久我具通

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久我 具通
時代 南北朝時代 - 室町時代初期
生誕 康永元年/興国3年(1342年
死没 応永4年3月16日1397年4月13日
改名 具通 → 紹侃(法名)
別名 久世太政大臣
官位 従一位太政大臣右近衛大将
主君 光明天皇崇光天皇後光厳天皇後円融天皇後小松天皇
氏族 村上源氏久我家
父母 父:久我通相、母:葉室長隆の娘
徳大寺公清の娘
通宣
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久我 具通(こが ともみち)は、室町時代の公卿。従一位太政大臣久世太政大臣と号す。父は太政大臣久我通相。母は権大納言葉室長隆の娘。

経歴

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

康永3年/興国5年(1344年)1月5日、叙爵。同年7月29日、侍従に任ぜられる。康永4年/興国6年(1345年)8月16日、従五位上に昇叙。貞和3年/正平2年(1347年)1月5日、正五位下に昇叙。貞和4年/正平3年(1348年)4月17日、従四位下に昇叙。同年12月24日、左少将に任ぜられる。観応元年/正平5年(1350年)3月29日、出羽介を兼ねる。文和2年/正平8年(1353年)4月23日、従四位上に昇叙。文和3年/正平9年(1354年)10月22日、正四位下に昇叙。文和4年/正平10年(1355年)、出羽介を去る。同年8月13日、右中将に転任。

文和5年/正平11年(1356年)1月6日、従三位に叙される。右中将は元の如し。また同年中に淳和院別当に補される。延文3年/正平13年(1358年)3月30日、信濃権守を兼ねる。延文5年/正平15年(1360年)3月13日、参議を経ず権中納言に任ぜられる。貞治元年/正平17年(1362年)5月7日、正三位に昇叙。貞治3年/正平19年(1364年)1月5日、従二位に昇叙。貞治4年/正平20年(1365年)12月30日、権大納言に転任。貞治5年/正平21年(1366年)1月、元日節会白馬節会内弁を務める。応安3年/建徳元年(1370年)1月6日、正二位に昇叙。応安6年/文中2年(1373年)12月27日、淳和奨学両院別当に補される。永和5年/天授元年(1379年)1月、元日節会の内弁と叙位執筆を務める。康暦3年/弘和元年(1381年)、叙位執筆を務める。永徳3年/弘和3年(1383年)1月16日、足利義満が淳和奨学両院別当となる。

永徳4年/元中元年(1384年)3月23日、右近衛大将を兼ねる[1]。12月27日には右馬寮御監の宣下がある。嘉慶2年/元中5年(1388年)5月26日、右大臣に任ぜられる[2]。同年2月9日、康応への改元があり上卿を務めた。また、同月中に右大将を辞した。明徳2年/元中8年(1391年)1月6日、従一位に昇叙。明徳3年/元中9年(1392年)3月28日、右大臣を辞した。

応永2年(1395年)6月3日、太政大臣に任ぜられる[3]。応永3年(1396年)2月3日、太政大臣を辞した。同月25日に出家し、法名を紹侃とする。応永4年(1397年)3月16日、薨去。

淳和奨学両院別当と源氏長者

平安時代末期の源雅通以来、淳和院別当・奨学院別当・源氏長者には村上源氏の公卿が就任してきたが、足利義満に取って代わられることになった。具通の次の通宣の時代には足利義持から圧迫を受けて、村上源氏久我家は苦難の時を迎えるのである。

脚注

  1. ^ 足利義満が右大将を兼ねていたが、義満が辞した直後の右大将兼任である。
  2. ^ 足利義満が左大臣を辞したことに伴う人事異動である。
  3. ^ 足利義満が太政大臣であったが、義満が辞した直後の任太政大臣である。

参考文献

  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 文和5年/正平11年(1356年)に具通が非参議従三位となった時以降の記事。
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「久我具通」の項。
  • 久我家文書』 國學院大学所蔵
  • 岡野友彦『中世久我家と久我家領荘園』 続群書類従完成会
  • 横井清 『室町時代の一皇族の生涯 - 『看聞日記』の世界』、講談社学術文庫