丹道夫
丹 道夫(たん みちお、1935年12月15日 - )は日本の実業家。名代 富士そばを運営するダイタングループの創業者である。
概要
生い立ち
1935年(昭和10年)に名古屋市で生まれ、生後すぐに父親が死去したため、母親の実家のある愛媛県大保木村(現在の西条市)に転居。村立大保木小学校、村立大保木中学校、愛媛県立西条高等学校(定時制)を経て、東京栄養食糧専門学校を卒業[1][2]。
複数の職に就き上京と帰郷を繰り返したが、4度目の上京で給食センター勤務を経て、埼玉県川口市で主に工場向けの弁当屋を開業、順調に伸びていった[1][3]。
実業家として成功
1964年(昭和39年)、「不動産業をやらないか」と友人から丹へ誘いの電話があった[1]。その当時は一大不動産ブームで、賛同し弁当屋を弟に任せ[2]、そこから捻出した資金を元に不動産業の共同経営に乗り出す[1]。
一時期は倒産寸前まで追いつめられたが、別荘地が売れ出してからは、あっという間に会社は急成長、続いて巨大バーのチェーン店経営も手掛けて売上は1日で1億円を超えるなど、成功した青年実業家へと変身した[1][3]。その時期は「月収500万円、美酒美食におぼれた」事もあった[3]。
「富士そば」をオープン
事業の一つとして1966年(昭和41年)、富士そばの原点となる日本初24時間営業の立ち食いそば店を渋谷にてスタートした[2][4]。なお、「1964年富士そば1号店」と説明している本人インタビュー記事もある[5]。ちなみに同店舗は2016年1月末で閉店している[6]。
経営は順調に進んでいたが、際限のない事業の拡大に疲れた事や、意見の相違から共同経営者たちと袂を分かち、1972年(昭和47年)ダイタンフード株式会社を設立、立ち食いそば店「富士そば」とレストラン6店を引き継いで独立[3]。しかし、丹自身病気で入院したり、母が重病になったり、新事業の住宅販売が影響し資金繰りに苦労するなど、丹自身の環境から気持ちに迷いが生じていたが心境の変化で吹っ切れて、事業の要だった立ち食いそば店「富士そば」の経営に専念[3]。2000年代後半に一日5万食を誇る業界トップクラスの立ち食いそばチェーンとなった[5][7]。
2006年(平成18年)8月に、丹の自叙伝『らせん階段一代記』が発売された。店舗での購入も可能[4]。
演歌と丹道夫
- 丹は昔から作詞が好きで趣味的に書いていたが、会社が自分の設定した目標の80%に達したら本格的に作詞の勉強をしようと考え、55歳の時に50店舗達成したことを機に、六本木の作詞学校に入学[1][3]。
- 1997年(平成9年)に作詞家「丹まさと」としてデビューしており、2007年(平成19年)時点で計31曲に携わった[1][3]。店内に自分が作詞した曲のポスターを大きく店舗に貼っており、そのCDやカセットテープを店舗にて販売している[4]。
- 2006年(平成18年)12月には、『演歌魂?富士そば編?』というコンピレーション・アルバムも発売された[8]。
著書
出典
- ^ a b c d e f g 「読みびとしらず:都築響一」『らせん階段一代記』 (インターネット・アーカイブ)紀伊國屋書店公式サイト
- ^ a b c 【社長の私生活】ダイタンフード社長 丹道夫(インターネット・アーカイブ)- ゲンダイネット 2006年8月21日
- ^ a b c d e f g 演歌に癒やされ、そばに真心 (参考資料)- 読売新聞ジョブサーチ 2007年3月28日
- ^ a b c 「社長の人生観」 富士そば公式サイト
- ^ a b 特集ワイド:丹道夫・「富士そば」社長、CDアルバム発売 人生のそばに演歌を(インターネット・アーカイブ) 毎日新聞東京 夕刊 2007年2月2日
- ^ 渋谷店閉店のお知らせ。 - 富士そば・2016年1月27日
- ^ 「お店のご紹介」 興和物産公式サイト
- ^ 家にいながら“富士そば”気分! コンピ盤『演歌魂?富士そば編?』登場 - CDジャーナル 2006年11月30日