伊達晴宗

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伊達 晴宗
長谷川養辰「伊達晴宗像」
仙台市博物館蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正16年(1519年
死没 天正5年12月5日1578年1月12日
別名 次郎
諡号 保山公
戒名 乾徳院殿保山道祐大居士
墓所 福島県福島市宝積寺
官位 従四位下左京大夫
幕府 室町幕府奥州探題
氏族 伊達氏
父母 父∶伊達稙宗、母∶蘆名盛高娘・泰心院
兄弟 屋形御前相馬顕胤室)、蘆名盛氏正室、晴宗大崎義宣実元二階堂照行室、田村隆顕室、宗澄懸田俊宗室、桑折宗貞葛西晴清梁川宗清村田宗殖極楽院宗栄亘理綱宗亘理元宗大有康甫越河御前相馬義胤室)
久保姫
岩城親隆阿南姫輝宗鏡清院伊達実元室)、
益穂姫(小梁川盛宗室)、留守政景石川昭光
彦姫宝寿院佐竹義重室)、国分盛重杉目直宗
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伊達 晴宗(だて はるむね)は、陸奥国戦国大名官位従四位下左京大夫伊達氏15代当主。伊達政宗の祖父。

生涯[編集]

永正16年(1519年)、14代当主・伊達稙宗の長男として誕生。天文2年(1533年)、室町幕府12代将軍足利義晴偏諱を受けて、晴宗と名乗った。

天文11年(1542年)6月、父・稙宗がさらに勢力を拡大するため、越後国守護上杉定実の養子に弟・時宗丸を出そうとした(養子縁組の準備として時宗丸には定実から一字を拝領して実元と名乗らせた)ことと、義兄・相馬顕胤に伊達領を割譲しようとしたことに反対し、重臣の中野宗時桑折景長らと共謀して父を西山城に幽閉し、実元の養子縁組を阻止した。

ところが、父・稙宗は小梁川宗朝によって西山城から救出され、さらに稙宗が奥州諸侯を糾合して晴宗と争う構えを見せたため、天文の乱が勃発した。この内乱は始め稙宗方が優勢で、晴宗方は敗戦続きであったが、天文16年(1547年)にそれまで稙宗を支持していた蘆名盛氏田村氏二階堂氏との対立により晴宗方に寝返ったことから形勢が逆転し、天文17年(1548年)3月に13代将軍・足利義藤の停戦命令を受けて、同年9月には晴宗方優位のうちに和睦が成立。晴宗が家督を相続して15代当主となり、稙宗は丸森城に隠居した。しかし、実際にはその後も父子の不和は収まらなかったとされる[1]

当主となった晴宗は米沢城に本拠を移すと、天文の乱により動揺した伊達氏家臣団の統制に着手する。天文22年(1553年)1月17日には、『晴宗公采地下賜録』を作成し、天文の乱の最中に両陣営によって濫発された安堵状を整理して、新たに家臣団の所領と家格の確定を行い、同年には和睦を不服として抗戦を続けていた懸田俊宗義宗父子を滅ぼした。しかし、中野宗時を始めとする天文の乱で晴宗方の主力を担った家臣には守護不入権などの様々な特権を付与せざるを得ず、晴宗政権は宗時らを中心に運営されていくこととなる。しかし、晴宗は6男5女(全て正室・久保姫の子)と子供に恵まれたが、岩城氏・二階堂氏との縁組を除いては伊達実元や小梁川盛宗など一族・重臣に娘を嫁がせている(晴宗の子女の奥州諸勢力との縁組の多くは晴宗の隠居後に輝宗によって遂行されたものであった)[2]

天文24年(1555年)、幕府から奥州探題職に補任された。父・稙宗が陸奥守護に補任された際は大崎氏の奥州探題職を否定していないが、晴宗の補任は伊達氏の家格上昇を示す[3]と共に、従来の幕府地方統治方針を変更するものだった[4]。ただし、天文24年の晴宗の左京大夫補任と守護代である桑折景長への毛氈鞍覆と白傘袋の使用認可によって事実上の奥州探題には任じられてはいたものの、正式な奥州探題職の創設と晴宗の任命は永禄2年(1559年)の春(5月以前)であったとする説もある。これは伊達氏の探題就任については幕府も了承はしていたものの、幕府が探題格という既成事実を作った上で、実際に探題職に任命するという、慎重な手続を採用したことからであるとされている[5]

永禄6年(1563年)の幕府により認可された全国大名衆50余名の中で、奥州(陸奥国)では蘆名盛氏と晴宗だけが大名として認められるという栄誉を受けている。

永禄8年(1565年)、二男・輝宗に家督を譲って信夫郡杉目城に隠居した[6]。ただし、この時点では依然として晴宗と中野宗時らが家中を統制していた。

同年、蘆名盛氏が二階堂盛義(晴宗長女・阿南姫の婿)と対立し岩瀬郡に進攻すると、二階堂氏救援のために桧原を攻撃したが撃退され、永禄9年(1566年)に盛義が降伏すると、盛氏の嫡男・盛興に四女・彦姫(輝宗の養女となる)を嫁がせる条件で伊達・蘆名間でも和平が成立した。しかし、隠居の晴宗はこの縁組に反対して輝宗と対立、輝宗は彦姫を自分の養女として縁組を結んだ上で、万が一晴宗と輝宗が争った場合には盛氏が輝宗を援助する密約まで交わしたという[7]

永禄8年6月19日(1565年7月16日)、伊具郡丸森城に隠居していた父・稙宗が死去すると相馬盛胤が丸森城を接収し、さらに伊具郡各所を手中に収めていく。このため天文の乱以来の伊達・相馬間での抗争が再燃し、以後およそ二十年間わたって丸森城をめぐる攻防が展開されることとなる。

隠居したとはいえ一向に実権を手放さない晴宗に対して、当主となった輝宗は不満を隠さず、両者の間にはしばしば諍いが生じていたが、永禄13年(1570年)4月、輝宗により中野宗時・牧野久仲父子が謀反の疑い有りとして追放される(元亀の変)と、実権は完全に輝宗の手に移り、晴宗は杉目城に閑居する。以後は父子の関係も改善され、晩年には杉目城に一門や家来衆を招いてたびたび宴会を催し、その席では孫の梵天丸(のちの伊達政宗)が和歌を披露したという。

天正5年12月5日(西暦では翌1578年1月)、杉目城で死去。享年59。

人物・逸話[編集]

  • 晴宗が正室の久保姫を娶った経緯については、当初久保姫は父・岩城重隆の意向で結城晴綱に嫁ぐことになっていたが、久保姫の美貌を知って惚れ込んでいた晴宗が自ら軍勢を率いて輿入れの行列を襲撃して久保姫を連れ去り、強引に正室にしたとされている[8]。晴宗と久保姫の夫婦仲は良く、長男の親隆を岩城氏に入嗣させていたこともあって岳父・重隆との関係も改善され、天文の乱に際して援助を受けている。久保姫は晴宗没後に出家し、宝積寺を建立して亡き夫を供養した。その後は、孫の政宗を頼って宮城郡根白石に移住し、同地で文禄3年(1594年)に74歳で没した。
  • 黒嶋敏は、稙宗は6人の側室を持って対外進出に積極的で奥州の諸家との婚姻や養子縁組に積極的であったのに対し、晴宗の側室の存在は確認できず有力な一族や家臣との婚姻を進めて家中の統制に留意しているところから、天文の乱に至る背景として稙宗と晴宗の性格の違いにもあったのではないか、と推測する。同時に黒嶋は晴宗の子女の縁組でも蘆名氏や佐竹氏との婚姻や留守氏・国分氏・石川氏への養子縁組も輝宗期の成立で、稙宗と輝宗の政策の共通性を指摘して、稙宗と輝宗の外交政策における思考の近さと晴宗との違いを指摘している[2]
  • 江戸時代、伊達騒動を経て元禄期に入った仙台藩では藩史編纂が盛んとなり、『伊達正統世次考』・『伊達治家記録』などが編纂された。その中で天文の乱で父と争い、子と争って元亀の変の一因を作った晴宗は「暗君」、それを支えた中野宗時・桑折景長は「姦臣」扱いされるようになる。その背景として、藩祖・伊達政宗の父である輝宗が顕彰の対象になったのに対してその輝宗とも争った晴宗が否定的にみられた[9]こと、2度にわたる御家騒動のきっかけを作った晴宗が同様に大規模な御家騒動に発展した伊達騒動を引き起こした伊達綱宗(政宗の孫)と同じように否定的に扱われたことにあった。更に「姦臣」とされた中野宗時と桑折景長の子孫が元禄の仙台藩にはいなかった(桑折氏の宗家は宇和島藩に仕え、仙台藩に残った分家は景長の曾孫にあたる原田宗輔が伊達騒動における逆臣とされた影響で断絶に追い込まれていた)ことなどが挙げられる[10]。中野宗時と桑折景長が「姦臣」と位置づけられた結果、天文の乱は晴宗が彼らに唆されたとされ、元亀の変も中野の専横の結果とする説明が可能となり、仙台藩(伊達氏)の歴史観として確立されることになる[11]

系譜[編集]

子女は6男5女

脚注[編集]

  1. ^ 黒嶋、2019年、P69・89.
  2. ^ a b 黒嶋、2019年、P59-60・77-78.
  3. ^ 黒嶋、2019年、P65-66.
  4. ^ 『中世出羽の領主と城館 奥羽史研究叢書2』p.90-92
  5. ^ 黒嶋、2019年、P65-73.
  6. ^ 長男・親隆を岳父・岩城重隆の養子としていたため、代わって二男の輝宗が世子となっていた。『奥羽永慶軍記』では、天文3年(1534年)に重隆との間で入嗣の約束がなされたとしている。
  7. ^ 黒嶋、2019年、P74-77.
  8. ^ 寛文7年(1667年)に相馬藩士・中津幸政が編纂した『奥相茶話記』には、久保姫は相馬顕胤(稙宗の婿)が仲人となって晴宗の嫁に迎える約束があったが、重隆がこれを破談にしたために、面目を失った顕胤が岩城領に攻め込んで軍事的衝突に発展したとある。また『塔寺八幡宮長帳裏書』天文3年(1534年)条には、蘆名盛舜が伊達稙宗に同心し、二階堂氏と共に結城領の白河郡新城に出馬したとの記述がある。
  9. ^ 元禄期の藩主である伊達綱村と史書編纂に関わった田辺希賢の間で「(世間に知られた)天文の乱は仕方がないが、他の父子不和については公にはしたくないがどのようにすべきか」という趣旨の書状のやりとりが現存している(黒瀬、2019年、P84-85.)。
  10. ^ ただし、実際は宗時の子久仲が養子となった牧野家などにその血筋が受け継がれ、伊達家中には江戸期も中野一族と縁続きの者らがいた。 また、桑折家と中野家自体、戦国期から姻戚関係にあった。
  11. ^ 黒嶋、2019年、P79-90.

出典[編集]

  • 小林宏『伊達家塵芥集の研究』(創文社、1970)
  • 『戦国時代人物事典』(学習研究社、2009) - 「伊達晴宗」「伊達輝宗」の項(伊達宗弘執筆)および「岩城親隆」の項(粟野俊之執筆)
  • 黒嶋敏「はるかなる伊達晴宗-同時代史料と近世家譜の懸隔」(初出:『青山史学』第20号(2002年)/所収:遠藤ゆり子 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二五巻 戦国大名伊達氏』(戎光祥出版、2019年) ISBN 978-4-86403-315-2

関連項目[編集]