久遠寺

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久遠寺

本堂、右奥は身延山山頂
所在地 山梨県南巨摩郡身延町身延3567
位置 北緯35度22分54.9秒 東経138度25分29.5秒 / 北緯35.381917度 東経138.424861度 / 35.381917; 138.424861座標: 北緯35度22分54.9秒 東経138度25分29.5秒 / 北緯35.381917度 東経138.424861度 / 35.381917; 138.424861
山号 身延山
宗派 日蓮宗
寺格 総本山
本尊 三宝尊
創建年 1281年(弘安4年)
開山 日蓮
開基 南部実長
正式名 身延山妙法華院久遠寺
札所等 日蓮上人霊跡
日蓮宗57本山
甲斐百八霊場108番
文化財 絹本着色夏景山水図(国宝)
絹本着色釈迦八相図(重文)ほか
法人番号 9090005005754 ウィキデータを編集
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祖師堂の御影
祖師堂の御影 衣替えの様子
本堂内陣
祖師堂(撮影:2006年2月)
三門(撮影:2006年2月)
五重塔外観
五重塔内部
菩提梯(2011年8月)

久遠寺(くおんじ)は、山梨県南巨摩郡身延町にある、日蓮宗総本山(祖山)。山号は身延山

歴史

文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、法華経の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した。

弘安4年(1281年)に十間四面の大坊が整備され、日蓮によって「身延山妙法華院久遠寺」と名付けられたという[要出典]。日蓮は弘安5年(1282年)9月に湯治療養のため常陸(加倉井)の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため身延山を下ったが、途中、信徒であった武蔵国の池上宗仲邸(現在の東京都大田区本行寺)にて病状が悪化したため逗留し、6人の弟子「六老僧」を定めて、同地において同年10月13日に死去した。「いづくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」との日蓮の遺言に従い、遺骨は身延山に祀られた。当地では足かけ9ヵ年の生活であった。

日蓮の身延山での生活は日蓮遺文に記されており、「人は無きときは四十人、ある時は六十人」とあるように、大人数で生活をしていたと考えられている。各地の信徒より生活必需品が多く届けられ、日蓮はこの身延山をインド霊鷲山に見立て、信仰の山として位置づけている。遺文の3分の2は身延山での生活する中で執筆されており、日蓮真筆の曼荼羅もほとんどがここ身延山で手がけられている。身延山は日蓮教団における最高の聖地であると位置づけられており、日蓮の遺骨は歴代の法主住職)により、日蓮の遺言通り今日まで護られている。

室町時代の文明7年(1475年)には、11世法主日朝により、手狭になった西谷から現在地に伽藍が移転され、戦国時代には甲斐国守護武田氏や河内領主の穴山氏の庇護を受け、門前町が形成された。江戸時代には日蓮宗が徳川氏はじめ諸大名の帰依を受け発展し、宗門中興三師と賞される日重・日乾・日遠のころ、身池対論を経て対立する不受不施派を排斥して確固たる地位を確立した。その後、日脱・日省・日亨の三師で壮大な伽藍を整えて盛期を迎える。文政4年(1821年)には火災で諸堂を焼失。その後復興されるも、明治8年(1875年)1月に西谷本種坊からの出火により再び伽藍や寺宝を焼き尽くしたが、74世日鑑の尽力とその後の法主等の力により現在に至る。

久遠寺には数多くの経典や典籍・書籍、聖教や古文書類(身延山文書)が所蔵されており、「身延文庫」として一括され身延山宝物館に所蔵されている。

現法主は92世内野日總法主(台東区瑞輪寺より晋山、潮師法縁)

伽藍

伽藍は前述のとおり明治8年の大火で焼失し、現在立ち並ぶ堂宇は再建されたものが多い。

  • 総門 - 久遠寺の最初の入り口(開会関)ここから聖域に入る。
  • 三門 - 間口5間、奥行2間、高さ7丈。日本三大門の1つに数えられることもある。二王門ともいわれ金剛力士を祀り、上層には十六羅漢を祀る。三門を入り右側には本多日生上人像、その横に宮沢賢治の句碑がある。左側には永田紀美(大映社長永田雅一の母)の銅像があり、その後ろに聖徳太子を祀る太子堂がある。三門より菩提梯までの間に日朝上人お手植えの杉並木がある。仁王像(身延町指定文化財)は伝運慶若しくは定朝作で鎌倉期の名作。
  • 菩提梯 - 全287段の石段。菩提=覚り、梯=かけはし。横の銅像は当時の地主南部実長(通称波木井公)。横の坂が男坂。その手前の坂が女坂。
  • 本堂 - 1985年(昭和60年)落慶。本尊は日蓮聖人真筆大曼荼羅本尊を木造形式にしたいわゆる立体曼荼羅で、釈迦如来像・多宝如来像・四菩薩像・不動明王像・愛染明王像・四天王像・普賢菩薩像・文殊菩薩像・日蓮大聖人坐像などからなっている。作者は日蓮大聖人坐像を除き慶派の流れをくむ江里宗平江里康慧親子である。(作者のwebサイト)冬季6時、夏季5時30分より朝の勤行が執り行われる。天井画の墨龍は加山又造の作。
  • 宝物館 - 本堂地下に久遠寺に残る数々の書物、掛け軸、法要道具等を展示している。木曜休館日。
  • 五重塔 - 現在の五重塔は3代目で2008年竣工、大成建設施工。2009年に落慶法要が行われた。初代の塔は加賀前田利家の側室寿福院の建立による。
  • 棲神閣祖師堂 - 日蓮聖人像を安置。申し込みにより開帳が行われる。明治14年建立、一部用材はかつての鼠山感応寺のもの。特には昭和天皇より下賜された「立正」の勅額あり。
  • 仏殿 - 仏殿では朝、昼12時、夕方3時からの勤行と特別法要を営む建物。
  • 釈迦殿・納牌堂 - 仏殿手前6階建の建物。本堂建立により釈迦堂を移した釈迦殿は6階にある。納牌堂は1階から5階までとなっており、全国の信徒の先祖の遺骨を安置してある建物。
  • 御真骨堂 - 日蓮の「御真骨」を安置。右側に七面大明神、左側に三十番神を祀っている。深草元政上人は「何故に砕きし骨の名残とぞ思えば袖に玉ぞ散りける」と詠っている。
  • 報恩閣 - 2002年(平成14年)立教開宗750年を記念し、信徒の受付業務、接待所として建立。2階は会議室。
  • 開基堂 - 日蓮を身延に招いた波木井実長を祀っている。身延町指定文化財。
  • 水鳴楼 - 歴代法主の住居。特に前庭が素晴らしいとされる。滝の上には永守稲荷を祀る。
  • 枝垂桜 - 有名な久遠寺の枝垂れ桜は毎年3月下旬~4月上旬にかけ境内に樹齢400年ともいわれる枝垂桜と久遠寺周辺数百本の桜が咲き乱れる。見物客、カメラマンが相当数来て、門前町の道路も大変渋滞する。
  • 祖廟 - 日蓮聖人の墓所と日蓮聖人が住んだ庵の跡がある。向かって右側の墓は久遠寺歴代廟。左側は六老僧日興上人、富木常忍師母、阿仏坊日得上人、法寂院日円上人(南部公)、お万の方水戸光圀久昌院、高松城主松平頼重側室寿光院、会津城主保科正之浄光院、刈谷城主三浦安次郎寿応院、加賀前田利家側室寿福院。
  • 奥之院思親閣 - 久遠寺裏山身延山山頂にあるお堂。日蓮は望郷の念おさえがたく、折にふれては身延山の頂上へ登り故郷房州(千葉県)安房の両親・師道善御房を思い回向した場所で古来は東孝閣とも呼ばれ現在は親を思うお堂思親閣と呼ばれている。また日蓮聖人自らお手植えと呼ばれている四本の杉も今でも育っている場所でもある。日蓮滅後、加賀前田利家側室寿福院の外護により堂宇が建立される。育恩の祖師と呼ばれる日蓮聖人像、六老僧像、参十番神、常護稲荷大菩薩、草分稲荷大菩薩、子安八幡大菩薩を祀っている。境内には京都深草元政上人が自らの髪の毛を埋めた元政塚がある。登山道には太田道灌墓所、各戦国武将墓所、鬼子母神堂、丈六堂、三光天子を祀る三光堂、日朗上人お手掘の井戸、養珠院お万の方寄進東照宮等がある。裏参道を下ると追分帝釈天を祀る感井坊、妙法両大善神を祀る十万部寺、七面山麓赤沢集落、身延山方面では妙石坊方面へ下ることが出来る。現在はロープウエイにて片道7分で標高1153mの山頂に着くため半分登山、半分ロープウエイという参拝者、登山者が増えてきている。晴れていると富士山、西伊豆、南アルプス、北岳、七面山、甲府盆地、八ヶ岳等が望める。元旦の御来光、春秋のダイヤモンド富士が鮮やかに望める場所でもある。平成23年11月思親閣境内に東日本大震災犠牲者の慰霊供養塔が建立された。

塔頭寺院

東谷塔中

西谷塔中

中谷塔中

久遠寺山内には芭蕉をはじめいくつかの句碑がある。

奥之院思親閣参道

七面山参道

  • 奴多山十万部寺
  • 宗説坊(妙法大善神)
  • 明浄院
  • 神力坊(伽藍房様) - 開山円教院日意。
  • 長徳山妙福寺(七面山鍵取り妙福寺)
  • 雄滝辨天堂日教教会(大本山中山法華経寺奥之院別院)
  • 肝心坊
  • 中適坊 - 開山蓮信法師。
  • 晴雲坊 - 開山善心院日修。
  • 神通坊
  • 安住坊(栃の木坊)
  • 七面山敬慎院 - 身延山の西方、標高1982メートルの七面山山頂近くに位置する寺(宿坊)。七面山はかつて修験道の山として知られた。敬慎院には七面大明神を祀る(法華経信者の守護神、身延山久遠寺の裏鬼門を守る神・身延流祈祷本尊)。特に春と秋の彼岸の中日には富士山頂上からの御来光が有名で当日朝は多くの参拝者、カメラマンで混雑する。登山口は山梨県早川町であるが、山頂一帯は身延町飛地になっている。毎年9月18日夜 - 19日朝まで久遠寺より法主が登山し例大祭を行なう。境内の裏には枯れることのない池があり、そのほとりには池大善神が古来祀られている。なお、七面山の裏は和端渓といわれる名の産地雨畑がある。

廃絶塔頭等

南谷塔頭


東谷塔頭

  • 林行坊
  • 忍脱坊
  • 成道坊
  • 了慶坊
  • 願成坊
  • 杉之坊
  • 春窓坊
  • 福泉坊
  • 南延坊
  • 学立坊
  • (真浄坊)
  • 善綱坊
  • 妙法堂


※真浄坊は明治7年(1874年)東谷の端場坊と合併。

中谷塔頭

  • 仙台坊
  • 松壽庵
  • 慶林坊

西谷塔頭

  • 常唱堂
  • 一円坊
  • 本応坊
  • 清閑坊
  • 仙応坊
  • 松玄坊
  • 正運坊
  • 凉池坊
  • 本学坊
  • 常経坊
  • 浄心坊
  • (感応坊)
  • 真善坊
  • 宗幸坊
  • 寂光坊
  • 清輝坊
  • 中山坊
  • 宗林坊
  • 宗賢坊
  • 見塔坊
  • 一行坊
  • 大運坊
  • 大心坊
  • 仁浄坊
  • 松林坊
  • 南向坊
  • 北之坊
  • 円教坊
  • 戒善坊
  • 中之坊
  • 佐倉坊
  • 妙善坊
  • 蓮信坊
  • 光精坊
  • 本種坊
  • 西之坊
  • 通感坊
  • 寂照坊
  • 常住坊
  • 円理坊
  • 実円坊
  • 大蓮坊
  • 善学院


※感応坊は明治7年(1874年)東谷の大林坊と合併した。
※至言坊は東谷の大林坊と合併した。明治時代初頭という。

上ノ山塔頭 

  • 長安坊
  • 本妙坊
  • 顕盛坊
  • 法薗坊
  • 瑞光坊
  • 芳心坊


七面山道

文化財

夏景山水図

国宝

  • 絹本著色夏景山水図 昭和30年6月22日国宝指定
唐物を積極的に輸入した室町幕府の三代将軍足利義満の収集した東山御物のひとつである山水図京都金地院に所蔵されている秋景山水図、冬景山水図とともに国宝指定。東山御物は幕府の財政窮乏に伴い散逸したものが多いが、当品も経緯は不詳であるが、寛文13年(1673)に遠江国浜松藩主の太田資宗から寄進されている。現在は東京上野の東京国立博物館に寄託されている。
縦118.5cm、横52.8cm。制作年代は中国、12世紀の北宋末代、あるいは対角線構図であることから13世紀の南宋代とも考えられている。画面中央に雄大なの木が描かれ、下辺の左隅には山間の小道にを持つ高士が描かれている。高士の衣冠が風にたなびいていることから、夕立を描いているものとも考えられている。金地院本の二図と寸法や絹質が共通し、上下にはそれぞれ「仲明珍玩」「廬氏家蔵」の鑑蔵印があり、将軍義満の「天山」重廊朱文方印が見られる。また、画風にも共通点が認められることから、失われた春景山水図とともに四季の風景を描く一連の山水画四幅のうちのひとつと考えられている。
作者を示す落款や印章がなく、『御物御画目録』には北宋皇帝徽宗の作とされているが、久遠寺本には伝記不詳の画家「胡直夫」の作とする伝承がある。

重要文化財

  • 絹本著色釈迦八相図 - 平成3年6月21日指定
鎌倉時代に盛んに制作された釈迦八相図のひとつ。根津美術館所蔵の1幅と一連の仏伝図であると考えられており、久遠寺本は3幅が現存している。
  • 宋版礼記正義 2冊 - 昭和15年5月3日指定
北宋の頃に成立した五経のひとつである「礼記」の注釈書である『礼記正義』の写本。上下二巻(上巻は原本の63~66巻、下巻は67~70巻を収録)。で、日本国内では国宝の足利文庫本(国宝)が知られているが、身延文庫本は昭和3年に徳富蘇峰(猪一郎)により「本朝文粋」などとともに発見された。刊記欄外部分には金沢文庫の黒印があり、金沢文庫旧蔵本であったと考えられている。
  • 本朝文粋(巻第一欠)13巻 - 昭和31年6月28日指定
平安時代の漢詩文集である『本朝文粋』の写本で、全14巻のうち巻第一が欠巻。
巻第十三に建治二年(1276年)の書写奥書があり、その他の巻もこの前後に書写されたものと推定される。各巻の本奥書によれば、身延本は鎌倉時代の建治年間に金沢文庫所蔵であった「文永写本」を基に書写されたという。これは北条時宗所持本で清原教隆の加点がある「相州御本」の写本で、身延本は第三写本にあたる。発起者は鎌倉時代に甲斐国守護であったと考えられている二階堂氏と推定されている。全巻に墨訓や朱点があり、清原隆教の加点した相州御本の原型を伝える写本として注目されている。

県指定文化財

  • 銅鐘 - 昭和34年2月9日指定
上帯上部が欠損している中世梵鐘。火災跡があり、銘文によれば旧巨摩郡大井庄最勝寺所蔵の梵鐘で、伝来した経緯には諸説ある。『甲斐国志』では武田征伐の際に織田氏により陣鐘として徴発されたとしており、ほかに水害による流出や最勝寺の経営事情から売却されたとする説や、庄司により寄進されたとする説などがある。佐藤八郎は諸説を検討し、陣鐘として徴発された後に河内領穴山氏により寄進されたとする見解を示している。
  • 銅鐘(朝鮮鐘) - 昭和35年11月7日指定
県内に残存する唯一の朝鮮鐘
  • 刺繍十六羅漢像 - 昭和58年3月10日指定
  • 紙本墨書弘決外典鈔 - 昭和35年11月7日指定
  • 版本法華経 7巻 - 昭和48年7月12日指定
提婆達多品を欠くものの明代翻刻本の舶載品。墨書折本。各巻は桐箱に収められ、奥書によれば戦国時代の天文19年(1550年)に武田晴信(信玄)により奉納されたもの。天文年間は信濃侵攻を本格化させている時期でさかんに諸宗寺社への納経が行われており、武田家と日蓮宗寺院の関係を示す資料にもなっている。

町指定文化財

  • 釈迦如来立像 -昭和44年9月12日指定。本師堂奥殿安置。鎌倉時代の像。(身延町史)
  • 丈六釈迦像 -昭和44年9月12日指定。丈六堂安置。江戸寛永年間、京都鳴滝三宝寺の中正院日護の作。
  • 三光堂金銅釈迦如来坐像 -昭和41年6月1日指定。露仏。江戸時代に京極高勝から寄進されたもの。
  • 三門二王尊像 - 昭和44年9月12日指定。伝・運慶もしくは定朝作とされるがネット上では運慶作とされることが多い。おそらくは運慶の真作ではなく迫力のある像であるがゆえに伝運慶作を称したと考えられる。六浦平次郎入道日荷が一夜にして鎌倉称名寺から運んできたと伝える鎌倉時代の名作。(以上いずれも身延町史による)

主な行事

  • 1月1日午前4時 - 新年祝祷会
  • 1月1日~3日 - 新春特別加持祈祷
  • 1月13日午前10時 - 御頭講会・曳馬式 - 祖師堂
  • 2月3日午後1時 - 節分会
  • 2月15日午後1時 - 釈尊涅槃会 - 本堂
  • 2月16日午後1時 - 日蓮聖人降誕会 - 祖師堂
  • 3月彼岸中日午後1時 - 春季彼岸施餓鬼法要
  • 4月6日~8日午後1時 - 釈尊御降誕会
  • 4月28日午後1時 - 立教開宗会
  • 5月3日~5日午後1時 - 千部会
  • 6月1日午後6時 - 祖師堂御更衣式(夏衣)
  • 6月15日~17日午後1時 - 身延山開闢会
  • 6月中旬日曜日午前9時 - 御入山行列
  • 7月16日午後1時 - 盂蘭盆施餓鬼供養
  • 8月18日午後1時 - 英霊施餓鬼供養
  • 9月12日午後1時 - 龍口法難会
  • 9月彼岸中日午後1時 - 秋季彼岸施餓鬼法要
  • 10月1日午後6時 - 祖師堂御更衣式(冬衣)
  • 10月11日~13日午後1時 - 宗祖御会式大法要
  • 10月12日午後5時 - 万灯行列
  • 10月25日午後1時 - 身延山開基法寂院日圓上人報恩会
  • 11月中旬の日曜日 - 七五三祝祷会
  • 12月31日 - 歳末読誦会

雰囲気

日蓮宗総本山として山梨県及びその周辺地域を代表する観光地ではあるが、極端に観光地化されているということはなく、「信仰の山」という雰囲気を湛えている。 伽藍内のトイレなどの清掃は若い修行僧達が担当している。廊下等で参拝者と擦れ違う際に、僧侶の挨拶が徹底されている点は特筆される。

人物

  • 日蓮(開山)
  • 日向(二世)
  • 日進(三世)
  • 日善(四世)
  • 日台(五世)
  • 日院(六世)
  • 日叡(七世)
  • 日億(八世)
  • 日学(九世)
  • 日延(十世)
  • 日朝(十一世)
  • 日意(十二世)
  • 日伝(十三世)
  • 日鏡(十四世)
  • 日叙(十五世)
  • 日整(十六世)
  • 日新(十七世)
  • 日賢(十八世)
  • 日道(十九世)
  • 日重(二十世)
  • 日乾(二十一世)
  • 日遠(二十二世)
  • 日祝(二十三世)
  • 日要(二十四世)
  • 日深(二十五世)

交通アクセス

七面山へのアクセス

自家用車なら登山口まで乗りつけ麓に駐車して上る、電車では身延駅からバスかタクシーで七面山登山口下車。登山口からは全行程を徒歩で登る。登山道は険しく急坂ではある。冬場の参拝参籠は寒さが厳しく参道が雪道であるため要注意。

宿坊での食事は精進料理のみで、肉魚等の持ち込みも禁止されている。

関連項目

外部リンク