伊達行朝
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 正応4年(1291年) |
死没 | 貞和4年/正平3年5月9日(1348年6月6日) |
改名 | 行朝(初名)→行宗[1] |
別名 | 藤原朝村 |
官位 | 従五位下、左近将監、従四位下、宮内大輔 |
氏族 | 伊達氏 |
父母 | 父:伊達基宗 |
妻 | 正室:静照院(田村氏) |
子 | 宗遠、行資 |
伊達 行朝(だて ゆきとも)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。南朝側の武将として各地を転戦した。
生涯
建武の新政下で陸奥守として下向した北畠顕家に従い、同国の式評定衆の一人として奥羽行政の中枢に参画した。建武2年(1334年)に顕家が足利尊氏を追って西上したときには、奥羽諸将とともに従軍し、延元元年(1336年)に帰国した。この留守の間に北朝方の勢力が盛んになり、多賀国府が脅かされると、国府は伊達氏の勢力圏にある霊山に移った。延元2年(1337年)には、惨敗に終わる顕家の二回目の西上にも従った。顕家の死後は常陸伊佐郡の伊佐城に拠ったが、高師冬に攻められ降伏した[2]。
和歌にも通じており、『風雅和歌集』などにも入集した。和歌集での掲載名は藤原朝村。
系譜
注:系譜には疑問点も多い。詳細は伊達宗遠を参照のこと。