井上毅
井上 毅 いのうえ こわし | |
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生年月日 | 1844年2月6日(天保14年12月18日) |
没年月日 | 1895年3月15日 |
称号 | 子爵 |
第10代 文部大臣 | |
内閣 | 第2次伊藤内閣 |
在任期間 | 1893年3月7日 - 1894年8月29日 |
第2代 法制局長官 | |
内閣 |
第1次伊藤内閣 黒田内閣 第1次山縣内閣 |
在任期間 | 1888年2月7日 - 1891年5月4日 |
井上 毅(いのうえ こわし、天保14年12月18日〈1844年2月6日〉 - 明治28年〈1895年〉3月15日)は、日本の武士、官僚、政治家である。子爵。法制局長官、文部大臣などを歴任する。
概説
肥後国に熊本藩家老長岡監物の家臣飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になる。必由堂、時習館で学び、江戸や長崎へ遊学。明治維新後には開成学校で学ぶ。翌年に明治政府の司法省に仕官、フランスに留学。帰国後に大久保利通に登用され、その死後は岩倉具視に重用される。明治十四年の政変では岩倉具視、伊藤博文派に属する。
安定政権を作れる政府党が出来る環境にない現在の日本で議院内閣制を導入することの不可を説いて、ドイツ式の国家体制樹立を説き、国学等にも通じ、伊藤とともに大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語、軍人勅諭などの起草に参加した。
生涯
肥後国に熊本藩家老・長岡監物の家臣飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になる。熊本藩家老である米田家の家塾必由堂、ついで熊本藩の藩校の時習館で学び、江戸や長崎へ遊学し、明治3年(1870年)には開成学校で学ぶ。翌年に明治政府の司法省に仕官し、フランス語ができたためフランスに留学、帰国後に大久保利通に登用される。大久保の死後は岩倉具視のブレーンとして活躍、太政官大書記官を務める。
明治9年(1876年)に記した「憲法意見控」では、これから制定する憲法は聖徳太子の十七条憲法とは異なるものとし、欧米諸国の法制度だけを問題視していたが、のちに小野梓の『国憲汎論』に触発され、政治のための国典研究の必要性に目覚め、国文学者の小中村清矩、落合直文、増田于信らと交わり、小中村義象を助手として、『古事記』、『日本書紀』以下の六国史、『令義解』、『古語拾遺』、『万葉集』、『類聚国史』、『延喜式』、『職原鈔』、『大日本史』、『新論』などを研究する。
明治14年(1881年)、有栖川宮熾仁親王の求めに応じ大隈重信と矢野文雄が憲法意見書を提出した際、岩倉から意見を求められるやいなや、福沢諭吉の『民情一新』を添えて大隈の意見書との類似を指摘、英国に範をとる憲法制度に反対した。同年6月に外務省雇の法律顧問、ロエスレルの協力を得て、「欽定憲法考」、「憲法意見第一」、「憲法綱領」などの調査書類を提出。漸進主義とプロイセン型国家構想を主張した。6月30日、伊藤博文を訪ね大隈排斥を提案するが説得できず、その後も書を送って憲法草案の大任にあたるよう懇請、伊藤の決心を促すため、この大事が他人の手に渡るならば自分は熊本に帰るまで、と述べる。その後、大隈排斥の多数派工作のため、宮島で療養中の井上馨を訪ね、彼を大隈排斥とプロイセン型憲法の早期制定論者へと豹変させ、伊藤への説得を依頼する。続いて薩摩閥の松方正義の説得に成功、黒田清隆・西郷従道ら薩摩派への工作を依頼する。この間、7月5日には岩倉の名で井上の憲法意見書が上奏されている。開拓使官有物払い下げ事件が報道されると、大隈・福沢らを政府内から排撃するため、大隈陰謀説の流布に加担し、結果として大隈と彼に属する官僚の罷免につながる(明治十四年の政変)。9月には伊藤博文から内閣制度改革案の起草され関係を修復した。
その後、伊藤博文のブレーンとして活躍し、明治15年に発布されることになる軍人勅諭の起草に関わる。さらに伊藤博文のもとで、伊東巳代治、金子堅太郎らと大日本帝国憲法の起草に参加、また皇室典範の起草にも関わる。
明治19年(1886年)末から明治20年(1887年)初めにかけて、小中村義象を随伴して相模・房総を訪ねた際、鹿野山登山中に小中村の示唆から『古事記』における「シラス」と「ウシハク」の区別に着目、のちに「シラス」の統治理念を研究する。
ボアソナードとの会見で、外務大臣・井上馨の不平等条約改正が、治外法権撤廃の代わりに外国人被告の裁判には外国人裁判官を半数以上任用することを条件としていると知り、これが日本の立法権・司法権の独立を侵すものであるとして反発を覚える。条約改正外交への国民の反発から民情不安が醸成され、明治20年12月に山縣有朋の提案で伊藤が保安条例による強権発動におよび、憲法制定のため努力したとしても政府と国会の衝突が不可避であり、憲法が空文化するとして辞表を提出する。これは憲法草案作成中の第1次伊藤内閣を危機にさらすこととなったため、伊藤は慰留に努めた。この条約改正問題は井上馨が辞職することで決着となる。
明治23年(1890年)には枢密顧問官となり、明治26年(1893年)発足の第2次伊藤内閣においては文部大臣を務める。
評価
保守的で中央集権国家の確立に尽力して政党政治に強く反対した井上ではあったが、法治国家・立憲主義の原則を重んじて、その原則で保障された国民の権利は国家といえども正当な法的根拠がない限り奪うことが出来ないと考えていた。そのため、これらを否定するような反動的な主張に対しては毅然とした態度で立ち向かったという。また、超然主義に対しても行き過ぎた議会軽視であると批判的であり、法制局長官としては議会に有利な判断を下すことも多かったとされている。
中江兆民は遺著「一年有半」の中で井上と白根専一を「真面目で横着ではなく、ずうずうしいところのない」と評して敵対者ながらその人物を高く評価している。
伊藤博文と井上毅
伊藤博文は徳大寺実則あての書簡で井上を「忠実無二の者」と評し、宮中保守派との対決のために自ら宮内卿を兼ねた際にも自分の側近から井上だけを図書頭として宮内省入りさせるなど能力を高く買い信頼もしていた。
だが一方で自分の信念に忠実な余り過激な振る舞いに出ることがあり、明治十四年の政変の際には井上が勝手に岩倉具視に対してドイツ式の国家建設を説いてこれを政府の方針として決定させようとした事を知った伊藤は井上に向かって「書記官輩之関係不可然」と罵倒(1881年7月5日付岩倉具視宛井上書簡)している。
また後年、井上馨の条約改正案に反対していた井上がボアソナードによる反対意見書を各方面の反対派に伝えて条約改正反対運動を煽ったために第1次伊藤内閣そのものが危機に晒されるなど、伊藤は井上によるスタンドプレーに悩まされることもあった。
系譜
関連項目
- 熊本市立必由館高等学校(敷地内に井上毅の生家跡や必由堂跡がある)
- 明治の人物一覧
- 熊本県出身の人物一覧
参考文献
- 木村匡著『井上毅君教育事業小史』安江正直、有田利雄、1895年1月
- 木村匡著『明治教育古典叢書 第2期31 井上毅君教育事業小史』国書刊行会、1981年4月
- ヨゼフ・ピタウ著『井上毅と近代日本の形成』時事通信社、1967年
- 海後宗臣編『井上毅の教育政策』東京大学出版会、1968年2月、ISBN 4130560735
- 坂井雄吉著『井上毅と明治国家』東京大学出版会、1983年9月、ISBN 4130300547
- 梧陰文庫研究会編『明治国家形成と井上毅』木鐸社、1992年6月、ISBN 4833221683
- 野口伐名著『井上毅の教育思想』風間書房、1994年2月、ISBN 4759908846
- 木野主計著『井上毅研究』続群書類従完成会、1995年3月、ISBN 4797106565
- 梧陰文庫研究会編『古城貞吉稿 井上毅先生伝』木鐸社、1996年4月、ISBN 4833222191
- 梧陰文庫研究会編『井上毅とその周辺』木鐸社、2000年3月、ISBN 4833222922
- 野口伐名著『文部大臣井上毅における明治国民教育観』風間書房、2001年2月、ISBN 4759912517
- 森川潤著『井上毅のドイツ化構想』雄松堂出版、2003年1月、ISBN 4841903127
- 渡辺俊一著『井上毅と福沢諭吉』日本図書センター、2004年9月、ISBN 482058894X
- 國學院大學日本文化研究所編『井上毅と梧陰文庫』汲古書院、2006年2月、ISBN 4762941700
- 齊藤智朗著『井上毅と宗教 : 明治国家形成と世俗主義』弘文堂、2006年4月、ISBN 4335160453
外部リンク
公職 | ||
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先代 山尾庸三 |
法制局長官 第2代:1888年 - 1891年 |
次代 尾崎三良 |
先代 河野敏鎌 |
文部大臣 第7代:1893年 - 1894年 |
次代 芳川顯正 兼任 |