今村均

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今村 均
生誕 1886年6月28日
日本の旗 日本 宮城県 仙台区
死没 (1968-10-06) 1968年10月6日(82歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1907 - 1945
最終階級 陸軍大将
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今村 均(いまむら ひとし、1886年6月28日 - 1968年10月4日)は、日本陸軍軍人。最終階級陸軍大将宮城県仙台市出身。

温厚で高潔な人柄と、占領地での軍政・指導能力は高く、名将という評価を受けている。その人柄、エピソードは今日でも旧占領国の現地住民だけでなく、敵国であった連合国側からも称えられている。

来歴・人物

祖父は戊辰戦争の際に仙台藩参謀を務める名門であったが、進駐してきた新政府軍に対して融和的な態度をとったため藩内の強行派から非難をあび財産を家来にほとんど分け与え、新政府からの官職への呼びかけにも応じることなく隠遁した。その後、妻を亡くすと名家から後妻を押しつけられるなどしたため酒におぼれる生活を送った。父の虎尾は先妻との間に生まれた。虎尾は幼少時に漢籍をたたきこまれるなど父から教育を受けた。生活が困窮していたため、裁判所の事務員として働きながら家事の出来ない継母に代わり弟妹達を育てた。そのようななか、虎尾は裁判官試験に2番の成績で合格し裁判官として任官した。虎尾は陸軍将校の娘であるきよみを娶り、きよみによって均を始めとする多くの子供が産み育てられた。きよみの勧めで均や弟たちは陸軍将校となった。

青年期

新発田中学甲府中学校より転入)を首席で卒業し、東京で受験勉強していた19歳の春、判事をしていた父の虎尾を亡くしたため、経済的に当初志望していた第一高等学校、もしくは高等商業学校に進学することが厳しくなる。母きよみは陸軍士官学校を推薦していたため今村本人は「一高進学か陸士入校か」と悩んでいたところ、母の薦める軍隊とはどの様なものかと思い、青山の陸軍練兵場で催されていた天覧閲兵式を拝観しに行った。その際、練兵場前で見た、観兵式を終えて帰る明治天皇の姿を見ようと天皇の乗る御料馬車に詰め寄る大勢の群衆の姿に何か熱く感激した今村は、自宅に帰るその足で郵便局に寄り、陸軍士官学校を受験する強い意志の旨の電報を母に打ち、郷里の連隊区で試験を受け合格した[1]

9歳まで夜尿症を患っていた今村は、青年期になっても夜に何度も便所に立つことから来る睡眠不足に苦しんでいた[2]。そのため講義中の居眠りを度々してしまい、そのたび教官に怒鳴られていた。軍医や同期生に相談したり、睡魔が襲ってきた時に小刃で自分を軽く突くなど対策したものの一向に治らず、野外演習中に農家から貰った唐辛子を講義中にこっそり噛む事で何とか眠気覚ましにした。これに気付いた理解ある教官達はそれ以降今村に対しては居眠りを注意しなくなった[3]、という逸話が残っている。

陸軍士官学校を優秀な成績で卒業した今村は見習士官を経て陸軍歩兵少尉に任官し、中尉の頃に陸軍大学校に進学。そこでも居眠りを繰り返したが、士官学校時代の話は陸大の教官にも伝わっていたらしくそれほど厳しい説教を受けることもなかった。そのようなハンディを背負いながらも陸軍大学校を首席で卒業し、恩賜の軍刀を賜った[4]

太平洋戦争時

太平洋戦争大東亜戦争)開戦後、第16軍司令官としてオランダ領東インドインドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮。陸軍の最精鋭空挺部隊であり「空の神兵」と謳われる第1挺進団(挺進部隊)や、飛行第64戦隊飛行第59戦隊一式戦闘機「隼」の活躍もあり、太平洋戦争における日本の最重要戦略目標であるパレンバンの油田地帯を制圧(パレンバン空挺作戦)。さらに100隻弱の船団を使用する最大規模の上陸作戦となったジャワ上陸作戦では、敵軍が日本軍の兵力を見誤っていたこともあり、9日間で約9万3千のオランダ軍と約5千のイギリス軍アメリカ軍オーストラリア軍無条件降伏させ、作戦は日本軍の大勝に終わった。

攻略の際、オランダによって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、スカルノハッタら政治犯を解放し資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支援する一方で、今村は軍政指導者としてもその能力を発揮し、攻略した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、オランダ軍から没収した金で各所に学校の建設を行い、日本軍兵士に対し略奪等の不法行為を厳禁として治安の維持に努めるなど現地住民の慰撫に努めた。かつての支配者であったオランダ人についても、民間人は住宅地に住まわせて外出も自由に認め、捕虜となった軍人についても高待遇な処置を受けさせるなど寛容な軍政を行った。

戦争が進むにつれて、日本では衣料が不足して配給制となり、日本政府はジャワで生産される白木綿の大量輸入を申し入れてきたが、今村はこの要求を拒んだ。今村は白木綿を取り上げると現地人の日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという宗教心まで傷つけると考えたからである。これは政府や軍部などから批判を浴びたが、その実情を調査しに来た政府高官の児玉秀雄らは「原住民は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」、「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」などと報告しジャワの軍政を賞賛した。

また、オランダ統治下で歌うことが禁じられていた独立歌「インドネシア・ラヤ」が、ジャワ島で盛んに歌われていることを知った今村は、東京でそのレコードを作らせて住民に配り喜ばれたという。

しかし政府や軍部の一部には、今村の施政を批判する者もおり、1942年昭和17年)3月には今村とは親しい仲である参謀総長杉山元が直々にバタビアに出張し、今村に対し「中央はジャワ攻略戦について満足しており褒めてはいるが、一方でその後の軍政については批判がとにかく多いから注意したまえ」と軽く叱責している[5]。また、陸軍省軍務局長の武藤章、人事局長の富永恭次も今村に対し、ジャワ島でもシンガポール同様に強圧的な政策に転換するよう求めたが、今村は陸軍が布告した『占領地統治要綱』から「公正な威徳で民衆を悦服させ」という一節をひいて、要綱を改正する前に自分を免職するよう求め、軍政の方針を変えることに抵抗した。

今村は「八紘一宇というのが、同一家族同胞主義であるのに、何か侵略主義のように思われている」と述べており、その語に対する誤解に疑念をいだいている。

ラバウル防衛隊

1942年(昭和17年)11月20日、今村は第8方面軍司令官としてニューブリテン島に位置するラバウルに着任した[6]のち、山本五十六海軍大将と会見している。今村と山本は佐官時代から親交があり、互いに気兼ねなく腹を割って話し合える程の仲であり、双方認め合っていたといわれる[7]。そのため山本が戦死した際には泣いて悲しんだという。今村本人もラバウルに着任後、山本が戦死する直前に海軍の一式陸上攻撃機に搭乗し、前線の陸軍部隊の視察を行なった際、アメリカ軍戦闘機に襲撃されそうになったが難を逃れている。

1943年(昭和18年)初頭、米軍はガダルカナルと東部ニューギニアから日本軍を駆逐しラバウル作戦の「第一任務」を完了した。米軍はさらにソロモン諸島とニューギニアの双方から前進する「第二任務」の準備に入った。これに対し日本軍はラバウルの防衛線をソロモン諸島のニュージョージアのムンダ岬の航空基地とニューギニアのサラマウアを結ぶ線とした。防衛部隊の海軍側の指揮官は草鹿任一中将、陸軍側が今村大将であった。

日本海軍のラバウル航空隊の活動は、日本軍の航空兵力を米海軍に実際以上に過大評価させ、西進する米軍補給路への大きな脅威と米軍は判断した。しかも、ラバウルは今村により要塞化が進んでいた。今村はガダルカナル島の戦いの戦訓から、米海軍の補給路の封鎖を想定し、補給の途絶に対し島内に大量の田畑を作るよう指導を行い食料の自給自足体制を整えることにし、今村自身も自ら率先して畑を耕したという[8]。 またアメリカ軍の空爆と上陸に備えるため強固な地下要塞を構築し、病院、兵器弾薬を生産する工廠も構築したのである。このような状態を知った米軍は、攻略することで多大な損害が予想される上、日本軍の補給路も一本化されることによりむしろ強化されるなどから、ラバウルの占領を回避し、打撃により無力化するに留めるとの決定をした。

ラバウル無力化のために、米海軍はソロモン諸島を占領後、ビスマルク諸島の日本軍航空兵力、主にラバウルに猛爆を加えた[9]。さらに1944年(昭和19年)2月中旬、日本艦隊の根拠地トラック島を空襲した結果、日本海軍の古賀連合艦隊司令長官はラバウルの海軍機を撤退させたため、ラバウルの米軍への積極的な脅威はほぼなくなった。しかし米軍はラバウル封鎖を完成させるために活動した。先ずラバウルの東方のグリーン島を占領し航空基地を設営しビスマルク諸島全体で戦闘機の活動を可能にし、次に陸軍のダグラス・マッカーサー将軍はアドミラルティ諸島の東端のロス・ネグロス島を占領し航空基地を確保した。さらに海軍がカヴィェン北西のエミウラ島を占領して、ラバウルの無力化は完成した[10]。 こうして、ラバウル守備隊は孤立化したが既に現地自活可能な体制が完成しており、かつ物資も備蓄していたために、今村以下の第8方面軍は草鹿中将以下の南東方面艦隊と共に終戦までラバウルを確保した。

戦後

1955年

1945年(昭和20年)8月15日、日本が降伏し第二次世界大戦は終結。今村は戦争指導者(戦犯)として軍法会議にかけられる。第8方面軍司令官の責任を問われたオーストラリア軍による裁判では、一度は死刑にされかけたが、現地住民などの証言などもあり禁錮10年で判決が確定した[11]。 その後の第16軍司令官時代の責任を問うためのオランダ軍による裁判では、無罪とされた。

その後、今村はオーストラリア軍の禁錮10年の判決により、1949年(昭和24年)に巣鴨拘置所に送られた。だが今村は「(未だに環境の悪い南方で服役をしている元部下たちの事を考えると)自分だけ東京にいることはできない」として、1950年(昭和25年)には自ら多数の日本軍将兵が収容されているマヌス島刑務所への入所を希望した。妻を通してGHQ司令官マッカーサーに直訴したといわれている。その態度にマッカーサーは、「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた」と言ったという。

その後、刑期満了で日本に帰国してからは、東京の自宅の一隅に建てた謹慎小屋に自らを幽閉し、戦争の責任を反省し、軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら回顧録を出版し、その印税はすべて戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に用いられた。元部下に対して今村は出来る限りの援助を施し、それは戦時中、死地に赴かせる命令を部下に発せざるを得なかったことに対する贖罪の意識からの行動であったといわれる。その行動につけこんで元部下を騙って無心をする者もいたが、それに対しても今村は騙されていると承知しても敢えて拒みはしなかったという。

国立国会図書館憲政資料室に、今村の肉声を伝える「回想談話録音」が残されている。

1968年(昭和43年)10月4日、死去。享年82。

年譜

評価

指揮官としての戦術面では、実戦を指揮したのが支那事変、ジャワ攻略戦とそれに付随する戦闘のみであり、ラバウルでは殆ど戦闘が行われずアメリカ軍と本格的に戦火を交える事はなかった。しかし第5師団長として指揮を執った南寧作戦では、近衛師団第18師団の援軍が到着するまでの数十日間、蒋介石直系の精鋭部隊を含む数十倍の戦力を有した中国国民党軍の大攻勢を、物資不足と炎熱下の劣悪な環境ながら防ぎきる事に成功し、蘭印作戦では極めて短期でインドネシアを攻略している。今村の軍人としての能力、特に軍政面や占領地住民・部下将兵に対しての人道的な対応については後世の評価はほぼ一致している。蘭印無条件降伏を報じる1942年(昭和17年)3月10日(陸軍記念日)付の読売新聞記事では、写真付きで蘭印方面陸軍最高指揮官たる今村の略歴も紹介されており、「今村将軍は仙台の士族で陸大を首席で卒業した秀才、だがその才気と不屈の闘志を温容に包む近代的武将である」、「教養に富み部下を愛する謙虚な風格ある将軍である」「人情将軍今村中将」と評されている。

戦略面では、ラバウルでの持久戦が示すとおり、先を読んで対策を行う能力に優れていた人物であったことは確かで、終戦まで将兵の命を守ったことから、日本軍の優れた指揮官としての評価は高い。部下に非常に慕われる人柄であったため、統率に関してはしっかり取れていた。今村は部下を愛し、現地住民を愛したと言われそれに対して部下、現地住民は絶大な親しみを寄せていたといわれる[12]

逸話

今村が第16軍司令官として座乗していた陸軍特種船神州丸(神洲丸)」
  • ジャワ上陸作戦の際、阻止攻撃に来襲したアメリカ艦隊と護衛の日本艦隊との間でバタビア沖海戦が発生。この際に海軍の重巡洋艦最上」の九三式魚雷の誤射(同士討ち)により、今村以下の第16軍司令部が座乗していた事実上の世界初の揚陸艦である陸軍特種船神州丸(神洲丸)」と、輸送船2隻、病院船1隻、掃海艇1隻が沈没した。約3時間後に船舶兵らによって救助されるまで今村は重油の流出した海で漂流、第1次上陸部隊の揚陸後で死者は100名に抑えられたものの、遠距離用無線機や暗号表は海没しジャワ島中中部・東部に上陸した別働隊への直接指揮が5日もの間不能となるなど多大な損害を被った。
    • 上陸作戦後、誤射という海軍の大失態が判明し後日司令部揃って謝罪に来た海軍指揮官に対し、今村は快く謝罪を受け入れたうえ同士討ちの事実を隠蔽することを提案したといわれる。事実、帝国陸軍は軍司令官を日本軍の虎の子的存在である特種船「神洲丸」とともに沈められたこの事件を不問に処し、海軍の名誉に傷をつけぬよう「神州丸」以下の沈没は連合軍の駆逐艦や爆撃機の攻撃によるものとし、責任追及も行っていない。
    • 以下は上陸後の3月1日15時50分および54分に、海軍に対して今村が送った謝辞である[13]

二月二十八日夜貴戦隊海戦ノ赫々タル戦果ヲ慶祝シ併セテ当軍主力ノ戦闘ニ対スル献身的【一字不明】協力ヲ深謝ス

— 第16軍司令官今村均陸軍中将(第5水雷戦隊・第7戦隊司令官に対し)
  • 今村は文学少年であり、陸軍士官学校時代から聖書や『歎異抄』を愛読していた。部下にもしばしば読むことを薦めていた[14]
  • 漫画家水木しげるは、兵役でラバウルに居た際に視察に来た今村から言葉をかけられたことがある。その時の印象について水木は「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と評している[15]
  • 国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)が、産経新聞フジテレビの意向で本拠地を明治神宮野球場に隣接する第2球場に移転しようとした際、日本学生野球協会が反対の意向を表明、国会でも問題となり、更には右翼団体までもが動くという状況の中、反対派に担ぎ出されたという[16]
  • 小説家の司馬遼太郎がその著作で乃木希典を軍事的無能と評したことに対して、今村は読売新聞に「乃木将軍は無能ではない」と題する文章を寄稿している。
  • 今村によるジャワ占領下の軍政について、現在でもインドネシアの歴史教科書にも掲載されて評価を受けている。
  • 戦陣訓島崎藤村などの意見を入れながら作成した。後に、よい話を入れようとし過ぎて長過ぎるものになったことが失敗であったと述懐している。
  • 自衛隊で陸将補となった冨澤暉は今村から「ラバウルのことが一段落した後、責任を取って自決しようとしたが薬が古くなっていて死ねなかった。」との証言を聞いたと話している。[17]

著書

  • 『今村均回顧録』 正・続 (芙蓉書房出版、新版1993年)
入獄中に書き始め、出獄して4年後に完成した。様々な版で刊行された。

今村均に関連する書籍

脚注

  1. ^ この時の学科試験で今村と机が一緒になったのが本間雅晴であった。これが親友となるきっかけとなり、以降も駐英武官時や戦時に一層本間と親交を深める事となる。
  2. ^ 夜尿の傾向はその後も続き、それに伴う睡眠不足に生涯悩まされることになる。
  3. ^ 陸軍大学校卒業後、しばらくして今村自身が当時の岩尾教官に会い、事を尋ねてみると「(教官の集まりにおいて)あそこまで居眠りをしてしまっているものの、成績はすこぶる良く本人も寝たくて寝たいわけではなさそうだ、もしかしたら何か病気持ちなのだろう。という結論に達して特に叱る事はしなくなった」と事の真相を教えられ、今村は教官達に感謝した。
  4. ^ 同期生には本間雅晴や東條英機がおり、本間は3番、東條は11番の成績で卒業した。
  5. ^ この時杉山から「バターン攻略に難航した本間雅晴軍司令官を大本営は更迭する予定である」と聞かされた際に、今村は杉山に対し「バターン攻略の難航は大本営の認識・指導不足に因るところが多く、兵力不足の状態でバターン占領を急かされてしまった不遇の本間にのみ責任を被せるというのは酷すぎる。」と大本営を鋭く批判し、本間を強くかばい杉山をある程度軟化させた。
  6. ^ 左遷に近いものであり、これは杉山参謀総長の叱責がその遠因でないかという説もある。後任の原田熊吉中将は今村とは逆に、強圧的な統治を行ったため、ジャワでは抗日ゲリラの動きが活発になった。
  7. ^ 今村着任時の夕食会で「大本営がラバウルの陸海共同作戦を担当する司令官が君(今村)だと聞いた時は、誰だか同じ様なものの何だか安心なような気がした。遠慮や気兼ね無しに話し合えるからな」と陸海軍の側近らの前で話した。
  8. ^ 早々から自給自足を提唱していた今村ら陸軍に対し、海軍は当初は冷淡な対応であったが、戦局悪化に伴い作物の栽培に関して陸軍に教えを請う事になる。
  9. ^ 第8方面軍経理部部員だった主計大尉によれば、敵機の数は1919年1月2979機、2月2732機。
  10. ^ これらの為に米軍が失った兵力は300名程度であった。C.Wニミッツ著『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社 p196
  11. ^ 本来、オーストラリア軍は戦時中の汚名を雪ぐために何としても今村を死刑にしようとしたが、戦時中の今村の軍政、軍事指揮の中には死刑にする口実を見出せなかった為に無理矢理罪名を被せて何とか懲役刑にしたという。一説には今村を死刑にすることによって現地住民が蜂起することを恐れたともいわれる。
  12. ^ 今村が戦後連合軍に囚われた際、スカルノを指導者とするインドネシア独立軍による救出作戦の計画があり(今村本人が謝絶)、現地住民の多くは裁判で今村を擁護した。また今村は部下の裁判に率先して弁護に赴いては「戦時中の全ての責任は自分にある。部下には責任は全く無い」旨の証言を繰り返して部下を擁護し、それにより刑が減軽されたり無罪になった部下も多かった。
  13. ^ 第5水雷戦隊司令部「昭和十七年一月一日~昭和十七年三月十九日 第五水雷戦隊戦時日誌」 アジア歴史資料センター、Ref.C08030119100
  14. ^ 『歴史街道』2000年9月増刊号
  15. ^ 水木しげる「カランコロン漂泊記」小学館文庫
  16. ^ 『ヤクルトスワローズ球団史』徳永喜男・元同球団代表
  17. ^ 『文藝春秋』2014年12月号「巻頭随筆」

関連項目

外部リンク


軍職
先代
安藤利吉
第5師団長
第11代:1938年11月9日 - 1940年3月9日
次代
中村明人
先代
-
第23軍司令官
初代:1941年6月28日 - 同11月6日
次代
酒井隆
先代
-
第16軍司令官
初代:1941年11月6日 - 1942年11月9日
次代
原田熊吉