1] - )は、日本の作曲家千葉県勝浦市出身[1][2]

佐瀬壽一の表記もある。

来歴・人物[編集]

千葉県立大多喜高等学校を経て日本大学芸術学部卒業[2]

放送作家高田文夫落語家古今亭右朝は大学の同窓生である。

学生時代はビートルズのコピーバンドなどをやっており、『勝ち抜きエレキ合戦』にも出演したことがある[3][2]

1969年、大学在学中にピオニーズの「消えた想い出」で作詞・作曲家デビュー[1][3]。このとき印税か買取のどちらにするかと聞かれ、結局3万円の買取契約にしたものの、割と売れたので後悔したという[2]。同時期にヤマハポピュラーソングコンテストで編曲の仕事をし、音楽で生計を立てることに興味を持ち始めた[2]。ヤマハの関係で知り合ったレコードディレクターからずうとるびの曲を作らないかと依頼され、これが本格的な作曲家デビューとなる[2]。その時に書いた2曲は共にシングルA面曲に採用され[2]、1作目の「恋のパピプペポ」がヒットし[2]、2作目の「みかん色の恋」はさらにヒットした[2]

1972年、「俺は今/駄目なオイラが旅立った」で歌手としてレコードデビュー[1][3]

1974年、旧知の高田文夫と、当時佐瀬と同じアパートに住んでいた写真家の浅井鉄雄が共に子供番組『ひらけ!ポンキッキ』のスタッフとして関わっていたことから、同番組の総合プロデューサーであった野田宏一郎を紹介され[2]、その縁で「およげ!たいやきくん」「パタパタママ」など『ひらけ!ポンキッキ』関連の作曲を多数手がけた。「とけいのうた」では歌声も披露している[4]

自身の作る曲は、テンポが遅くバラード調のものだが、編曲者によるアレンジで、テンポが速く軽やかな曲に仕上がっている[5]キャンディーズの楽曲「暑中お見舞い申し上げます」がそれに当たる[6]

1980年以降は「茅 蔵人(かや くらんど)」の別名義でも楽曲制作をしている[1]。なお、茅蔵人は「火薬の島(kayaku-island)」の意で、大爆発するようにと名付けた[7]

歌詞サイト、ブログなどにおいて、佐藤寿一と誤表記されることも多々ある。

主な作品[編集]

茅蔵人名義[編集]

  • 「領収書」(歌:パワーズ、作詞:塩沢彰光)
  • 「領収書'99」(歌:Le・シート、作詞:高田文夫) - 上記の替え歌。
  • 「もっと動いて」(歌:畑中葉子、作詞:豊兵衛)
  • トライダーG7のテーマ」(歌:たいらいさお、作詞:伊藤アキラ)
  • 「おふろのかぞえうた」(歌:ビックリ・エレクトリック・カンパニー(佐瀬自身の変名[8])、作詞:高田ひろお)
  • 「ジョキジョキ・テーラー」(歌:キド・アイ、作詞:高田ひろお)

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e ガモウユウイチ 著「佐瀬寿一」、馬飼野元宏(監修/編集)・真鍋新一(編集) 編『昭和歌謡 職業作曲家ガイド』(初版)シンコーミュージック・エンタテイメント、2018年4月15日、262-263頁。ISBN 978-4-401-64371-4 
  2. ^ a b c d e f g h i j 「新・家の履歴書 佐瀬寿一(作曲家)」『週刊文春』2017年5月18日号、108-111頁。
  3. ^ a b c 佐瀬寿一インタビュー*Part1、佐瀬寿一公式サイト、2015年4月26日。
  4. ^ 佐瀬寿一インタビュー*Part3、佐瀬寿一公式サイト、2015年5月8日。
  5. ^ およげ!たいやきくん」及び「いっぽんでもニンジン」に関しては、編曲も自身が兼任しているため、テンポが遅いバラード調の曲に仕上がっている。
  6. ^ 編曲を佐瀬自身が兼任していない曲に関してはほぼ全て「暑中お見舞い申し上げます」と同様に、軽快な曲に仕上がっている。
  7. ^ 佐瀬寿一インタビュー*Part4、佐瀬寿一公式サイト、2015年5月18日。
  8. ^ 小島豊美とアヴァンデザイン活字楽団『昭和のテレビ童謡クロニクル 『ひらけ! ポンキッキ』から『ピッカピカ音楽館』まで』DU BOOKS、2015年、138-139頁。ISBN 978-4-907583-45-3

外部リンク[編集]