伊藤正徳 (軍事評論家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。121.92.103.230 (会話) による 2015年12月9日 (水) 01:34個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎関連項目)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

伊藤 正徳(いとう まさのり、1889年明治22年)10月18日 - 1962年昭和37年)4月21日)は日本ジャーナリスト作家、軍事評論家。海軍部内に精通し、大海軍記者と称された。

生涯

茨城県水戸市生まれ。1913年大正2年)慶應義塾大学理財科を卒業し、時事新報社に入社。以後中部日本新聞主筆、共同通信社理事長、日本新聞協会理事長、時事新報社長、産経新聞顧問等を歴任。1961年菊池寛賞を受賞。

大正から昭和にかけて時事新報の海軍記者として黒潮会に属して活動し、戦後は第二次世界大戦戦記を執筆。『連合艦隊の最後』などのベストセラーを世に送った。海軍のブレーントラストの一員であり、本人は"海軍のフレンド"と称していた。記者生活の傍ら、母校慶應義塾大学で軍事学の講義を受け持っている。

なお山本五十六が親友の堀悌吉予備役に編入された際、「海軍の大馬鹿人事だ」と語った相手が伊藤である[1]

軍縮会議

ワシントン軍縮会議は、主力艦6割で妥結が成立したが、伊藤は7割論を唱えていた。当時の新聞界は6割での妥結を支持する形勢であったが、理論上は7割が必要であるとしたためで、会議妥結には賛成している。ロンドン海軍軍縮条約では、補助艦比率6割9分7厘5毛での妥結に賛成し、軍縮条約反対派に仕掛けられた「キャッスル事件」に巻き込まれている。この事件は、駐日アメリカ大使ウィリアム・リチャーズ・キャッスルが、伊藤ら言論界の有力者を買収して条約に賛成させたという中傷であった。

著書

  • 『潜水艇と潜水戦』上田屋、1917年(大正6年)。
  • 『改造の戦ひ』日本評論社出版部、1920年(大正9年)。
  • 『破壊より建設へ』外交時報社、1920年(大正9年)。
  • 『華府会議と其後』東方時論社、1922年(大正11年)。
  • 『想定敵国』佐々木出版部、1926年(大正15年)。
  • 加藤高明』(編)加藤伯伝記編纂委員会、1929年(昭和4年)。
  • 『軍縮?』春陽堂1929年(昭和4年)。
  • 『日米海軍と軍縮』高瀬書房、1932年(昭和7年)。
  • 『新聞生活二十年』中央公論社1933年(昭和8年)。
  • 『アメリカへの視線』平凡社<世界の今明日叢書>、1933年(昭和8年)。
  • 『軍縮読本』中央公論社、1934年(昭和9年)。
  • 『外交読本』中央公論社、1934
  • 『世界と日本 日本外交の再建』鱒書房、1940 
  • 『新聞五十年史』鱒書房、1943 
  • 『世界大海戦史考』中央公論社 1943
  • 『恒子の思ひ出』慶應通信 1955
  • 『大海軍を想う』文藝春秋新社、1956年(昭和31年)のち光人社NF文庫
  • 『連合艦隊の最後』文藝春秋新社、1956 のち角川文庫、光人社NF文庫)
  • 『軍閥興亡史』(全3巻、文藝春秋新社、1957-58 のち光人社NF文庫)
  • 『帝国陸軍の最後』(全5巻、文藝春秋新社、1959-61 のち角川文庫、光人社NF文庫)
  • 連合艦隊の栄光』文藝春秋新社、1962 のち角川文庫、光人社NF文庫)

関連項目

脚注

  1. ^ 池田清 (政治学者)『海軍と日本』(中公新書)P83