二村忠美

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
二村 忠美
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県三潴郡大木町
生年月日 (1959-10-08) 1959年10月8日(64歳)
身長
体重
179 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1982年 ドラフト3位
初出場 1983年4月9日
最終出場 1993年5月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

二村 忠美(ふたむら ただみ、1959年10月8日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手外野手)。

来歴・人物[編集]

伝習館高校では投手で4番を打ち、1年秋は県南部大会決勝へ進むが柳川商久保康生と投げって敗退。社会人野球三協精機へ入社するが野球部が休部となり、九州産交に移籍。社会人では三塁手に転向。1982年都市対抗電電九州の補強選手として出場。同年に日本ハムファイターズからドラフト3位指名され入団。

1983年左翼手の定位置を得て打率.282、13本塁打、35打点の好成績を記録し、新人王を獲得。

1984年には規定打席(26位、打率.258)に到達。入団から4年連続で二ケタ本塁打を放つ等活躍した。

長嶋茂雄が解説者時代、日本ハムのキャンプ取材で彼を熱心に打撃指導していたシーンが、テレビの珍プレー番組でよく放送されていた。

1987年以降は打撃の低迷が続く。

1990年開幕後に岡本哲司との交換で横浜大洋ホエールズへ移籍。

1992年限りで戦力外となる。

1993年には日本ハムへ復帰したがその年限りで現役引退した。

引退後は地元福岡を拠点に日本初のスポーツ専門チャンネル、スポーツ・アイESPN野球解説者として放送開始初期から、福岡ダイエーホークス戦の解説を専属で行っていたほか、プロ野球マスターズリーグの福岡ドンタクズに所属した。

現在は熊本市で「FB野球塾」を設立し、小学生・中学生の野球教室を開いている。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1983 日本ハム 97 321 294 37 83 13 0 13 135 35 6 3 9 0 15 0 3 43 8 .282 .324 .459 .783
1984 124 430 388 51 100 19 1 12 157 50 10 3 13 4 23 0 2 76 5 .258 .303 .405 .707
1985 107 334 289 51 65 11 2 13 119 37 4 2 12 2 27 0 4 48 14 .225 .298 .412 .710
1986 89 307 281 33 70 11 1 10 113 30 4 6 3 3 15 0 5 45 9 .249 .296 .402 .698
1987 99 228 199 13 44 5 0 2 55 12 4 2 9 1 13 0 6 52 3 .221 .288 .276 .564
1988 75 223 191 13 37 3 0 5 55 20 2 2 14 0 18 2 0 30 5 .194 .263 .288 .551
1989 84 156 140 19 29 5 0 4 46 14 6 2 4 1 11 0 0 30 3 .207 .263 .329 .592
1990 大洋 31 85 73 5 16 4 0 2 26 9 0 0 1 1 9 0 1 9 2 .219 .310 .356 .666
1991 39 73 63 7 10 1 0 3 20 8 1 1 0 2 8 0 0 16 3 .159 .247 .317 .564
1992 10 12 9 1 1 0 0 0 1 2 0 0 0 0 3 0 0 4 0 .111 .333 .111 .444
1993 日本ハム 22 49 45 5 14 2 0 0 16 6 2 1 3 0 1 0 0 8 0 .311 .326 .356 .682
通算:11年 777 2218 1972 235 469 74 4 64 743 223 39 22 68 14 143 2 21 361 52 .238 .294 .377 .671

表彰[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 28 (1983年 - 1989年)
  • 39 (1990年)
  • 44 (1991年 - 1992年)
  • 00 (1993年)
同年に日本ハム復帰の際、背番号「007」を希望する(本人曰く、『ジェームズ・ボンドのような危険な雰囲気の選手になりたい』 - 当時のベースボールマガジンより)も「背番号を興味本位で扱われてはならない」とパ・リーグに却下される。この時、パ・リーグは、現役選手は「00・0~99」までと規定し[2]、その後セ・リーグも追従した[3][4]

脚注[編集]

  1. ^ 週刊ベースボール2012年4月16日号96ページ
  2. ^ この時点で「106」を着用していた谷良治投手(当時オリックス・ブルーウェーブ)は、一応の現役選手ながら事実上引退状態で(当時存在したNPBの選手年金の条件だった、10年以上の支配下登録を充足させるための措置)、打撃投手に専念していたため例外だった。
  3. ^ その後、2010年オフに背番号に関する規定が改定され、「100以上の3桁の数字」と規定されていた育成選手に対して007のような0で始まる3桁の数字でも可とされるようになり、2011年シーズンより巨人の育成選手の伊集院峰弘が日本プロ野球で初めて背番号「007」を着用している。
  4. ^ 同1993年6月29日、阪神の松永浩美は背番号を「2」から「02」に変更したい旨を申請し認められている(翌年移籍に伴い当シーズンのみの着用)。また、広島はカープアカデミーから入団した選手を支配下登録した際に、練習生時代からの100番台の背番号を着用し、カルロス・リベラ(109:1994年)とロビンソン・チェコ(106:1995年)が一軍出場を果たした。中日では中山裕章打撃投手から現役復帰した直後に「125」を着用していたが、一軍への出場選手登録時に「67」に変更した。セリーグでは2000年代までに順次改正されたため(明確な時期は不明)、「00・0~99以外の背番号を付けた支配下登録選手」で日本人扱いの選手(外国人枠の適用を受けない定住外国人を含む)が一軍出場したのは松永が唯一の事例となっている。また外国人選手を含めると、2002年のナタナエル・マテオ(広島)の「107」が最後となっている。ただし、育成選手がシーズン中に支配下登録された場合には、登録変更後の2桁の背番号のユニフォームの作成が間に合わずに育成時代の3桁の背番号のユニフォームで一軍公式戦に出場した事例があり、2023年5月24日には、中村貴浩(広島)が「123」で出場し(登録上は『97』に変更)、試合後にヒーローインタビューも受けるという事態が発生している。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]